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第43話 マイヒーロー

「……千佳志、さん?」  びっくりした顔してた。そりゃ、そうだよ。だって、夜の九時すぎだ。伊都はどうしたんだって、まず思ったんでしょ? 睦月が俺を見て、驚いて、次に、パッと見たのはプールにある時計だった。  伊都のことをすぐに考えてくれたの、すごく嬉しいよ。 「うちの実家で明日、夏祭りなんだ。姉が、伊都もおいでって、実家に泊まりで連れて行ってくれた」 「……」  そんな君を応援して、信じて、あと、もうひとつ、俺にしかできないことがある。 「千佳志、さん、その格好」 「もう時期じゃないから、水着、来年新しく買おうと思ってて」  だから、今日は四年前に買った、ちょっと若ぶってるみたいに派手な水着だけれど。 「睦月……」  近くまで来たら、睫毛からポタポタと雫が落っこちていて、睦月の輪郭をなぞるように水が滴っている。 「千佳志さん、入るの?」 「うん。少しだけ」  そう言ったら君がスッと手を差し伸べてくれた。その指先からも雫が滴り落ちて、小さな水音が聞こえた。  本当に水の中にいる人魚みたいだ。全身濡れていて、その雫さえ綺麗な宝石でもまとってるみたいで、手を繋いだら、ドキドキしてしまった。 「平気? 水」  大丈夫だよ。君のびしょ濡れの手も、掴んでくれるしっとりとした指先も、その濡れた瞳にドキドキするほうに忙しくて、水に足を浸けるくらいわけないって思える。 「びっくりした。まさか、千佳志さんが来るなんて、思ってもみなかったから」 「うん」  栗林さんが通してくれたんだ。彼が上司の方でしょ? って、尋ねると苦笑いを零しながら頷いた。栗林さんと話したことは睦月には言っていない。集中の邪魔になりたくなかったし、君が踏ん張って頑張っているのなら、俺はそれを支えられるようになりたいから。 「すいません。なんか、心配かけてますよね」  君は俯いて、自分に呆れたように溜め息をひとつ水面に落としてしまう。だから顔を上げて欲しくて名前を呼んだ。 「心配は、するよ。好きなんだから」 「……」 「ねぇ、もっと、甘えてよ」  溜め息をつくことなんてない。自分に呆れることなんて、ひとつもないよ。睦月はすごく頑張ってる。 「だって、これから一緒にいてくれるんでしょ? なら、俺にだって、分けてよ」 「貴方と一緒にいるためだから……」 「ならっ」 「……ダサすぎて」  睦月が苦しそうに水泳帽を取って、髪をくしゃくしゃに掻き乱した。 「昔の自分の記録にさえ届かない奴が、昔の自分を乗り越えて、伊都君も守れる貴方の隣に立つなんて」 「むつ、」 「……泳ぐのが、怖いんです」  搾り出すような声だった。水の底で口を開いてしまったら、途端にたくさんの水が自分の中に雪崩れ込んで、息ができなくなってしまうと、怖がっている声。 「泳いでると、なんか、あの時、背中で聞こえた、何かが断ち切れる音がする気がして、身体が変に力む」  背中の肉離れの時に聞こえた音なんだろうか。水の中で聞こえたその音はどんなふうに睦月の耳に届いたんだろう。水音とは全く違う、異質だとさえ思える音。それを鼓膜は今でも鮮明に覚えていて、怪我の痛みと、水の底に沈んでいく感覚、それと、聞こえていない音さえ蘇らせてしまう。 「その度に身体が縮こまるんです」 「……」 「千佳志さんは不安に思ってたでしょ? 俺が、伊都君のいる自分と付き合えるのかって」  独身の男性にいきなり子どももいる家庭に入ってきてもらうことの大変さ。自分の子じゃない伊都と暮らすっていうのは、今の段階では予想できない大変さが、この先あるんじゃないかって。ただの予想でしかないのに、漠然としているくせに、不安の煙は呼吸を妨げそうなほど濃い。 「俺も、子育てできるかどうかは、わかりません。父親の大変さをわかっているのと、それをし続けるのは意味が違うだろうから」  睦月はまた水面を睨んでしまう。揺れて見えないけれど、そこにたしかに写りこんで自分自身を睨みつけているだろう、水の中の自分。 「伊都君の良い親になれるかどうかわからない。なったことないから。それに、伊都君の父親は貴方で、お母さんは……四年前に亡くなられた」  そこはずっと変わらないでしょ? 伊都君の母親の代わりは誰にもできないって。伊都は麻美のことを写真でしか見たことがない。けれど、お母さんだよって、睦月に教えて上げていたんだって。俺が、食事の支度をしていて、睦月が伊都の宿題を手伝っている時の話。 「だから、ヒーローになろうと思ったんです」 「……」 「千佳志さんみたいな最高の父親のパートナーになれるのは、ヒーローなんじゃないかなって」  誰よりも強くて、カッコいい、伊都のヒーローに。 「でも、できるのか、わかりません。もう完治してるのに、何年前のだよって呆れるくらいの古傷なのに。そんな、たかが怪我ひとつ、乗り越えられない俺に」  ヒーローなんてなれるわけない――なんて言わないで。  大きな水音は一番苦手だ。あの時、波に飲み込まれる瞬間の音でもあるから。そしてその直後、頭からすっぽりと海に飲まれた俺の耳には水の音だけが聞こえた。水に鼓膜を塞がれた音。鼻から、口から、海水が流れ込んできて、止める術なんてない。自分が非力だと痛感させられただけの話。  バシャンッ!  って、そう、この音。 「なっ! 千佳志!」  そして、ようやく水の中から頭出せたと思った瞬間、鼓膜を裂くような伊都の泣き喚く声。悲鳴に、何もかもが真っ白になった。恐怖に包まれて、竦み上がる暇もないほど、一瞬で「死」に連れて行かれる。 「千佳志っ!」  本当に恐怖だったよ。あの瞬間までそこにたしかにあった全部が飲み込まれる恐怖。笑い声も体温も、命も全部連れ去られて、そして、悲鳴と悲しみと、俺と伊都だけが残された。 「千佳志っ! 何をっ!」  でも、君が手を掴んでくれたんだ。 「怖く、なかったよ。ハハ、イタタ、鼻に入った」  ダサいだろ? 水にそっと入ればよかったのに。なんで飛び込んだんだろうね。大嫌いな水飛沫あげて、怖くて仕方のない、大きな水音立てて、勢いつけて、お尻から滑り落ちるように水に中に飛び込んだから、溺れかけちゃったよ。頭まですっぽり、一瞬、水の中。 「千佳志っ」 「……入れたよ」 「は?」  すごい顔してる。死にそうな顔。俺じゃなくて、君だよ? ここはプールで、大きな波もなければ、海水みたいに塩辛いわけでもないし、砂も口には入らない。透き通った水は足元まで見ることができる。それなのに、そんな必死になって、目を見開いたりして。 「びっくりした?」 「びっくりもなにも。何してるんですかっ!」 「睦月がいるから平気だよ」  本当だよ? 君がいてくれたのなら、水なんて、これっぽっちも怖くない。 「睦月がいてくれるから、怖いものなんてひとつもない」  怖いのは君を失うことくらいだよ。でも、もしもそんな日が未来永劫来ないのなら、怖いものなんてないのと一緒だ。  君も、俺と同じように、俺を失うこと以外に怖いものなんてなくなりますように。そしたら、俺は絶対にいなくならなから、君は何も怖くなくなるよ。 「睦月がいてくれるのなら、俺、なんだってできるよ」 「……」 「本当に」  手を伸ばして、捕まえた。そして、君の手が俺のことを引き寄せて抱き締めてくれる。 「千佳志さん、震えてる」  首を横に振った。怖いんじゃないんだ。睦月は俺のヒーローだよ? 俺を、掴んで抱き締めてくれる人を俺も抱き締めて、ふわりと水の中でプールの底から足を離して浮いてみる。 「睦月に抱き締められて、気持ち良くて震えただけだよ」  その足を愛しい人に絡めると、君は、深いキスで呼吸を俺に、くれた。

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