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第47話 金メダル

 人って、三回掌に書いて飲むと――なんて、やって緊張がほどけたことは一度もないんだけれど。 「ど、ど、どうしようか、伊都」 「大丈夫だよ! 昨日、元気が出るようにって、勝てますようにって、カツ丼食べたし!」  心臓が破裂しそうだ。なんだろ、こんなに緊張したことって、いつ以来だろう。伊都が生まれる時のドキドキした感じとも、麻美との結婚式の入場直前とも違う。心臓が止まるんだか、動きすぎてるんだかわからなくて、せわしなくて、怖くて、でも、恐怖とは違ってて。 「あっ! お父さん! 来たよ! おーい! コーチイイイイイ!」  あ、あれだ。麻美さんをくださいって、ご両親に挨拶した時、かな。なんだか、わからないけれどずっと胸の内で「ひょえええええ」って言ってる感じ。  ――ゴールのところ、そこにいてくれませんか?  そしたら、誰よりも早く泳げる気がするからって、睦月が笑ってた。選手控えのフロアに向かう直前。肌を軽く叩いて、筋肉を刺激してた。今から、全力で泳ぐからって、身体に教えてるみたいだった。 「睦月……」  地区の大会だから、オリンピックみたいな立派な会場じゃなくて、伊都が通っているスイミングスクールみたいなところ。パイプ椅子がいくつか並んでいて、選手の荷物もあっちこっちにひとかたまりずつ置いてある感じ。  そこのゴール地点からちょっとだけ後ろに下がった場所。他の選手の邪魔にならなくて、でも睦月から俺たちが見える場所。  ここだよ。睦月。  そう願いながら自分の胸のところでぎゅっと手を握り締める。ここで待ってるから、ここに一番に来てって。 「がんばれええええ!」  伊都の大きな声がプールに響いた。  大会前の一週間、総仕上げとして、栗林さんにお願いしますってアドバイス頼んで、それで、少しはまぁマシになったかなって、一昨日言ってくれた。  カツ丼食べた。伊都と昨日、神社で神頼みもしてきた。頑張れ、のキスもこっそりした。十回? くらいはしたと思う。  あとは、えっと、あと、今日のために。 『第一コース、宮野睦月』  今日のために、たくさん練習した。 「お父さん!」 「!」  だから、大丈夫。きっと睦月はここに一番に来てくれる。  英語のアナウンスが流れた。睦月が飛び込みところで構えて、一秒? 二秒? わからないけれど、息を詰めた瞬間、全員が水の中に飛び込んだ。 「すっげえええ!」  伊都が珍しく少し男の子っぽい言葉を使って、歓声を上げる。睦月のひとかきごとに、水飛沫が立って、バタフライで、グン、グンって、どんどんこっちへ。 「がんばれー! がーんばーれー!」  息、できないよ。君が水面から顔を上げる度に、心臓が破裂しそうんだ。握り締めた手にもっと力を込めて、君に少しでも力が届けられるようにって、真っ直ぐ前だけを見つめて。 「睦月!」  真っ直ぐこっちへ泳いでくれる君を引き寄せられるように。引っ張れるように。早く、速く、ここに、来て。  その大きな手が水を掻き分けるのが綺麗だった。君が腕にまとう水飛沫がキラキラしていた。大きなイルカが水の中を誰よりも早く泳いでいる。ドキドキするほどカッコよかった。誰よりもカッコいい君が真っ直ぐ俺のところに来てくれるのが、たまらなく嬉しくて、笑っちゃうけれど、王子を夢中にさせてプロポーズさせてしまう姫にでもなったような気分だったよ。 「!」  どこまでも泳いでいけそうな睦月の手がゴールの壁に触れて、そして、ゴーグルを外す。 「はぁっ、はぁっ……はっ、あ……」  眉をひそめて、順位とタイムを教えてもらおうと、ゴールで計測していたスタッフを見上げた。  タイムは? 順位は? 俺は気にしない。ビリだろうが一位だろうがどっちでも、その両手両足が躍動して、水の中を全力で突き進む姿が見られて、君が怪我をしなかったのなら、それで充分だよ。  順位とか記録がどうでもいいわけじゃない。そのために頑張ってきたのだから。  でも、順位とかは関係なくてさ。 「……」  栗林さんが、コンディションは随分整ってきた。自己タイムを更新することはきっとできるだろう、って教えてくれたよ。  睦月が気持ち良く水の中を泳げたかどうか、それが一番欲しい結果だ。 「……今の、選手って、めちゃ、く、ちゃ速い、で、すね」  泳ぎきった直後、水から上がってきたばかりの睦月から雫がぱたぱたと雨みたいに落っこちて、足元を濡らしていく。俺は慌ててタオルを差し出した。  荒く乱れた呼吸を繰り返しながら、苦笑いを零してた。  もう睦月の自己ベストも大会新記録も塗り替えられて、現役選手はもっと速くなっている。コンマ何秒の差は一瞬だけれど、水泳選手にはものすごい長い時間。技術点なんてない、ただ速いかどうかの陸上競技と同じ。でも、君がどれだけ頑張ってたのか、俺は見てたよ。  自分を越えるってすっごく大変なことでしょ? 俺が、水の中に飛び込むの手伝ってくれた。だから知ってる。俺は、わかってる。何かを乗り越えることがすごく大変なことってわかってるよ。 「自己、ベストは、塗り替え、られたけど」 「うん。すごくカッコよかった」  感動したし、君の恋人として見守って応援できて嬉しかった。君に、ここで、ゴールで待ってて欲しいと言われて、たまらなく誇らしかった。 「めちゃくちゃカッコよかったよ」  世界一カッコよかった。 「……千佳志、さ……」  その手に金メダルはないけれど、ねぇ、世界一カッコいい人が愛した人があげた銀色の合鍵じゃ、ダメ? 銀は二位の色?  うちの鍵、持ってて欲しいんだ。伊都と俺のうちに、君も一緒にいて欲しいんだ。 「今日の夜、ちゃんと話そう?」  伊都に、話そう? 「……千佳志さん」  君が掌にあるそれを見て目を丸くした。ただの鍵だけれど、でも、これ、一生分の俺をあげるって意味を込めてたら、それなりの価値があると思うんだ。 「はい! これ! 俺から、頑張ったで賞の絵!」 「……伊都君」 「あ、手、濡れちゃうか。ジャジャーン、見て見て、三人描いたんだよ! 泳いでるのが睦月でね。俺とお父さんで応援してるの! 睦月は一番速くてね、ほら! すごいんだよ!」  この絵、知ってる。睦月だけが描いてあるを見た。ちょうど、睦月が頑張って練習してて、それで俺は根詰めすぎな気がして心配で、その時、ねえちゃんから電話が来たんだ。秋祭りがあるから伊都をこっちで遊ばせたいって。  あの時の、絵。 「上手でしょ? おじいちゃんちでもずっと描いてたんだよ」 「…………ぇ? 今、ねぇ、伊都、睦月のこと」  いつも伊都はコーチって、そう呼んでた。 「? うん。睦月、でしょ?」  泳いでる睦月とそれを応援している俺と伊都の絵にも「む月」って書いてあった。そして、今、たしかに、伊都がコーチじゃなくて名前で呼んで。 「伊都君……」 「うん!」 「ありがとう。大会新出した時より、嬉しいよ」  泳ぎ終わったばかりの君から落ちた一滴。 「どういたしましてっ」  それは、髪からでも、今、口元を隠した指先からでもなくて、優しい茶色の瞳から零れた落ちた嬉しいが詰まった、一滴。君が伊都に泣かされた、温かい涙の雫だった。

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