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01明日、私が救いを求めたら
孝憲とは図書館で知り合った。
「運動音痴なのに野球部に入っていじめられて3か月もしないうちに辞めたデブ」
「いつも一人で飯食ってる陰気な不細工」
散々な孝憲の評価は僕のクラスまで伝わっていた。
「なぁ、お前いっつもユングとフロイトばっか読んでんだろ? たまにはアドラーでも読んでみろよ。アドラーのみ盲信するのもどうかと思うけど、良い刺激にはなると思うぜ」
僕は孝憲の観察眼と洞察力、そして知識に驚いた。
現在のクラスメイトも、他の高校に行った友人たちも、アドラーなんて知らない。
アドラーどころか、ユングやフロイトすら知らない者たちばかりだ。
「あ……悪りぃな。俺みたいなのが話しかけちまって」
離れて行こうとする孝憲の服の裾を僕は掴んだ。
「引かないの?」
「何で?」
「心理学の本を熱心に読んでる男子高校生なんて普通ドン引きでしょ?」
「読みたい本なら読めばいいじゃねぇか。ま、俺は普通じゃねぇけどな。根っからの陰キャオタクだから」
僕たちの若い頃は今より同調圧力が強くて、皆と同じことをしない者がいれば容赦なく叩かれた。
僕は必死に“普通”を演じながらも、心理学に惹かれる“普通じゃなさ”を抑え切れなかった。
部活の後に図書館で心理学の本を閉館まで読み耽るなんて普通じゃない。
普通であれば、週刊少年漫画雑誌を片手にバカ騒ぎしながら、今頃帰宅している。
「むしろ、凄いだろ。その年齢で興味の方向性が定まっているのは。尊敬する」
素直にそう言って屈託なく笑う孝憲は同級生の誰よりも素直で純粋だと思った。
野球部の幽霊部員の孝憲は、僕と同じく閉館まで図書館に残って時々読書、時々小説を執筆している。
孝憲の小説が僕は好きだった。
けれど、学校ではいじめられる彼を庇う事が出来なかった。
孝憲は素直だからこそ、同級生たちの心ない言葉に自尊心を磨り減らしてゆく。
それを知りながらも、“普通”にしがみつく僕は、彼を守ることが出来なかった。
図書館にいる時だけ、都合良く孝憲にすり寄る狡猾な自分を嫌悪した。
だからそれ以上の関係を築けなかった。
連絡先の交換すら出来なかった。
孝憲の死を知ったのは、彼の死後13年経った後だった。
52歳になり、心理学部の教授となった僕は、彼もまた大好きな小説を書き続けているものだとばかり思い込んでいた。
彼の顛末を聞いたのは、久しぶりに地元に帰省した時だった。
就職に失敗し、非正規雇用を転々としながら就職活動と資格取得に励み、それでも正社員として採用されずにダムから飛び降りようとし……精神科に通院しながらコンビニの夜勤のアルバイトをしていた。
最期が小学生の子供を守って事故死というのは彼らしいが、事故死に至るまでの経緯に愕然とした。
僕は心理学部の教授だ。
認定心理士の資格も持っている。
僕ならば、苦しむ孝憲の心を救えたかもしれない。
けれど、もう遅かった。
孝憲は13年も前にこの世を去ってしまっていた。
小説家として活躍することもなく、あの観察眼や洞察力、豊富な知識力を活かすことなく……。
僕はぽっかりと心に穴があいたまま、東京に戻る為に車中の人となった。
どんなに心が空虚でも、連休明けには講義が待っている。
教え子たちが待っているのだ。
僕は忘れていた。
此処が、地震大国日本であることを。
震度6弱の地震。
通過直前の高架橋の崩壊。
崩落する車両。
悲鳴。
絶望。
痛み。
泣き叫ぶ人々を前に、僕は何も出来なかった。
孝憲のように、子供ひとり救うことすら出来なかった。
僕は、あまりにも無力だ。
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