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第42話 甘えなさいってば
自己ベストは塗り替えたいと言っていたが、見た限りでは無理だと思います。
そう栗林さんは言っていた。でも、そんなの睦月が一番、たぶんわかってるんだ。睦月の横顔にはいつもの明るさも温かさもなくて、少し苦しそう。でも、彼はいっさい弱音を吐かなかった。
でも、心配だよ。
「あと、ちょっとだねぇ。水泳大会」
リビングから伊都が話しかけてきて、そうだねって、応えながら。また、少し、心配っていう小さな雫が胸に溜まる。
もうあと、二週間で、大会だ。
「コーチ、お腹がへっこんだんだってぇ」
「……そうなんだ」
「そうなんだって。だから、ムキムキマッチョになるんだよ、きっと。もうなってるかも!」
「……う、ん、そうかもね」
そんなにマッチョ、じゃないと思うよ? 最近、彼とは、そういうのしてないから、わからないけれど。セックス、はしてないけれど、一緒に寝て、キスもして、抱き締めて眠る。横になった瞬間、彼は一分もかからず寝てしまうんだ。
一回、しようとしたんだけれど、俺がシャワーを浴びてる間に、寝てしまっていた。起こさずに隣で一緒に眠ったら、残念がってたっけ。
――疲れてるんだから、寝てよ。一緒に眠れたら、それだけで俺は嬉しいから。
そう言ってキスをした。触れるキスをして、舐めて、柔らかい舌を絡ませ合うキスをして、何度も何度も、キスを続けて。セックスみたいに満たされるまで。
――ね? 睦月。
キスでセックスと同じくらいに満たされるまで。
大変なことだよ。だって、水泳なんて疲れるだろ? 水から出た瞬間、ずしっとした重みが身体にぶら下がる感覚、水の中だと感じにくい重力がいっぺんに足にかかる。うちに来て、もう何度もつまづきかけるところを見た。身体がしんどいんだ。それなのに、君は笑ってた。
俺にできることは、そんな君に手を伸ばして転ばないように、倒れてしまわないようにって、支えるだけ。
それ、だけ、かな。本当に? ねぇ、他には何もできない?
――心配しないで。
そう言われた。これは自分で決めたんだ。無理なのも、ブランクがありすぎるのも、ちゃんとわかっていて、それでも、睦月が決めたこと。俺は待ってないと、いけないこと。
「おとーさーん! おばちゃんから電話だよ」
「!」
キッチンで夕食の支度をしていた。何度も手を止めて、時計を確認して、睦月の横顔を思い出して。伊都はその間に睦月の応援グッズを作ってる。っていっても、画用紙に、ガンバレッってメッセージと睦月の似顔絵。伊都の知っている睦月の表情は笑顔だから、すごいよ? 泳ぎながら、満面の笑みなんだ。「これ、水飲んじゃわない?」って思うけれど、でも、俺が三階から見学している時の睦月も、伊都の似顔絵そっくりに大きく口を開けて笑ってる。だから似てるよ。最近する顔。あの、横顔じゃない。
「はいっ! スマホ!」
伊都は睦月の応援ポスター作成へと楽しそうに戻っていった。彼のためにできることがあるのが嬉しいのかもしれない。だって、そのために、いつもだったら「早くやっちゃいなさい」って小言を零される宿題だって、学童で片付けて帰ってくるんだから。
「……もしもし? ねぇちゃん」
『あ、千佳志? ねぇねぇ、今週末なんだけどさぁ、伊都、こっちに呼んでもいい?』
「伊都を?」
『そう、秋祭りなのよ』
近所の神社で毎年九月に行われる秋祭り。子どもの頃、待ち遠しかったっけ。ちょうどうちの前あたりに神輿が止まるんだ。ご近所さんと一緒に、お菓子と飲み物をセットしてちょっとした休憩所を作って、俺は他の友達と神輿を引っ張って、町内を練り歩きながら、自分の家の前で休憩するのが楽しみで。ちょっと自慢じゃないけどさ、自分の家の前に神輿が止まって、大人も子どもそこで休憩するのが、親が見てた時代劇のえらいお殿様にでもなった気分がして。
懐かしい。そっか、もう秋だもんな。その時期か。行ったら、両親は喜ぶだろうな。孫勢ぞろい、自分の家の前で休憩するのとか、絶対に喜ぶと思う。でも、今はちょっと――。
『ね、そのお祭りに、伊都だけ呼びたいのよ。あんた、夏休み明けは仕事忙しいから来られないでしょ?』
「え? そうだけど。でも、伊都だけ? 俺は?」
自分も行くんだとばかり。ただ、睦月のことが気になるから、今年も申し訳ないけど断ろうと。
『あんたは、たまには甘えなさいよ』
「……」
『お父さん?』
俺はここを離れずに、睦月の応援がしたくて。
『あんたはたしかに伊都のお父さんだけど。その恋人にとっては伊都のお父さんじゃなくて、千佳志でしょうが』
「……」
『麻美ちゃんが亡くなった時からそう。麻美ちゃんはあんたが死なせたんじゃない。海で波にさらわれて亡くなったの。なんでもひとりでできる、なんて大きな間違いよ。あ、ちょっと、貴方、食器くらい自分で下げてってば!』
電話の向こうで姪っ子二人の騒がしい声と、少し疲れてそうだけれど渋々返事をしているお兄さんの声が聞こえた。
『子ども育てるのは罰ゲームでもなんでもないの』
姉の言葉に、何かがふわっと舞い上がった。
『周りにたんと助けてもらいなさいよ。あんた、伊都君の手助けしてあげないの?』
「……する、けどさ」
宿題がわからない時、明日の時間割を見て教科書を揃える時、ちゃんと手伝ってるよ。
『なら、あんたも助けてもらいな』
「……」
『だから、伊都と秋祭り、めっちゃ楽しんでおくから。あんたはたまにはその恋人と仲良く二人っきりの時間を満喫しなさいよ』
「……あ……えっと、その、ありがと」
はいはい、って、ぶっきらぼうな声が返って来た。
――伊都は俺がちゃんと育てる。
心配してくれて、うちに戻って来いと言ってくれた両親にそう言い切ったんだ。仕事も考慮してもらえたし、大丈夫だよって笑ったけれど、両親は心配してたっけ。男手ひとつで育てるのは大変だよって。
ホント、大変だったけど、でも、踏ん張って頑張ったよ。
「ありがと」
『どういたしまして』
「そしたら、今度、ねえちゃんたちがデートする時、ふたりを」
預かろうかって言おうと思ったのに、「絶対にいらない!」ってすごい怒ってた。怒鳴りながら電話、切られちゃって、耳鳴りがしたほど。
「なんだよ。自分は断るくせに」
「えー? なぁに? おばちゃんどうしたのぉ?」
伊都がひょこっと顔を出した。まだ、もう少し絵の完成は先みたいだ。大きな、カレンダーの裏側にいっぱい描くって意気込んでいたけれど、まだその大きな紙の半分くらいは空白のままになっている。
「ねぇ、伊都」
「?」
こっちじゃやったことがないけれど、神輿を引いて、大きな声を上げて、一日中、あっちこっちでお菓子食べ放題なんだ。秋祭り、最初は知らない人ばかりで緊張するかもしれないけれど、伊都なら大丈夫。スイミングでそこのところは実証済みだ。きっと、すごく楽しいよ。
ちょっと、意外だったなぁ。伊都、もう少し寂しがると思ったんだけど。
――それじゃあ、いってきまぁす!
なんか、元気に出発されてしまった。車で迎えに来てくれたねえちゃんとお兄さんのところに、ちょっとスキップ混じりにかけていって、振り返って笑顔で手を振られてしまうとは思ってもいなかったから。ぽかん、ってしちゃったじゃないか。
ずっと、初めての出来事にはどうしても馴染めずモジモジしている伊都が、ぐんと少年になってた。びっくりしたよ。ひとりでお泊りなんてできないと思っていたから。
「あのっ! すみません」
「あれ? 佐伯さん、忘れ物ですか?」
スポーツクラブが閉まるギリギリの時間。自動ドアに激突しそうになりながら、寸でで開いた扉から飛び込むように駆けてきた俺を見て、受付の、睦月のことが好き、なのか、好きだった、なのかわからないけれど、あの彼女がいて、強盗だとでも間違えたのか、目を丸くして驚いている。
「いえ、あの……」
伊都を送り出したのは昼間だったんだけど、そのあと、家事とか片付けて、夕飯作っておかないとってしてたら、こんな時間になってしまった。閉館したあと、睦月はいつもひとりで練習してる。だから、お弁当持って来て、すぐ近くで応援したらダメかなって。ほら、いつもは伊都がいるから、夜のこんな時間にここには来れないけれど、伊都は今日、いないから。
「ごめんなさい。もう締めるので」
「あ、違うんです。えっと、宮野さんに」
「部外者の方は」
この前のことがあってから、スクールで顔を合わせて会釈だけだった。通う分には受付は関係ないから、話す必要もないし、疎遠でかまわなかったんだけれど。あの時、睦月をさらったことを根に持っているんだろう。あまり可愛いとは言えない表情を見せながら、ここを通してくれそうもない。
「えっと」
「いいんだ。佐伯さんを呼んだのは私だよ」
栗林さんだった。彼女は少し驚いて、進路を邪魔しようと広げていた手を閉じた。
「どうぞ」
「あ、りがとう、ございます」
栗林さんが俺を通してくれた。そして、代わりに、彼女を連れて行く。もう上がらないと定時の時間はすぎてるからって。
いきなくなさそうな顔をする彼女はなかば強制的に連れ去りながら、こっちを見て、小さく笑ってくれた。どうぞって、その時言われたような気がして、俺は、丁寧に頭を下げた。
見学は三階。
でも、今日は二階から。睦月を初めて見た、あの場所から。
「……」
ちょうど水からあがってきたばかりなのか、顎から水を滴とし、水面を睨みつける睦月がいた。
あぁ…………怖いんだ。
そんな直感。睦月は「怖いもの」と、今、戦っている。
ねえちゃんには感謝しなくちゃ。今日ここに来たから、もうひとつ俺にできることが見つかった。よかった。きっと、これは俺にしかできないことだよ。
「……」
俺だからできること。そして、誰もいないはずのプールの扉が静かな空間で小さな軋む音を立てる。
「……ぇ? ……千佳志、さん?」
いつもは子どもの笑い声がはしゃぐ場所に、彼の低い声だけが響いていた。
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