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バレンタインSS 1 バレンタインは戦場です?

「伊都!」 「うん! お父さんっ!」  今日しかないから。今日、ここでバッチリ買わないと……。 「こちら最後尾になりまああああす!」  買わないと……いけないんだけど。 「ショコラセレクトボックス残りわずかでええええす!」  いけないんだけど。 「お、お父さん」 「う……ん」  間違えて戦場か何かに紛れ込んでしまったのかと思ったよ。 「す、すごいね。チョコ、こんなにして買うんだね」 「みたい、だね」  藤崎さんにすごく美味しいチョコレートが揃うデパートを教えてもらって、ふたりではるばるやって来たはいいけれど。まさか、たかがチョコレートを買うのにこんな壮絶な売り場は想定外すぎて、俺も、伊都も立ち尽くしてしまった。  そこかしこで聞こえる叫び声のような呼びかけ。どこがどのお店の最後尾なのかわからないほどいたる所にある行列。皆、もうお目当てのチョコレートをリサーチ済みらしくて、一目散にあっちこっちと移動しては買っている。  なるほど、だから藤崎さんが「頑張ってください!」って言ってたのか。 「……やめて、おこっか」  人生初、送る側になってみたいと思ったバレンタイン。チョコを睦月にあげたいなぁって思ったんだ。  藤崎さんに睦月のことを全て話したわけではないけれど、コーチと生徒の保護者以上の繋がりがあるんだろうなぁと察してくれてるらしくて、何も訊かず、けれど話を聞いてくれる。  休憩時間にバレンタインのチョコとか、どんなのがあるんだろうって、呟いただけで、察してくれて、ここを教えてもらったんだけど。  ちょっと、買えそうもない、かな。 「やめちゃうの? 睦月にチョコ買うって」 「うん、そうなんだけど」  女性のお客さんばっかりだし、このひしめきあう人の波の中で選ぶのすら一苦労だと思うんだ。それを紅一点の逆だけれど、男性がウロウロしてるのは、あんまり、かなぁって。  もっと、近所のショッピングモールみたいな感じをイメージしてた。  混雑はしているけれど、こんな戦場みたいなのじゃなくて、伊都を連れて、ゆっくり睦月の好きそうなチョコを選べるかなぁって思ってたんだけど。 「えー? なんで? 大丈夫だよ! 僕、ちゃんとお父さんの隣にいる!」 「うん。わかってるよ」  伊都が意気込んでみせた。ありがたいけれど。  フロアの端に伊都とふたりで壁にくっ付いて立っていた。そうじゃないと、人にぶつかってしまう。まだ子どもの伊都なんてひとたまりもないだろうし、そのまま迷子になってしまうかもしれない。 「でも、やっぱりやめておこう」  邪魔にならないように気をつけながら、その場にしゃがみ込み、伊都を見上げた。ほんの少し前だったら、こうやってしゃがめば視線は同じくらいの高さにあったのに、もう伊都を見上げてる。夏以降、スイミングで身体がしっかりしたのか、グンと身長が伸びた気がした。睦月に憧れて、睦月みたいになりたいと好き嫌いを言わずよく食べて、スイミングして、よく眠るから、きっと、伊都はかっこいい男の子になると、思うんだ。  そんな伊都が今日の計画が中止になることに、思い切り拗ねていた。  楽しみにしていたんだ。電車でかなりかかるのに、じっと座って、電車内にある、今どのあたりを走っているのかがわかる液晶画面を見つめてた。そして、その画面に降りる駅が表示されただけで、パッと表情を明るくするくらい、楽しみにしていてくれたけれど。 「ほら、この前、伊都の靴買ったショッピングモール、あそこにもチョコはいっぱい売ってるし」 「ええ? でも、でもっ、ここのチョコ美味しそうだよっ」  うん。知ってる。甘い甘い上品な香りがずっとしてて、心地良いほどだけれど。 「わかんないけど、きっとすごいとこのなんだよ! 絶対に美味しいから、睦月喜ぶよ。ねぇ、買おうよ!」  そう思ったんだ。けれど――。 「おひとついかがですか?」  声をかけられた。この催しもの会場の端の端、中央はそれこそ戦場だけれど、比較的人の少ないカウンターの中から女性スタッフがお皿をこっちへ向けて差し出している。 「……ぁ、いえ」 「はい!」 「ちょ、伊都っ」 「どうぞ。どうぞ。とっても美味しいよ?」  彼女はふわりと笑って、跳ねるように歩く伊都へとそのチョコの入った皿を出した。色々あるから、ひとつずつ、全部でもいいし、好きなのだけでも、どうぞって。 「いただきますっ!」 「どうぞ。これがミルクチョコレート、こっちはビターだから、ちょっと苦いかな?」 「んー、!」  伊都が一粒、たぶん、ミルクチョコレートだと思う。一番に勧められたのを口に放り込んですぐ、目を輝かせた。 「おとおおおさあああああん!」 「しー、静かに! 伊都、他の人がびっくりするからっ」 「これ! これ、美味しいよ!」  手足をバタつかせて大興奮な伊都が他のお客さんにぶつかってしまいそうで、慌てて手で肩を押さえる。それでも暴れだしたくなるくらいに美味しいらしい。笑っちゃうくらいに頬を真っ赤にして、目なんてキラキラさせて。 「お父様もおひとついかがですか?」 「あ……じゃあ」  茶色の丸い粒。形はいたってシンプルで、円錐の形をしていて、その上部分に花の刻印がされている。ミルクが薔薇。ホワイトが百合、ビターが桜、他の味にもきっとそれぞれの花の刻印があるんだろう。けれど、見た目は、ここの中央にある店のような華やかなものじゃない。  いただいたのはビター。睦月はそんなに甘いの得意じゃないから。疲れた時には食べたがるけれど、アスリートだからというのもあるんだろう、基本、お菓子はあまり口にしない。 「!」 「いかがですか?」  びっくりしたんだ。きっと表情が全部を物語っていた。 「ねっ? ねっ?」  伊都が目を輝かせた理由。何、これ。 「口どけにとにかくこだわったんだんです。口に含んだ瞬間、舌の上でふわっと溶けて、香りも味も一瞬で広がるんですよ。すごくお勧めです」 「すごいでしょ? ねっ? お父さん! きっと、睦月が喜ぶよ! お菓子は好きじゃなくても、たまにチョコ食べるから」 「甘いの苦手な方なんですか?」  店員の女の子はニコッと笑って、伊都に今度はビターを差し出した。伊都はミルクチョコがとても美味しかったんだろう。「苦いよ」の一言を聞いても嬉しそうにそれを口に放り込む。その直後、やっぱり表情を明るく輝かせた。 「どう? その人、気に入ってくれそう?」 「うん! ばっちり! カッコいいんだよっ」 「い、伊都っ」  伊都は男同士ということをわかっていて、そして普通に受け止めている。普段はいいけれど、たまに、ちょっと、こういう時には――。 「そっか、よかった。いかがです? ホワイトもあまり甘くなくてお勧めです。他も回られますか?」 「あ……いえ、えっと」 「口どけなら、他のどこのお店にも負けませんっ! そんなに見た目は豪勢じゃないんですけれど」  彼女はそういってニコッと笑った。 「それに海外ではバレンタインって大好きな大切な人に気持ちを伝える日なんです」  今もフロアの中央は戦場さながらにチョコが飛ぶように売れ続けてる。 「お父さんっ!」  大切な人に、気持ちを伝える日なんだったら。 「えっと、そしたら……」  俺は気持ちを伝えたいと思う人がいる。 「ビターと、あと、ホワイトを、あと、ミルクチョコを息子に」  君に――。

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