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バレンタインSS 2 そわそわ、してしまう。
「んんんんんんっ」
伊都が駅のホームで足をブラブラさせながら、頬張ったチョコレートにうっとりとしてた。これは、ちょっと売れないかもしれないね。口どけはたしかに最高だけれど、それを追求しすぎて持ち運ぶのには保冷剤必須だなんて。溶けてどろどろになることはないけれど、形があるだけで持った瞬間、指先にチョコレートがついてしまうほど、とても溶けやすいから。学校や会社に持って行くことはできなさそうだ。
「帰ったらすぐに隠さないとだね」
「……そうだね」
要冷蔵だから。睦月にバレないように隠さなくちゃ。一緒に住んでるとこういうこともあるんだね。
「よかったね。お父さん」
「え?」
「睦月にチョコ、あげられるの、すっごく嬉しそう」
バレンタイン当日は土曜日で、俺は仕事がない。けど、スクールで働いている睦月は仕事がちゃんとあるから、渡すのは夜まで我慢。本当は早く渡したいんだ。気持ちと一緒に、睦月の手で受け取って欲しいんだけれど。その日も帰りは遅いから、伊都と留守番だ。
にこって笑った伊都の口にチョコが少しだけ付いていた。そのくらいあっという間に溶けてしまう柔らかなダークブラウンの一粒。
「ねぇねぇ、お父さん。バレンタインの日、玲緒のうちに遊びに行ってもいい?」
「え? 玲緒君の?」
「そう! チョコパーティーするんだって。面白いチョコレートをたくさん。ハンコのとか、ハンバーガーの形のとか」
それって、普通にスーパーに売ってるお菓子じゃないか。けれど、伊都はとても嬉しそうに面白チョコを揃えるパーティーにブラブラさせていた足をもっと大きく蹴り上げる。
「いい?」
「いいけど、帰り遅くならないようにしないとだよ?」
「うん! わかってる! やったぁぁ!」
他校だけれど、仲良くしてもらえてる。親友だ、なんて言ってたっけ。男の子らしくなったなぁって、最近特にそう思う。
「伊都、口にチョコレートついてる」
「え?」
「こっち」
けれど、こういうところはまだ子どもだ。
唇の右端を指差すと慌てて手の甲で拭っていた。
そうだね。すごく嬉しい、かな。バレンタインにチョコレートなんて王道だし、彼は甘いのが苦手だから、そこまで喜ばないかもしれないけれど、でもチョコレートがよかったんだ。疲れた時にもいいらしいから。彼の癒しになるのなら、なんでもいいからプレゼントしたかったんだ。
「どうでした? いいの買えました?」
年末年始のゴタゴタが終わって、少し落ち着いてきた職場で藤崎さんがこそっと耳打ちしてきた。
その右手の薬指にはシンプルな指輪がある。去年の夏、交際を申し込んでくれた男性を一度はフッてしまったけれど、今、交際をしているらしい。
「チョコ?」
「はい! すごくなかったですか? 私、あのあと、店舗の配置図とか準備しといたほうがいいって言い忘れたー! って、思って」
「あははは。そうだね。たしかに配置図必要なくらいすごかった」
「ですよねぇ。ごめんなさい! 伊都君も一緒に行ったんですか?」
「うん」
そっかぁ、と申し訳なさそうに藤崎さんが溜め息をついた。小さな子どもがいると、たしかにあの壮絶な中央エリアには入っていけそうもない。しかも選んで買うなんて余裕は皆無。
「でも、良いの買えたよ」
「ホントですかっ?」
今、そのチョコレートはひっそりと冷蔵庫の奥でその日が来るのを隠れながら待っている。
「うん。ありがと」
「よかったぁ。真ん中のとこで買ったんですか? あそこ、中央はそれこそお取り寄せでも無理は超大人気店ばっかりなんですよ」
なるほど、それは難しいかもしれない。それじゃあ、たしかにあの戦場のようなことにもなるかもしれない。それなりの数は用意してあっただろうに、昼間に俺たちが行った時点でいくつか売り切れていたんだから。
「ううん。端にあったお店。すごく美味しかったよ。口どけが最高だった」
「嬉しそう」
「え? そう?」
うん。と深く頷かれてしまった。
不思議だよね。プレゼントする側なのに、嬉しくて仕方ない。ドキドキしてる。睦月の喜んだ顔が見られるって、その日が待ち遠しくて、ちょっと数えてしまうくらい。
「明日ですもんね」
明日まで、冷蔵庫にあるのバレてしまわないかな、ってそわそわしちゃって。睦月が冷蔵庫に向かう度に目が追いかけてしまうんだ。
「そうだね」
「でも、雪の予報なんですよねぇ」
「そうなの?」
「そうなんです。知らなかったんですか?」
「あはは。土日の天気って疎くて。平日はほら」
「洗濯物!」
そこでふたりで意見が合致した。そうなんだ。平日は洗濯物の関係で天気予報を気にしてしまうけれど、乾燥しているこの時期、休日は別に雨じゃなければ乾くだろうから、朝、ちらっと天気を確かめる程度。遠出するとかなら別だけれど、睦月は仕事だし、伊都は玲緒君のうちに遊びにでかけてしまう。ひとりでなら何をするのも気楽なものだから。
でも、そっか、雪なのか。雪だったら、伊都が喜びそうだ。睦月と一緒に外で雪遊びとかするかな。
「楽しみですねぇ」
「そうだね」
バレンタイン、チョコと一緒に、何かごちそうでも作ってあげようかな。デートは無理そうだから、その代わりに。
「藤崎さんは?」
「うちは……チョコをそもそもどうしようかと、メタボ、気になるし」
「そんなの」
「そりゃ! 佐伯さんはそうかもだけど! そっちとうちじゃ雲泥の差が」
アハハって笑って、彼氏さんに悪いよって言ったけれど、全然違うんだと余計に力説されてしまった。力説はするけれど、でも、一番好きなんだろう。食べすぎだ、飲みすぎだと文句を言うわりには嬉しそうな顔をしていた。
恋をしている顔をしていた。
「イケメンじゃないですか! そっちは!」
「あははは」
って、笑って話していたけれど。
「……ぁ」
そう呟くと、一気に白い吐息がふわりと広がる。
藤崎さんイケメンって言ってたけど、けどさ、そもそも、あれ、どう考えてもうちの彼氏は……っていうトークだった。
言ってないんだけど。
睦月のことは家族以外にはとくに公言していないんだけど、でも、もうそのつもりで話してた。あまりに自然か会話だったから、俺も普通に返してたけど。
「うわ……」
思わずそう呟いてしまうくらい、とてもすごいことなんじゃないの? 同性同士の恋愛を普通のこととして。
「おとおおおおさああああん!」
学童に伊都を迎えに行く途中で、そんな事に気がついてしまった。
「あれ? お父さん、風邪?」
「ち、違うよ! 平気!」
そんなに真っ赤だった?
「よかったぁ。いよいよ明日だもんね! お父さんは睦月にチョコレートをプレゼントして、僕は、玲緒君ちでチョコパーティー」
バレンタインのチョコを人生初、渡す日。
「雪も降るらしいし、楽しみだねっ」
明日、好きな人に気持ちを伝えようと、あっちこっちで誰かがそわそわしているからなのか、雪にはしゃぐ人もいるからなのか、伊都を車に乗せた帰り道、車窓から見える街はどこか落ち着きがないような気がした。
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