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第3話

   降りると言うのだからしょうがない。    俺はしぶしぶ男の後について席を立ち、男が向かう出口とは反対の出口に向かう。  仕事で疲れている中、これ以上訳の分からないこの胡散くさくて不審な男に絡まれたくなかった。  新幹線が降車駅に止まり、空気が抜ける音と共にゆっくりと扉が開く。  女が持つ業務用のゴミ袋に、飲み干したカフェオレのペットボトルを入れ改札に向かった。  改札に切符を滑りこませて、目の前に顔を向ければ、そこはいつもの馴染みある自分の最寄り駅だ。  ふうと息を吐いて、今日は帰って夕飯を食べたら早く寝ようかと考えてたとき、目の前に立つ水色のワイシャツの男を見て絶句した。  あの、さっき隣に座っていた男だ。こっちを見て微笑んでいる。  さすがにここまでされると、かなり怖い。  俺は目を合わさず、足早にその前を通り過ぎようとしたとき―― 「深谷(ふかや) (まさき)」  男が突然、俺の本名を呼んだものだから、それまでの不審感も相まって、今年一番心臓が跳ねた。 「え……」  俺が目を丸くして立ち呆けているのを、男は俺の元に来るでもなく、俺の方を見たまま立ち止まっている。 「どうして――」  訳が分からず、俺はその端正な顔に問いかければ、男は残念そうに肩をすくめてみせた。 「忘れた? 僕のこと」  え……忘れた? 「高藤(たかふじ) (あい)。忘れた?」  男がその名前を言った瞬間、俺の脳裏には、小学校のあの頃――1年生だった自分の、わくわくして、きらきらと輝いていて、楽しくて親密な、だが小学生の自分には辛すぎる思い出が蘇った。 「どこ行くの、藍。どうして、行っちゃうの……」  あの時、涙が溢れてきて、声が震えて言葉にならなかった。その自分の声は今でも思い出せる。  寂しくて、この世で一人になってしまうような孤独感と、自分の片方がなくなるような喪失感を覚えた、あの日。  それは強烈な思い出で、その親友が転校してからはしばらく心が晴れなかったというのに。  いつの間にか、あの辛い別離の体験を、自分はすっかり忘れ去ってしまっていた。

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