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第9話

「ふーん、まぁ良かったんじゃん?」 その日のお昼、今日も図ったように真中は事務所にいたので、事務所の近くの蕎麦屋に入ってふたりで蕎麦を食べている。波多野が思ったように、別に真中は凪の言動なんて何とも思っていなくて、けれど波多野は凪が謝っておいてと言ったことを、きっと伝えておいたほうがいいだろうと思った。本当ならば、また真中と会う機会は波多野の家にいればありそうなものだし、直接言いなさいと言ったほうが良かったのかもしれないが、結局自分はまた凪を甘やかしているだけのような気もする。 「でもね、本当に俺は陽毬ちゃんと僕の子なのかって言ってた」 「・・・ふーん」 「何か思うところがあるのかな、ここのところ機嫌も悪いし、勝手に反抗期かと思ってたけど」 食べ終わった器の前で、波多野が不安そうに手の形を組み替えるのを、真中は何となく目で追いかけていた。波多野は大事なことが分かっていないことに、真中はその時気づいていたけれど、それを自分が教えてしまうのは何か違う気がしたから、その時はただふーんと相槌を打って黙っていた。波多野には昔からこういうところがある。他人の心の動きには敏感に出来ているくせに、それに自分が絡むとどうも鈍感になりがちで、自分では必死に考えているつもりかもしれないけれど、それが明後日の方向に飛んでいくことも多い。凪が苛々しているのはそのせいだろうと思ったけれど、真中はそれも言わなかった。 「まぁいいんじゃない、陽毬も含めてお前らちょっと話し合ったら?」 「本当のことを?」 「凪ももう16なんだろ、知る権利はあるだろ、自分の出生のことなんだからさ」 真中がそう言うと、波多野は少しだけその表情を曇らせて俯いた。その昔、凪が生まれた時のことを、波多野も陽毬も忘れないでいるみたいな要領で、多分自分もその時のことだけは絶対に忘れないだろうと、真中は思っている。あれから本当に色んなことがあって、あんなに小さかった凪ももう高校生になった。勿論、凪がいつまでも素直でかわいいこどものままでいるなんて、三人のうちの誰も思っていなかったと思う。こんな風にいつか歪みが明らかになる日が来ることを、陽毬も波多野も分かっていたはずではなかったのかと、真中はひとりで考えた。それなのに目の前の波多野は、まさかそんな日が来ることを、全く想定していないみたいで、それは随分楽天的なようにも、その時の真中には思えたのだった。 「でもそんなこと話して、きっと凪はショックを受けるよ」 「・・・いや、大丈夫だろ、アイツなら」 「え?」 向かいで驚いた表情を浮かべる波多野は、きっと凪のことは何にも分かっていないのだ。真中は本人にそれを言うと、温厚な波多野でも流石に怒る気がしたから、言わないでいたが、真中にはそんなことで凪がショックを受けるくらいなら、そもそも陽毬の不安定な養育環境に耐えられているはずがないと思っていた。凪が最近苛々しているように見えるのは、きっと理由が他にあるせいなのだ。 「アイツはそんなことでショックなんか受けねぇよ」 やけに確信的に言う真中のことを見ながら、波多野は少しだけ溜め息を吐いた。 高校生である凪が通っているのは、都立の普通高校だった。陽毬が神童と呼ばれていたことを、誰だったが親切な大人が昔教えてくれて、何となくそのことを凪は知っていた。凪はその神童だった陽毬の息子だったけれど、勉強はどちらかと言えば嫌いなほうだったし、成績もあまりよくなかった。家に帰っても基本的に大人の目がないので、そのうち学校自体に行ったり行かなかったりするようになってしまっている。けれど陽毬は家に帰って来ないので、凪が学校に行っていようとも行かないでいようとも、そんなことと彼女の生活はまるで無関係で、時々顔を見ることはあっても、陽毬が凪に学校のことを尋ねたことすらなかった。家がごみ屋敷になって、生活のスペースがなくなってきたので、いつものように波多野の家に転がり込んだが、波多野は陽毬とは違って、ひどく遅くなる日もあったけれどそれでも毎日家に帰ってきていて、凪の顔を見てただいまとかおやすみとかおはようとかをきちんと言う人だった。そういえば、朝起きたら挨拶をするのだと、凪は波多野の家に行く度に思い出している。波多野は陽毬とは違って、多分凪の周りの常識的な数少ない大人のひとりで、案の定学校に行っていないことを瞬時に見抜いて、学校には行きなさいと珍しく厳しく言われたので、仕方なく凪は今日、久しぶりに学校まで出向いていた。 「あ、凪くんおはよー、久しぶりだね」 「・・・あー、おはよ」 学校に着くと、まるでそこは凪が学校に行っていない時間なんて、なかったみたいに変わらぬ様相でいて、それには少しだけほっとさせられていた。出席率が悪いので、友達らしい友達もあんまりいなかったけれど、別段それで困るようなこともなかった。こういう時に話しかけてくるのは大体女の子で、だから多分同性には僻み半分、敬遠されているのだろうなという自覚はあるけれど、だからと言って自分からへりくだって、友達になってくださいと言うのも面倒くさかった。陽毬のコミュニケーション能力の不味さは、多分一番側で見ている自信があって、あれよりはマシだという自覚はあったけれど、でも凪自身もそんなに快活なほうではなく、どちらかといえば人とコミュニケーションするのは苦手なほうだった。 「凪くん、雑誌見たよ、先月号」 「・・・あ、そう、ありがと」 「ね、なんか扱い大きくなってるよね、凪くん」 「そのうち特集とか組まれちゃいそう」 いつの間にか、側にいた女の子は数が増えていた。陽毬は自分の容姿のことを、多分興味がないから一度も褒めたり、貶したりしたことがなかったけれど、その分なのかよく波多野には褒められた。凪は可愛い可愛いとまるで呪文みたいにあの人は会うたびに言うと、凪は思っている。その波多野のそれが、親バカではどうもないらしいと気づいたのは、一年前繁華街で友達と遊んでいた時、その時一緒に遊んでいたのは、男の子ではなく女の子たちだったが、サングラスをかけた怪しいスカウトマンに、モデルにならないかと声をかけられた時だった。その時まで、凪は自分の容姿が人と比べてどうとか、興味がなかったのであまり考えたことがなかったけれど、第三者の意見は参考になって、なんだか面白そうだと思ったからはじめたモデルのバイトも、なんだかんだと今まで続いている。そういえば、モデルのバイトをやりたいと言った時も、陽毬は何も言わなかった。興味がないから当然かと、母親の痩せた背中を見ながら考えていたことは、多分寂しいと言うことではなかった。 「花森(ハナモリ)」 いつの間にか増殖していく女の子たちに囲まれながら、凪が自分のクラスまでだらだらと歩いている時だった。廊下の向こうから担任がやってきて、凪の目の前でぴたりと止まった。 「・・・なんですか」 「お前、授業終わったらちょっと職員室こい」 「えー・・・めんどい」 「分かったら返事、いいな!」 担任は一方的に凪にそう言うと、それ以上の用はなかったのか、凪はちゃんと返事をしなかったけれど、そのまま廊下を急ぎ足で進んでいってやがて見えなくなった。何となくその時担任がしたい話というのが、凪にも思い当たる節があって、その話はできればしたくないし、されたくもないのだけれどと思ったけれど、それを言う相手はもう凪の目の前からすっかりいなくなってしまっていた。 「島田、なんかやな感じだよね」 隣にいた女の子が呟くように言って、そういえば担任の名前はそんなだったと凪はぼんやりしながら思った。

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