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第207話 傑

 ハジメは学生の頃、インドに行って変わった。ジャンキーになって死の淵を彷徨った。  その頃、傑はどうしていたのだろう。ハジメとは違う生き方を模索していた。  二十歳になって大学を辞め、イギリスに渡った。スコットランド。スコッチウヰスキーのふるさと。  風がビュービュー渡っている。その風にいつも潮気が混じっている。たどり着いたアイラ島。 スコットランド西岸の南端、淡路島くらいの小さな島。今も稼働中の八つの蒸溜所がある。  一面に広がる ピートの原野。ピートはミズゴケやシダ、ヘザーなどが湿原に堆積して炭化したもの。ウヰスキー作りには欠かせない原料。  初めてアイラ島に降り立った時、何故か寂しさよりも懐かしさを覚えた。  傑は蒸溜所の一つで働いた。ウヰスキー作りは奥が深く、下働きでさえ興味深いことだった。  アイラの寒い原野でも、夏の終わりにはヘザーの花が咲き乱れる。一人で風に吹かれていると、ハジメが恋しかった。  自分の思いは誰にも気付かれてはならない、と封印して来たが、このアイラの地で、想うのはハジメ、だった。  数年、蒸溜所で働き、ウヰスキーに魅入られた。日本に帰って、マニアックなバーを開く事になる。  ハジメに想いは伝えられなくても、心を癒しに立ち寄ってくれればいい、と店を開いたのだ。  もう亡くなっていた祖父様のコネで麻布の地に店を開いたのは偶然ではない。  困った事に、ゲイが集まる店、と評判が立ったが祖父様の力でそれは押さえられた。ハジメも世話になっている、あの、奥のご老人、たちだ。時々、あの秘密倶楽部を手伝う条件だったが、それは傑の性癖を肯定するものだった。 (私はゲイだ。昔からそうだった。ハジメを愛している。心の奥にしまっている。ハジメだけ。)

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