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第37話 春雨スープ
「俺、あそこバイトなんです」
彼が笑った。自分の手元を見てクスッと笑って、その手にあるパンフレットをじっと見つめた。水泳大会、社会人の部って書いてある。
「前は水泳でけっこう良い成績出してたんです。あそこじゃないけど、系列のスポーツクラブの所属選手として、全国大会にも出たりして……夢は、まぁ、水泳選手だったりなんかして」
パンフレットに写っている選手はゴーグルをつけているから顔はわからないけれど、激しい水飛沫、力強く振り上げられた手、きっとすごく速く泳げるんだろう。まるで魚みたいに、イルカみたいに、水の中をぐんぐん進む。
睦月もそうだったんだ。あの大きな手で、あんなふうに水を掻き分けて、誰よりも早く突き進んでいく。
「競技の最中に背中を痛めたんです。背部捻挫、肉離れみたいなものです。ものすごい激痛でその場で意識が一瞬飛んで」
「水の中で?」
「そう」
すぐに思い浮かんでしまった言葉に身が竦みかける。海に飲み込まれて、その言葉、単語ひとつで俺は最愛の人を一度失ったから。
「ごめん。怖いですよね」
――溺死。
「ごめんね」
彼の手が温かかった。痛いくらいに握り締めてくれて、痛いから、俺はここにいるってわかった。一瞬だけだけれど、たしかに「あれ」が俺を飲み込んで、真っ暗な底に今、突き落としたんだ。目の前が真っ暗に、なったから。
「そ、れで、睦月は?」
「水は……怖くならなかったです。本当に子どもの頃から、イルカとかの生まれ変わりなんじゃないかって言われるくらい、水の中にいるのが好きだったから。でも」
泳ぐのが怖くなった。本気を出して、また水の中で全力で手足を動かした瞬間、また、あの痛みに襲われて、沈むんじゃないかって。そう思ったら、本気で泳げなくなった。
「俺、あの怪我をした時に、ものすごい音がしたんです。何かが切れる音。その瞬間、あれ? 俺って、やっぱ水の中じゃ息できないんだ、って思ったんです。バカでしょ? 本気で水の中でも生きてける気がしてた。でも、そんなわけないだろって、音と一緒に突き飛ばされた気がした。見放されたって感じかな」
「……」
「でも、やっぱ、水泳、好きで、やめられなくて、本当に水泳のことばっか考えてたから、他に何もできなくて、再就職って言ってもなぁと迷って腐って、そしたら、当時コーチだった、今の俺の上司がバイトしてみないかって、言ってくれたんです」
水が怖いわけじゃないなら、水の中にいればいい。そしたらいつか本気で泳げるようになるかもしれないって、そう言われた。
「で、そこから、今のスポーツクラブでスイミングコーチしてました」
自分が練習していた、毎日のように通っていた場所、そこでのバイトはさすがに顔見知りもいて、色々事情を知っている人もいるから、やりづらいだろうと、上司の方が気を使ってくれた。
「バイトっていう形でずっと置いてもらってたんです。水から一回でも離れたら、残るのはあの時のショックだけだぞって。体力的なこともあると思います。全力じゃなくても水の中にいる感覚を離れて忘れてしまったら、もうきっとあの頃のようには絶対に泳げない。だから、バイトとして続けてました」
そしたら、生活費にも困らず、水泳を続けていられる。
「でも、バイトはもう辞めます」
「え?」
驚いてしまった。だって、今さっき、君が言ったんだ。バイトっていう形で置いてもらいながら、水泳に少しでも触れていたいって。辞めてしまったら、水泳から離れてしまう。君の大きな手はもう水の中を力強く進んでいけなくなる。
「だって、貴方のパートナーがアルバイトじゃ、カッコつかないでしょう?」
「……」
睦月が顔を上げて、ゆっくり笑った。優しくて、温かくて、そして、カッコいいってドキドキする笑顔。
「貴方の隣に立つ男がアルバイトで中途半端じゃ、不釣合いだから」
「……」
「だから、バイトは辞めます。そのための区切りをつけたいんです」
俺が恋をした人はなんてカッコいいんだろうって、見惚れてしまった。
「……二ヶ月後の、この大会を区切りにしたいなって」
「……」
「思ってます」
俺は、君に恋をしている。すごくものすごく強烈に。
子持ちだとか、同性だとか、四つも年上だとか、関係なく。ただ、君に恋をしている。
「俺、てっきり、誰かと結婚でもするのかと……」
「俺がですか?」
だって、そうだろ? 他に何が考えられる? あの会話から連想できたのはそれしかなかったよ。何度考えても、誰かと結婚をしてしまうんじゃないかって。君を誰かに取られてしまうんじゃないかって、怖かった。
俺との恋は君に我慢を強いるかもしれない。その我慢をいつか君がいやだと感じてしまったらって、考えるだけで怖かったんだ。じゃあ、恋をしなければいい? 無理だよ。こんなに好きな人を、この好きを壊して、粉々にして、捨てるほど硬くて強い理由を俺は思いつけない。
「したい、ですけどね」
「っ」
この好きよりも強いものを俺は、知らない。
「貴方と、なら、すごくしたいです」
「っ」
手を、離して。お願いだから。ずっと、君が怪我で溺れかけたと聞いた時からずっと握ってくれていた手を離してよ。じゃないと、涙が拭えない。四つも上なのに泣いてたら恥ずかしいだろ。
「あとは、ないですか?」
「っ、な、にが?」
「あと、貴方を不安にさせてるようなこと」
「あるよっ」
たくさんあるんだ。
「なんです?」
「俺と、の、関係を続けるって、さ、伊都がいる。子どもがいたら、君は」
「俺、貴方の春雨スープが好きって言いませんでした?」
「そんなのっ」
「貴方の作る飯、めちゃくちゃ美味しいです。知ってます? 本当に美味いって。だから、朝飯も一緒に食べたいんです。三人で」
変な理由。君の胃袋の問題なの? でも、俺も、三人で食べるご飯が一番好きだよ。それは今に始まったことじゃなくて、もう随分と前、最初の頃からそう思ってた。だからとても大事な空間だった。
「あと、ないですか? 二人っきりの時にゆっくり聞いてあげられないから。今、言ってください」
急かさないでよ。今、ここで言ったら、勢いまかせに子どものワガママみたいなことを言いそうなのに。
「本当にわかってる?」
「わかってますよ」
「俺っ」
「同性です」
「それに」
「年上ですね。四つ上」
何度も、何度も、その言葉を思い浮かべたよ。君に恋をする前からも、君に恋をしてからも、もう数え切れないくらい。
「俺は伊都君、すごく好きです。とても大事に思ってます」
「っ」
「あとは?」
不安なんていつだってある。きっとこれからだって、小さいものから大きいものまでたくさんあると思う。
「ないですか?」
でも、この手を繋いでいたら平気だと思えた。水の底で俺を飲み込もうと何年も待ち構えている「あれ」からも守ってくれた大きな手。それと、伊都のことを「大事」だと言ってくれた優しい声。それともうひとつ。
あとひとつ、欲しいものがある。
それがあったら、きっと不安の波が来ても、俺は大丈夫。もうひとつ、君が、それをくれたら。
「待ってて」
手が離れた。そして、睦月は伊都のところに言って、宿題はどう? って、話かけている。伊都は楽しそうに文字をなぞって書く練習をしているみたいだった。
「ごめん。千佳志さん。伊都君、宿題、ちゃんとやってるかって見てきたんです」
「っ」
戻ってきた睦月が手をまた繋いで、もう君にことで胸がいっぱいで涙を拭うのも忘れてしまっていた俺の手を掴んだ。君が伊都の様子を見に言ってくれている間に拭えばよかった涙。
「泣かないで」
その涙を唇で拭って、濡れたまま、キスをしてくれた。今、どうしても欲しくて、子どもみたいにワガママを言ってしまいそうだったほど、欲しかった、君のキス。
「泣いてないっ、これは玉葱を切ってたから」
「愛してます、千佳志」
「っ」
君はやっぱり意地悪だよ。泣かないでって言うくせに、俺を泣かせる君は、やっぱり――。
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