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第40話 あるのはたったひとつの願い事
男同士のセックスなら、君と恋人になるってなった時に調べたんだ。ちょっとね。正直、びっくりしたよ。まぁ、なんとなくなら前から知っていたけれど、事細かには知らなかったから、ハウツーみたいな感じで「セックスの仕方」を説明されてるのを読んで、少しだけ身構えた。前準備もそうだし、そのセックスに関しての感想とかさ。
大丈夫なのかなって。俺もだけれど、君も、萎えてしまうんじゃないかって、思ったよ。身体のことだけじゃなくて、気持ちが萎れてしまうんじゃないかって。
「っあ……ン」
「千佳志さん、抜くのに、そんな声、出さないで」
だって、仕方ないよ。あんなに色々不安だったはずの、同性とのセックス、君とちゃんとできるかどうか躊躇っていたはずのセックスは、とても気持ちイイものだったんだから。
「キス、していい? ……千佳志さん」
そんなの訊かなくていいのに。君とするキスは俺にとってとても――
「千佳志さん? 何? なんで、笑ってるの?」
気持ちイイものばかりだ。
「千佳志さんってば」
「ん、だってさ」
面白いと思わない? 今の君の表情、すごく幸せそうなのに、こんなに触れ合うだけでも気持ち良くて、説明を聞いたら真っ青になってしまうような性行為だって、心地いいものばかりなのに、なんで、あんなに不安になるんだろうね。
なんで、不安になったんだろうって、今は不思議でしかたない。けっこう、深刻に悩んでたはずなのに、思い返せば、ただ好きすぎて不安になってるだけなんだから。
「言い忘れた」
「?」
「睦月が見たっていう、公園のベンチで一緒にランチしてたの、あの人、ママ友」
「……」
目を丸くして、よかった、そうだったんだ、って安堵の顔になった。
「君のことが好きなのに」
そう言って笑って、睦月の唇に激突するようにキスをした。きっと君をとてつもなく不安にさせただろうけれど、ほら、ね? 開けてみたらこんな感じだよ。
彼女、男友達に交際を申し込まれたんだ。で、それを断ったっていう話をあの時はしていただけ。君の背中を見かけた気がしたんだよ? 俺。実際にあの背中は本物だったんだけれど、あそこにいるはずのない背中を俺はちゃんと見つけられるくらいに君のことが好き。
「独身男性と子持ちの自分じゃ、続かないって、彼女は交際を断ったんだ」
「……そうなんですか?」
「俺は、その話を聞いて、睦月のことを思ってた」
怖かった。とにかくなんだかわからないけれど不安だった。飲み会に行ってしまう君は独身で、伊都のいる俺とはとても離れたところにいるような気さえした。とりとめのない不安、その一番奥にあるのは、とてもシンプルな願い事。そのひとつが叶わなかったらとても悲しいから、不安に駆られてた。
「ね、睦月」
「……」
「ずっと、一緒にいてね」
「……」
ただ、その願い事が叶って欲しくて、つかみ所のない不安に襲われてたんだ。
「睦月?」
照れて、困ってしまうかなと思った。いつもそうだから。真っ直ぐに好きだと告白すると、君は照れて困って、口元をその大きな手で隠しながら耳まで真っ赤にしていたから。
「ずっと、一緒にいます」
「……睦」
「貴方の隣にずっと、います」
静かで、厳かな、そして柔らかく包み込むような優しい声。
「っ」
とても丁寧に、キスをされた。ただ、そっと触れただけの君の唇。
「ぁ、千佳志さんが照れた」
「っ、もう」
だって、告白もキスも、まるで誓いみたいだったから。
「睦月」
「はい?」
「もうひとつ、お願い、しても、いい?」
もうひとつ、っていうと少し違うかもしれない。だって、このお願いも根っこのところには「ずっと一緒にいたい」っていう願いがあるから。
「あの……」
君から香る自分と同じジャンプーの香りがくすぐったい。鼻先も胸も、こちょこちょと柔らかい羽でくすぐられてるみたいな感じ。なのに、心地イイ。
「明日の朝、伊都君、びっくりするかな」
「飛び上がるんじゃない?」
伊都の穏かな寝息が聞こえる。スー、スー、ってとても心地良さそうな吐息。と、思ったら、少しだけ身じろいで、小さく唸って、俺じゃなくて、睦月の胸にぐりぐりと頭を押しつけ丸まった。
睦月はそんな伊都の背中を大きな手で撫でて、クスッと小さく笑った。
一緒に寝たいって、うちに泊まっていってって頼んだは俺だった。君と伊都と、三人で朝を迎えたいって。
「……狭いね。睦月、落っこちない?」
(大丈夫です)
こっそりとした声。平気だよ。伊都はそのくらいじゃたぶん起きたりしないから。
初めて、君と一緒に寝る。君と夜をすごしたことは何度もあるけれど、そんな時でも自宅アパートに帰っていた。道の向いでとても近所だったし、伊都がいるから、夜はそれぞれのベッドで眠っていた。
「おやすみ、睦月」
小さく丸まって眠る伊都の背中をそっと、大事なものを撫でるようにさすっている大きな手。その手は背中を大切に抱き締めたまま、そっと小さな伊都を乗り越えた。少しだけ揺れるスプリング。
(おやすみなさい、千佳志さん……と、伊都君)
君と「おやすみのキス」を何度も玄関でしたけれど、ベッドでするのは初めてで、とにかく嬉しくて仕方ない。
夜は苦手だった。子どもの伊都を寝かしつけてから、たったひとりになるとさ、一日中目まぐるしく動いて、あぁ、少しゆっくりしたい、ひとりになりたいって思うこともあるのに、夜にひとりになると訪れるのは安堵でも癒しじゃなくて、不安だけだった。早く朝にならないかなって、いつも、窓の隙間から差し込む光を待っていた。夜は、好きじゃなかった。
なのに、君と一緒なら、何もかも、あの夜でさえ真正面から振り返ることができて、そして、夜を愛しく感じることもできるんだって、たまらなく嬉しかったよ。
「ほえ? あれ? コーチだぁ、えー? なんで、コーチがっ? ここにいるんだよおおお! コーチだぁ!」
朝一番、耳に飛び込んできたのは伊都の賑やかな声。
「びっくりした? 伊都君」
次に聞こえてきたのは、睦月の楽しそうな声。そして――
「ねぇ、ちょっと、ふたりとも、寝癖、すごいよ」
俺の楽しそうな笑い声だった。
それから二週間後、スイミングのレッスンに伊都と行ったら、睦月がいた。今日、これからコーチとして伊都と一緒に泳ぐ睦月はジャージを着てた。
掲示板のあたりを見つめている。声をかけるのを躊躇うほど真剣な横顔。
「こんにちは、佐伯さん」
ここではコーチと生徒の保護者だから、宮野コーチと佐伯さん。
「こんにちは」
「今日……」
真っ直ぐで強い眼差しをしていた。
「今日、大会の申し込みしました」
「……」
「二ヵ月後、の大会に向けて、色々迷惑をかけるかもなんですけど、でも」
「応援します!」
初めて見た時の君は柔らかくて温かくて、水の中にいても君となら凍えることはないだろうって思えた。でも、今の君は凛々しくて、力強くて、どんな冷たく冴えた水の中でさえ、突き進んでいきそうな、すごく、ものすごくカッコいい表情をしてる。
「伊都と、応援します!」
「がんばれー!」
とてもカッコよくて、ドキドキして、指先から熱がじわりと広がる感じ。今、この瞬間、また、君にもっと恋をしたんだ。
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