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第7話
「・・・扉はもうちょっと優しく閉めろー」
凪が乱暴に閉めた扉に向かって、真中はそう言って快活にあははと笑った。波多野はそれに小さく溜め息を吐くと、自分の分のビール缶とグラスを持って、真中がひとりぼっちになってしまったテーブルについた。真中は怒って出て行ってしまった凪のことをあんまり気にした風ではなく、残ったお寿司をまだ摘まんでいる。尤も気にするくらいなら、あんなことを言ったりはしないはずだったが。
「八尋、難しい年ごろなんだから、正論でもあんまり諭さないであげてよ」
「ユヅ、昔からお前は優しすぎるんだよ、だからあいつがつけあがってるんじゃねぇか」
確かにそうかもしれないと思うほど、その時に真中の言葉は的を射ていた。優しいと言うか、波風を立てたくないだけだということを、波多野は分かっているつもりだったけれど、それで曖昧な選択をするたびに、誰かを怒らせたり傷つけたりしてしまうのだろう、無意識のうちに。凪の前になるとそれがもっと顕著で、凪の面倒を陽毬に一任しているくせに、凪の前では理解あるいい父親でいたいなんて、そんな甘い考えを、真中にだけは見透かされているみたいで嫌だった。
「まぁ、優しいのはお前のいいところだけどさ」
黙ってしまった波多野を慰めるみたいに、真中がぽつりとそう呟いた。
それからしばらくして、真中は代行サービスを使って自宅に帰って行った。真中を泊めることもできたけれど、凪が嫌そうだから帰ると真中はその時やけに大人しくそう言って、あっさりと帰ってしまった。凪とやりあった割にはすっきりした顔をして、また飯食おうぜと笑っていたから、真中は今日のことなんて、なんとも思っていないし、凪の言葉に簡単に揺らがされたりしないのだろうと、波多野はそれに返事をしながら思った。それは真中が凪の言うように、「関係ない」人間だからかもしれないし、理由は別にあるのかもしれない。真中を見送ってから部屋に戻ったが、凪は相変わらず自室に籠ったままだった。このままでは明日も学校に行かないのではないかと、波多野は少しだけ不安に思う。陽毬から預かっている以上、最低限のことは凪にしてやらないといけないと思う一方で、最低限のことしかできない自分に腹が立つような気もする。
「凪」
ゲストルームの扉をノックして、名前を呼んでも凪の返事はなかった。波多野は一瞬考えて、それからもう一度凪の部屋の扉をノックした。
「凪、入るよ」
扉を開けて中に入ると、部屋の中は電気がついておらずに薄暗かった。凪はベッドに入って頭まですっぽり布団を被っている。波多野は少し迷ったけれど、側まで行ってベッドの端っこに腰かけた。布団のふくらみにそっと触れると、凪はそこでじっと息を殺しているみたいだった。
「凪、八尋が言いすぎてごめんね、そんなつもりじゃないんだ、多分」
では、一体どんなつもりなのだろう、聞かれても波多野は答えられないと思った。こんなことしか言えなくて、やりきれなくてどうしようもない。結局どんな気持ちのいい言葉で取り繕ったって、取り繕うことに意味なんてないから同じことだった、結局。すると今までピクリとも動かなかった凪は、急にがばっと体を起こして波多野の顔をじっと見た。何かを確かめるような視線だった。
「弓弦さんいつもあいつの肩持つよね!陽毬の肩も!」
「え?」
「そんなに大事なのかよ!」
自分で言ったことに自分で不安そうにして、布団の端っこをぎゅっと握ったまま、凪はすっと目を伏せた。その仕草はよく知っている凪だったので、波多野は少しだけ安心して、少しだけ笑ってしまった。凪の強い目がきゅっと波多野を睨む。
「ごめん、そうだね、八尋は僕にとっては家族みたいなものだし、勿論陽毬ちゃんも」
「・・・そう」
「でも凪のことも大事だよ、だから皆とうまくやってほしいと思ってる」
そうして真中の真似をして俯く凪の頭をぽんぽんと叩くと、俯いている凪の耳がさっと赤く染まったのが分かった。
「それは俺が息子だから?」
「え?」
俯いたまま凪は、何かを絞り出すみたいにそう言って、それからゆっくりと視線を上げた。耳だけでなくて、凪は頬も真っ赤にしたまま、どこか不安そうにその茶色い瞳を揺らして、その時波多野のことを見ていた。その時何故凪がそんなこと言いだしたのか、波多野にはよく分からなかった。すると何かのタガが外れるみたいに、波多野の腕を掴んで凪はその赤い顔を波多野に寄せた。
「なぁ弓弦さん、なんで俺たち家族はこんなにバラバラなの?住んでるとこも苗字も違う。俺って本当に陽毬と弓弦さんの息子なの?」
「・・・―――」
その時波多野は、至近距離で凪の茶色い瞳が真っすぐ自分のことを見ているのを自覚しながら、最近どうも凪の様子が不安定なのは、きっとそのことを考えていたせいなのだろうと思った。陽毬が合理的だからと考えた、別居のことも別姓のことも、勿論凪にとってみれば、そんなのは自分には関係がなくてそれこそよく分からない持論でしかない。そんなことはよく分かっていた。それに波多野だって、そんな風に陽毬が意固地になって自分を遠ざけようとする理由がよく分からない。
「凪、そんなこと気にしてたのか、大丈夫だよ。離れてたって僕たちは家族だ、そうだろう?」
もう一度ぽんぽんと凪の頭を撫でると、凪はなぜだか泣きそうな表情になって掴んだ波多野の腕に自分の額をこすりつけるみたいにして俯いた。
「・・・家族なら一緒に寝て」
そうして必死になって絞り出すみたいに言う凪のことを、波多野は拒絶できないでいる。その昔、母親から十分に与えられなかった愛情を、今更別の誰か、誰でもいいから誰かから搾取するみたいなやり方しか選べない凪のことを、波多野は不憫だと思ったほうがいいのか、不幸だと思ったほうがいいのか、それとも凪にそんな選択しかさせない自分や陽毬のことをもっと責めたほうがいいのか、波多野には分らないでいる。凪の頭をまたぽんぽんと叩いて、波多野は凪が捲った布団の中にごろりと寝転んだ。
「シングルだから狭いよ、いいの」
「・・・うん」
下から見上げる凪の顔は、やっぱり繊細に美しく整っていたけれど、その頬が焼けるみたいに熱く赤く染まっていて、本当ならもっと小さい時にこんな風にしてやるべきだったのかなぁと、ゲストルームの天井を見ながら波多野は考えた。隣でそろそろと凪がその体を丸めている。自分でそう言ったくせに、なんだかよく分からない理由で照れている凪のことは可愛かった。そういう直接的な愛情なら、それに付随する色んなことを考えなくても与えることができると、波多野が思っていたせいなのかもしれない。
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