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第41話 できること、ふたつ
睦月は大会に向けて身体を作り直すところから始めた。俺も少しくらい手伝いたくて、伊都も巻き込んでアスリート向けのコンディションを整える食事を作ってみたり。本当はマッサージとかもしてあげられたらいいんだけど、一度背中を痛めてしまっていてクセになりやすいから、ちゃんとしたところでケアしてもらうのがいいだろうって。
レッスンの、つまりはバイトの量を変えずに、仕事の後に水泳のトレーニング。フィジカルトレーニングはレッスンの合間に、上司の許可をもらって。
だから、スポーツクラブのスタッフはもちろん、レッスンを受けている側の人も何人か、睦月の挑戦を知っている。イケメンだから、人気があって、皆が注目してる。そんな人が自分の恋人なんだ、とか今更ながらに体感してみたり。恋人として身体のことを心配してみたり。バイトにトレーニングに、身体がおかしくなってしまいそうで心配で仕方がない。少しくらい休めいいのにって、休みなよって思うよ。思うけどさ。
「いーと! 今日は、なんだっけ?」
意気揚々とスポーツクラブへ向かう伊都の背中が大きく感じられた。
「クロオオオルウウウ! 手は、こうっ!」
伊都もすごく成長した。睦月が頑張ってる姿を見て、今まで以上に頑張ってて、ここに来た最初の頃を知っている他のコーチ陣もびっくりしてしまうほど。来年、二年生の夏に水泳の授業の時とか、モテるかもなんて、親バカだけれど楽しみにしていたりして。
「うん。伊都も頑張れ」
「はい! 頑張る!」
歩きながら、習ったばかりのクロールを腕だけ見せてくれた。
「今日は、コーチ、ご飯一緒に食べてくれるかなぁ」
「……どうだろう。今日もこの後、トレーニングって言ってたよ」
「そっか。頑張る!」
伊都がガッツポーズをしてみせた。
最近、毎日は三人で食べられてない。でも、食べてるものは、一緒だよ。伊都は学校があるから、先に俺と一緒に食べることがあるけれど、睦月の分も作っておいてる。トレーニングと、そのあと、マッサージ。睦月の帰りはグンと遅くなった。うちで食べていくこともあるけれど、食べると眠気に襲われるから、翌日、コーチのバイトが遅番の時は自宅アパートでご飯を食べることもある。その時はタッパにつめて持たせてさ。
一緒に食べたいけれど、もっと、一緒にいたいけれど、睦月のあの横顔を見たら、少し、ゆっくりでもいいんじゃないって、言えない。真剣に何かに挑もうとしている睦月が心配だけれど、応援もしたくて。ガンバレッって言葉しか出てこなくて。
伊都はそんな睦月の背中をいつも見上げて、目を輝かせていた。だからクロール、すごく上手くなってる。
「うおおおおお! 俺もがんばるー!」
「伊都! 廊下を走らないように! ぶつかるから!」
伊都がスイミングプールの塩素の匂いになぜか滾ったのか、叫びながら更衣室へと飛び込んで行った。もう慣れたものだ。友達もたくさんできて、週一のレッスンで怖気づいたり、できないと首を横に振ることはなくなった。
先週、新しい子が入ってきたんだ。水着がスポーツクラブのユニホームじゃないから、体験レッスン。初めてのプール、初めての子どもたち、全部が新しくて緊張していたその子のところに行って、一緒に泳ごうって手を引いて笑ってた。それは、ここのプールに来たばかりの伊都に睦月がしてくれたことばかりだった。
「佐伯、千佳志さん、でしょうか」
「え?」
背後から確認するように呼ばれて、驚きながら振り返ると、初老の男性がひとりそこにいた。睦月たちスタッフが着ているのと同じジャージを来ているから、ここの人なんだろう。細身だけれど、痩せているのとは違う感じ。引き締まってるって言ったほうが近いかもしれない。
「ここのスポーツクラブの栗林と申します。スイミング部門の」
「ぁ」
きっと、この人だ。睦月の「上司」っていうのは。気がついた俺を見て、わかったんだろう。栗林さんは、少しいいですか? と、尋ねて、そしてにこりと笑った。
「宮野のやる気にさせてくださったこと、感謝してます」
「ぁ、えっと……私は、何も」
どこまで知ってるんだろう。恋人って、異性だったら気軽には無理でも、まだ言えるはず。けれど、同性だから、そう簡単には言えない、よな。
「あはは。いいですよ。その辺のことを尋ねたくて声をかけたんじゃないですから」
「……はぁ」
っていうことは、つまりは、知っているんだろう。俺たちの関係を。
「伊都君、上手ですね」
「ありがとうございます」
「睦月もそうでした」
「……」
ちょうどその時、伊都たちがプールサイドにやってきたのが三階から見えた。保護者陣から少し離れたところで、俺と栗林さんも並んで、プールの様子を見学している。
この人が、睦月に水泳を教えたのか。そして、怪我のことも知っていて、諦めようかと迷っている彼をここに引き止めた人。
「もしかしたら日本代表になれるかもしれないですよ?」
「伊都がですか? それは、ちょっと。でも、宮野さんは、そうだったんですか?」
「えぇ、なれたかもしれない。将来有望でした」
あの怪我までは。だからこそ、復帰の望みを持って、せめて水泳からは離れないようにとここのバイトを紹介した。
「すごかった。こいつは天才かもしれないと、本気で思いましたよ」
「……宮野、さんが」
「えぇ、手が大きいでしょ? あれは天性のものだ。ひとかきで水の中をグンと進める。脚力だけじゃなく全身、水泳に適してると思いました。けれど」
そこで栗林さんが眼下で子どもたちに何かを説明している睦月を見下ろした。そしてひとつ溜め息を零す。
「けれど、あの怪我が全部持っていってしまった」
「……」
「この前、あいつの泳ぎを見ました。あいつ、ちっとも見せたがらないから。他の水泳コーチに見てもらうだけでも、改善点見つけてもらえるのに」
「え? 彼、ひとりでトレーニングを?」
「えぇ」
知らなかった。俺はてっきり誰かに教えてもらってるんだと思ってた。だから、レッスンが全て終わってから練習してるんだって。
「見られたくない、んでしょうな。自分でもどこがどれだけ落ちてるのか、衰えてるのか、泳いでわかったはずだ」
「……」
「普通から比べたらそりゃ速くて上手いです。でも、現役のあいつはあんなもんじゃなかった」
「そんなに……」
睦月は教えてくれなかったけれど、現役選手だった時は大会新記録をひとりでずっと塗り替え続けていたんだって。日本新記録だって、あの調子ならいつか出せたかもって、コーチ陣が目を輝かせていた。
「秋の大会までに当時のコンディションには戻せないでしょう。見た限りでは無理だと思います。腕の回し方、肩甲骨も固まってる。充分なスピードはあの肩じゃ望めない。あの背中の筋肉じゃ足りない」
きっとこの人のほうが俺よりもたしかな目を持っていて、冷静にアスリートとしての実力を見て判断できるんだろう。俺は、泳ぎの方法さえ忘れてしまったただの一般人だ。栗林さんみたいなアドバイスはできない。できないけれど。
「でも、応援してやってください」
「……」
「あいつは、貴方にベストな泳ぎを見せたいと言っていた」
そのために今、必死になって泳いでる。
「俺っ! 応援します。あと、コンディション、戻るって」
アドバイスなんてひとつもできないけれど、でも、ふたつ、できることがある。応援ともうひとつ。
「信じてます」
プールを見たら、睦月が一生懸命に覚えたてのクロールで泳ぐ伊都たちに大きな声で何かを言っていた。水の中じゃ声、聞き取りにくいから。だから、睦月の大きな声はきっとプール内いっぱいに響いてる。防音の強化ガラスさえも飛び越えて聞こえてくる気がする。
「頑張れーって! 信じて、応援してます」
俺はふたつ、君のためにできることをただするよ。
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