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第8話

ふたりして黙っていると、部屋の中は静かだった。凪がほとんど反射的に呟いたそれを、波多野が何の感慨も見せずに、すぐさま受け入れたことを、今度はそれを提案したほうの凪が、信じられなくて困惑してしまっている。波多野はゲストルームという名前のほとんど凪のための部屋にあるほとんど凪のためのベッドに、職場から帰ってきたままの綺麗なシャツのままごろんと横になると、隣の空いているスペースを手でとんとんと叩いた。そうして見るとまるでそこが自分のために開けられたスペースみたいで、いや多分実際そうなのだろうけれど、凪はその時それを、そのまま受け入れるには自分の中の何かが圧倒的にまだ足りないと思った。足りないのは多分、何かひとつではなくて沢山のものだったと思うけれど。 「凪、そんな壁に張り付いたら寝にくくない?もうちょっとこっちおいで」 「・・・いい、別に」 額を壁にくっつけるみたいにして、凪は波多野に背を向けたままぶんぶんと勢いよく、波多野にもその拒絶の意味が分かるように首を振った。なんだかそんなに拒否されると傷つくと思いながら、その背中を強引に抱き寄せるだけの理由もなかった。自分で言い出したことなのに、引っ込みがつかなくて困っているのかなと、その依然として赤い耳とか首筋を見ながら、波多野はくすりと笑った。なんだかそういう凪の不器用なところは、よく知っていると思って少しだけ波多野は安心した。 「狭いなら、僕出ようか?」 「いや、いい」 頑なに壁を向いていたのに、そう波多野が言うと、はっとしたように振り返って、凪は慌てた様子で波多野のシャツを掴んだ。薄暗がりに目が合う。やっぱり凪の顔は真っ赤だった。そんなに必死に掴まなくても、自分は凪から離れたりしないのに。こういう時に、波多野は無意味に凪がまだ小さかった時のことを思い出してしまう。目の前にいるのはもう高校生になってしまっている凪だけれど。 「ここにいて」 随分と熱そうだな、まるで熱があるみたいだと、潤んだ眼で言う凪の赤くなった頬見ながら考える。それに上の空で返事をして、凪の頬を包み込むみたいに触ると、波多野が思ったよりもずっと、そこは熱さの秘められた皮膚だった。びくっと手のひらの下で凪が痙攣した後固まって、その茶色の瞳がまるで逃げ道を探すみたいに狭い空間で忙しなく揺れた。そういえば、凪が大きくなってしまってから、こんな風に近くで凪のことを見るのは久しぶりだった。真中は凪のことをまだ子どもだと言ったし、多分波多野も同じように思っているけれど、もうあの頃のかわいい少年はここにはいないのだと思わせるほど、波多野にそういう意味の寂しさを覚えさせるくらいには、凪はもう大人へと変わりつつあった。至近距離で見つめた凪の瞳が、随分大人っぽくなっていて、波多野は少しだけもう少しそれを見ていたいような気がしていた。 「・・・な、に」 「あ、ごめんね、凪なんか・・・熱そうに見えたから」 「あ、・・・ん、そう」 曖昧にそれに返事のような声を漏らして、凪はやんわりと、しかし確実に波多野の手を逃れた。でも背は向けずに、そこで俯いたままじっとしている。本当ならもっとずっと昔に、もっと凪が小さい時に、こうやって一緒に寝てやるべきだった。陽毬はきっと多分そういうタイプの母親ではなかったから、凪はいつからかずっとひとりできっと眠っていたのだろうと思うと、波多野にはその時の凪の要求が、とんでもなく的外れなものだとはとても思わなかったけれど、本当ならばもっとその熱い頬をした少年の中に燻ぶる熱の正体を、もう少しちゃんと掬い取る必要があったのかもしれない。 「おやすみ」 「・・・―――」 赤い顔をしたまま、至近距離で目を反らす凪の返事は聞こえなかった。けれど多分、その時の波多野には、逆立ちをしたって、凪のそれが陽毬の不安定な養育環境の弊害から生まれたものである以外の理由を、その凪の潤んだ瞳の中に見つけることはできなかった。だから波多野はその時凪と向き合って目を瞑りながら、凪とは全く違うことを考えていた。当然みたいに噛み合わないことを、そうやって波多野は波多野なりに、それは大人の尺度でいえばきっと正しいことを、凪のためと思って考えていた。 翌日、物音がすると思って波多野が目を覚ますと、隣で眠っていたはずの凪はすでに起きており、クローゼットの扉を開けて、その前でカッターシャツに着替えていた。珍しく凪のほうが先に起きている。昨日は携帯電話を弄ることも、ゲームをすることもなく寝たからかなと、ぼんやりとその背中を見る。制服に着替えているということは、今日は学校に行く気があるのだなと思って、少しだけほっとした。波多野がゆっくりベッドから起き上がると、凪は後ろの気配を感じ取るみたいにぱっと振り返った。 「・・・あ、弓弦さん」 「おはよう、凪」 「おはよう・・・」 言いながら何か他に言いたいことでもあったのか、凪は口をもごもごと動かしながら、気まずそうに波多野から視線を反らした。波多野はベッドの座ったまま、ぼんやりと凪が着替える様子を見ていた。昨日お風呂にも入らずそのまま寝てしまったから、朝からシャワーを浴びなければならないし、だからといって時間が余分にあるわけではなかったけれど、なんとなくそこを動けなかった。それでなくても波多野はあんまり朝強いほうではなくて、起きた後しばらくぼんやりしないと動き出せないのが常だった。 「あの、弓弦さん」 俯いてカッターシャツのボタンを留めながら、凪は小さい声で波多野の名前を呼んだ。そういえば凪は、真中のことも陽毬のことも呼び捨てをするのに、波多野のことだけは昔からそうやって、何か大切なものみたいに大事に呼ぶのだ。それに疎外感がないと言えば多分嘘になるけれど、くすぐったいような気もしていて、波多野はそれを指摘したことは今までない。 「なに」 「あの、昨日ごめん、八尋にも謝っといて」 こちらを向かないまま照れた背中で、凪はそう小さい声で言った。陽毬は時々、凪は自分の子どもなのに全然頭が良くないと、悪気なく言うことがあるけれど、凪は多分勉強ができる、出来ないとは関係なくずっと賢くて、そして色んなことに敏感に出来ていることを、波多野は分かっているつもりだった。そして本人に直接聞いて確かめたことはないけれど、きっと陽毬もそれは分かっているだろうと思っていた。きっと真中が言った正論のことも、凪は全部分かっているのだ。波多野はやっとベッドから立ち上がって、まだボタンをのろのろと弄っている凪の頭を、昨日やったみたいに後ろからぽんぽんと撫でた。凪は一瞬振り返りそうになってから、思い出したようにクローゼットの扉の内側にある鏡に向き直った。 「うん、わかった」 「今日は、学校ちゃんと行くから」 「うん、それがいいよ」 波多野の前で俯く凪の耳の裏は、今日もひどく赤かった。波多野はその赤さをじっと見ていたけれど、それがどうして赤いのかそういえば一度も考えたことがなかった。そうやって素直になる凪のことをならば、波多野はよく分かっていて、多分よく知っている凪の形をしていると思った。波多野にとってはそのことのほうがずっと大事だった。凪がどんどん少年の丸みを削って、精悍な青年になっていくことが、日増しに嬉しいような少し寂しいような、そんな気持ちがするのはきっと、自分が父親をうまくやれているせいなのだと思っていた。誰も指摘をしないから、波多野は一人でそうずっと勘違いをしていたのだ、長い間。

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