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バレンタインSS 3 雪

「え? あの、伊都がですか? ……いえ、ご迷惑でなければ、全然、でも……ありがとうございます……いえいえ! こちらこそ! ……はい。そしたら、明日、迎えに……はい。ありがとうございます」  雪は夕方から本降りになると予報で言っていた。その前に玲緒君のうちでバレンタインのチョコレートパーティーをしている伊都を迎えに行こうと、今ちょうど家を出るところだった。 「もう……伊都は……」  電話を切ってからひとつ溜め息を零す。泊まらせてもいいですか? って、玲緒君のお母さんからの電話だった。ふたりが盛り上がってとても楽しそうで、玲緒君が引きとめてしまったと。玲緒君のうちもひとりっこだから、兄弟ができたみたいで嬉しいんですって、向こうのお母さんが言ってくださったけど。  ――そう言うのならそうなんだよ。玲緒君が今度うちに来ればいいんじゃない?  睦月ならそう言って、穏かに笑う。  ひとりで全部やろうとするのが、もう、クセになってる俺の力んだ肩を柔らかくほぐしてくれる。  ――千佳志さん、これ、俺が運ぶよ。  伊都を育てなければと、決意した時から、誰にも頼らないようにって、自分を律していたクセ。背筋を伸ばして、真っ直ぐ、誰にも寄りかからないようにってしていた。睦月の笑った顔が、言葉が、あの温かい手が、ゆっくりほぐして柔らかくしてくれるけれど、それでもやっぱりたまにまだ、硬い。  あぁ……睦月の顔が見たい。 「……ぁ」  窓の外へ視線を向けると、はらりと白い粒が落ちてきたのが見えた。  雪だ。  予報よりもずっと早い。積もると言ってたけれど、今から降り出したんじゃ相当積もるかもしれない。睦月は行きは自転車だった。帰り、運良くまだ降っていなければそのまま自転車で数分で帰ってこれるし、もしも降ってしまっても、遠回りだけれどバスと徒歩で帰ってこれるからって言っていたけれど。  その時だった。手に握っていたスマホに睦月からメッセージが来ていた。  ――雪、降り出したね。帰り早くなるかもしれない。レッスンのキャンセルが続出で。  そうなんだ。インフルエンザもあって最近、レッスンに来る生徒が少ないって、睦月と伊都が言ってたけれど、今日はこの雪だから、尚更、いつも以上に少ないのかもしれない。  伊都は玲緒君のうちに泊まるから迎えは明日の朝で大丈夫。それなら、睦月の迎えに行こうかな。  もう一度窓の外を見ると、たった数分のことだったろうに、もう雪は本降りになっていた。窓のところへ行って下を見れば、道の上はさすがに積もっていないけれど、街路樹や一軒家の屋根が薄っすらと白くなっていた。  大丈夫かな。これじゃ、睦月が帰る頃にはかなり積もっていて身動き取れなくなるんじゃないかな。  睦月には雪が降ったら車の運転はしないようにって言われてる。伊都のお迎えを済ませたら、そのあとはふたりで、家で待っててって。だから車は無理だけれど。  鍵を手にとって、ダウンジャケットを着るとマフラーをグルグル巻きにした。  でも、もうひとりで全部をやらなくていい、そう睦月が言ってくれて、隣で手を差し伸べてくれたら、とても気持ちが和らいでほっとした。嬉しかった。頼れるって、とても心が柔らかくなるから。  俺も睦月に頼られたかった。睦月に頼れることを嬉しいと思うように、睦月にも頼ってもらいたいんだ。彼は自転車で仕事場へ向かったから傘は持っていないはず。だから俺は、傘を二本持って迎えに行くことにした。  よかった。バスで向かう間にも町並みはどんどん雪に覆われて行く。自転車は到底無理。でも、交通ダイヤもきっとかなり乱れるだろうから、何時に家に帰れるかわからない。それにスイミングをしているから、ちゃんと乾かしていたって、雪の凍えるような寒さの中じゃ風邪を引くかもしれない。迎えに来て正解だった。  そう思った。  案の定、スポーツクラブに到着しても駐輪場も駐車場もがら空きだ。いつもは空きを探すのに一苦労するのに、今日は数台が止まっているだけ。一度、メールを送って、近くのファストフード店で待っているのがいいかもしれない。中に入ってしまうと、目立ってしまうから。  ――雪、かなり降ってきたけど、平気そう?  そうメッセージを送っておいた。  待ってますって言ってしまうと、仕事中に焦らせてしまうかもしれないから。それだけいれて、何時頃に終わるって返事が返って来てから、その帰れる時間になって、実は迎えに来てるってそう言おうと思った。ここで仕事が終わるまで時間を潰していればいい。  けれど、レッスンが案外休みなしに入っているのか、雪の影響でイレギュラーな仕事が多いのか返信がなくて。待っている間にもどんどん雪が降ってきてしまう。もしかしたら、メールに気が付かないかもしれない。それなら、傘だけでも届けようか。傘があればすれ違いで睦月がひとり帰るにしても濡れずに済むし。  あの受付の女の子なら……イヤな顔はされるだろうけれど、傘を持ってきたって言伝くらいはしてくれると思う。  なんだか色々考えて、ひとり、外に出るともう薄っすらどころじゃなくしっかりと雪が積もっていた。  伊都は玲緒君と早めに降り始めた雪におおはしゃぎで遊んでいるかも。そう思いながら、真っ白な空を見上げる。雪は白い空を背景にしているからか、少しくすんだ灰色をしているように見える。  急ごう。  メールに返信はないけれど、これだけ降ってきてるんだ。早めに仕事を上がれると思う。  サクサクと雪を踏む音、慎重に帰路をいく人達の中、自分も雪になれていないたどたどしい足取りで睦月のいるスポーツクラブへ。ほんの数分だけれど、転んでしまいそうで歩みがやたらとゆっくりだった。  ゆっくり歩いて、そして、普段ならあっという間に着く道で。 「宮野さんっ!」  静かに降り続ける雪の中で聞こえた睦月を呼ぶ女性の声。  スポーツクラブの駐車場。傘を持っていない、黒いダウンジャケットを着た睦月の肩に少しだけ雪が積もってる。  そんな彼を引き止める女性がいた。  話の内容はわからないよ。ここからじゃ聞こえないし、きっと雪が音を吸収してしまってる。何を彼女が言ったのかはわからないけれど、くるりとカールするリボンのついた箱を差し出したのはわかった。  バレンタインのチョコレートだと思う。  今日はそうだから。真っ赤に俯いて、真っ直ぐ手を突き出す彼女は遠くから見ても緊張してるのがわかる。 「……」  遠くからでも、睦月と女性が並んでいて、そして、その光景はとても――。  雪を蹴り上げて、今、慣れない、たどたどしい足取りでここまで来た雪道を引き返す。  失敗した。  傘、先に置いておけばよかった。受付の、あの女の子に言って渡しておいてもらえばよかった。睦月はかっこいいんだから、女性にモテるに決まってる。今日はバレンタインで、女性が男性の愛の告白をする絶好のチャンスなのに、迎えに来ちゃえば、こんな現場に遭遇するかもって、どうして予想できなかったんだろう。誰かはわからないけれど、睦月に好意を寄せている女性。大失敗だ。睦月を好きな女性がどうしていないと思ったんだろう。  いや、思ったんじゃなくて、願ったんだ。睦月のことを独り占めしたい俺は横から取られてしまうかも、なんて思いたくもなかった。  バカだ。  そんなわけないだろ。若すぎない、落ち着いて大人の男性で、カッコいい睦月がバレンタインにチョコをもらわないわけがないのに。それだけじゃなくて、あらかじめ傘の言伝をあの子に頼めばよかったのに。  それもいやだったんだ。  あの、睦月のことを好きで一度告白をした彼女と睦月が話すきっかけをたかが傘一本だろうと作りたくなかったんだ。とても拙い独占欲。  そんなの持たずにいれば、傘を事前に渡せて、彼が雪を肩に乗せて凍える事もなかったし、あの現場も見なくて済んだのに。  睦月が女性といる、一般的に「お似合い」といわれる姿を。 「……バカ」 「千佳志! って、うわっ、うわああっ!」  一番見たくない姿を見かけなくて済んだのに。 「イタタ……足滑った。カッコ悪い。千佳志さん、大丈夫ですか? どこも打ってない?」 「……」 「千佳志さん?」  本当に俺はバカだ。 「どこが痛いの? 千佳志」 「っ」 「今、泣くと、涙が凍って冷えちゃいますよ?」  君を転ばしてしまった。

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