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第48話 手を

 ねぇ、麻美、君が海に連れ去られてから五回目の夏が来たよ。そして、伊都はもう小学二年生だ。  一回目の夏はそこまでしんどくなかったかなぁ。まだ伊都が三歳だったから、毎日慌しかったんだ。蚊に刺されるとあんなに腫れてしまうことも知らなかったっけ。二回目の夏のほうがしんどかったよ。伊都はもう四歳で、色々自分でできるようになってきて、俺も少し楽ができてさ、そしたら今度は自分の疲れに気がつく隙間ができちゃって、あんなに夏バテがきつかったのは後にも先にもあの夏だよ。そうめん、めちゃくちゃ食べてたもん。伊都はそれだけってわけにはいかないから、同僚の藤崎さんにたくさんレシピ教わったっけ。  あ、藤崎さんっていうのはね、ママ……友? 俺はママじゃないけど、子育てのことをたくさん相談し合った子なんだよ。今年、彼女からは子育て以外にもうひとつ、ダイエットの相談されたっけ。どうしてそんなスリムなんですか? だって。彼女のダイエットを応援してたんだ。彼氏がね、できたから。水着を着たいんだって、意気込んでたよ。子どもともすごく仲良くやってくれてる人なんだって。  君がいなくなって三回目の夏は、伊都が年長さん。あ、伊都のことを好きな女の子が三人も現れたんだ。すごいよね。君に似て優しいから、女子にモテモテで。でも、本人は男友達と走り回ってるほうが楽しいみたいで、俺がからかうと怒ってた。結婚の約束、まではとりあえずなかったみたいだけど。  それでね。  それで、四回目の夏に、伊都は泳げるようになったんだ。水が怖くて、泳ぎを教えられなかったから、代わりにってスイミングへ通って、そしたら、クラスで一位になったんだよ。コーチ……が褒めてくれた。  そのコーチを、ね。  好きになったんだ。  俺は、彼に恋をした。  恋なんて、もう、しないだろうって思ってた。でも、彼のことをすごく好きになったんだ。  優しい人だよ。あとね、ものすっごく……カッコいい。  君のこと、忘れたわけじゃないよ。伊都も自分のお母さんは麻美って言ってる。彼はね……ヒーローなんだ。伊都にとっても、俺にとっても、強くてカッコよくて、優しくて温かい、ヒーロー。君のことも全部知ってるよ。海でなくしてしまったことも全部。伊都のことも、俺のことも、すごく大事にしてくれる。  出会いのきっかけは、もちろん、スイミングなんだけど、でも、もっと細かく説明するとさ、あれ、カット野菜。面白いでしょ? なんか、主婦っぽいでしょ? 麻美はドラマ好きだったから、ドラマみたいって笑う? それとも、ドラマっぽくないって、笑う? どっちにしても、君は笑ってくれる気がする。コンビニで夕飯の野菜を買おうとして。 「おとおおおさあああああん!」  伊都が俺を呼んでた。浮き輪使う? って訊いたけど、いらないって言われちゃった。すごく大きいのを今日のためにって買ったんだけど、もう泳げるよって。  砂浜から手を振り返すと、睦月と一緒にまた手を振ってくれる。  ――あの人だよ。  そう、心の中で呟いた。  今年で、麻美がいなくなってから六回目の夏が来た。小学二年生になったらグンと大きくなって、最近、睦月に教わって、バタフライを始めたんだ。まだ、全然下手だけど、でも、睦月に憧れてるから、あんなふうに泳いでみたいって目を輝かせていた。まだ早いよって渋る睦月に、邪魔はしないからって必死な顔して、今年の夏に頼んで。  睦月は伊都に甘いから。  厳しい時もちゃんとあるんだよ? あるんだけど、甘いんだよね。宿題とかずっと隣で見ててあげるし、この前なんて、夕方の五時までに帰って来いって言ったのに、ふたりでサイクリング行って戻ってきたの六時だし。お腹空いた、じゃないよ。五時に連絡してくれたけど、それでも、ずっと心配してたんだから。  ――ごめん。これ、ケーキ三人で食べようと思って。  なんて言ったって、俺のご機嫌は……直ったけどさ。サイクリングの帰り道、新しいケーキ屋を発見して、そこでケーキ買ったから、自転車乗れなくなったんだ、なんて、甘い笑顔で言われたって、俺はそんな笑顔に……笑っちゃったけどさ。  伊都はもう俺と睦月のこと、知ってる。  男同士だけれど、愛し合ってるって、ちゃんとわかってるよ。  去年の夏、睦月は大事な大会があったんだ。彼にとっても俺たちにとっても、すごく大事な水泳の大会。その後ね、ちゃんと話した。そしたら、伊都なんて言ったと思う?  ――わかってるよ? お父さんと睦月、恋人同士って。  しれっと言われてしまった。見てればわかるよって、その時、小学一年の伊都だったけど、普通にされて、こっちがびっくりしたくらい。自分たちから告白したくせに、受け入れて欲しかったくせに、いいの? 俺たちのこと、平気? なんて訊いたら、渋い顔したっけ。  ――なんで? 別に男同士だって、いいんだよ? それ、差別っていうんだ。俺、差別しない。  あの時、クリスマスプレゼントと誕生日プレゼントと、あと、とにかくなんでもいい、とても素敵なプレゼントを伊都からもらった気がした。あの瞬間に溢れたものを一生大事にしようって、そう誓った。  けっこう早くにわかってたんだってさ。ねえちゃんもそうなんじゃないかなぁって思ったらしい。秋祭りに、実家にひとりで泊まった伊都の口から出てくる名前は睦月ばかり。お父さんと睦月と伊都、その三人の出来事ばかりを話してて。女性でもありそうな名前だけど、でもなぁって思って、そのうち「睦月」っていう名前の人はスイミングコーチだとわかって、そこで、気がつかれた。ねえちゃんは笑ってたよ。いいんじゃない? 幸せならさ、だって。あの人らしいよね。  それでね、六回目の夏、今日はね、海に、来たんだ。  伊都と、睦月がいてくれたから、ここに来れた。君をさらった海だけれど、この海を、自分の非力さを、とても憎いと思ったこともあるけれど、でも――。 「お父さんも泳ごうよ!」  ぽたぽたと海水の雫が伊都から落っこちて、潮を含んだ砂地の色を濃くした。  また、前みたいに泳げるようになったよ。水も怖くなくなった。プールでならもう本当に普通に泳げるようになった。泳ぎ得意なほうだったからね。今は、睦月が褒めてくれるくらいには上手に泳げる。 「……千佳志さん」 「……」  この人がいてくれたから、プールに入れた。睦月が手を伸ばして、「おいで」って言ってくれたから。その手を掴めば、いくらでもどこまででも行ける。 「一緒に、入りませんか?」 「……」  君と手を繋いでいたら、俺は、どんなこともできる。 「うん」  やったぁ! ってはしゃぐ伊都がもう片方の手を持って、ふたりで俺を引っ張ってくれた。  麻美を失った海はしれっとした顔で小さな波を俺の足元にぶつけてくる。「ほら、波だぞ」って、挨拶されて、足の指がぎゅっと砂浜に食い込むほど力を込めた。命ひとつくらい容赦なく飲み込む波が、「待って」って、あの日、必死に懇願した非力な人間のことなんて無視した波が。 「……」  人を。 「……っ」  大事な人を。 「お父さん! 見てて! 俺、少しバタフライになってるよ!」  俺を飲み込んでいこうと揺さ振る波に一瞬、指先から体温が消えかかった時、伊都の大きな声がバチンと弾けるように耳に飛び込んできた。ゴーグルをしっかり目元につけて、大きく息を胸に吸い込む伊都。  すごく、楽しそう。  人を笑顔にすることもできる、海。その中を力強く自分の手と足で進んでいく伊都。 「ね? 少しなってたでしょ? バタフライ! 二年生でこれできるの俺だけなんだよ!」  伊都が嬉しそうに笑って、今度はクロールで海の中をまるで魚みたいに突き進む。 「千佳志」 「!」  この手を掴めば。 「おいで」 「……」 「気持ち良いよ」  なんだって、できるって思えた。何よりも信頼できる人。愛しくて、恋しい睦月の大きな手を掴めば。俺はどんなこともできる。どんな場所でも強く笑っていられる。 「うん」  そんな恋に、出会ったんだ。

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