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第2話

2.嵐は突然やってくる 数生との仲は少しやきもきすることはあったとしても概ね関係はうまく行っていて、千早は毎日浮き立った気分で大学に通っていた。 高校ではいつも休み時間に一緒にいたりしたら不審がられるからあまり数生の教室にも頻繁に出入りできなかったけど、大学ならお互いの空き時間に一緒にいられる。こんなに幸せなことはない。 「数兄、お待たせ」 待ち合わせた理工学部の校舎内にある学食に行くと数生は早くも定食を食べ終わっていた。 「お疲れ。さっきの時間、休講になったから早めに食っちまった」 「そうなんだ。言ってくれれば俺も授業出ずに学食に来たのに」 「おいこら、授業はちゃんと出ろよ…」 千早が唐揚げ定食を食べ始めると、数生は正面から心配そうな顔をして言った。 「お前さー、俺といつも一緒にいていいわけ?同じ学部の友達とか作ったのか?授業とか課題の情報交換とか必要なときもあるだろ?」 「友達?んー。特にはまだいないなあ。大丈夫だよ、必要なときは誰かに教えてもらうから。なに、数兄はイヤなの?」 「イヤとかじゃなくて…俺も友達断ってお前とメシ食ったりしてるから『お前としか食事できないほど隣んちの奴はコミュ障なのか?』って言われるし…」 「失礼だなあ。俺はひとりでも平気だけど数兄といたいからこうしてるだけなのに」 「…ったく。まあいいけどさ」 呆れたような顔も可愛いな、とかまた怒られそうなことを思いながら千早は数生の顔を見ながらご飯を口に運んだ。うん、いい。とってもご飯がススむ。 昔から二人で一緒にいるからといってたいした話をすることもない。だからといって気詰まりなわけでもないし、無理して話すことを探したりする必要もなくて逆に心地よく、やっぱり俺たちの相性って最高、と千早は感じる。 そのとき、「あ!おい、倖田、ちょっといいか?」と、千早の様子を見たりスマホをチラっと眺めたりしていた数生に話しかける男がいた。たぶんテニス部の同期だ。 「あー、佐々木か。…悪い、千早、ちょっとだけ抜けるわ」 「ん」 そう千早にことわって少し離れた席に座り、数生は佐々木だとかいう男となにやら部活の打ち合わせを始めた。楽しそうに談笑している横顔は爽やかで健全なテニス部員だ。佐々木は170cmくらいで平均的な体型だが、背が高くて身体つきががっしりしている数生は遠目で見てもそれなりに目を引く。 大学に入ってから数生は部活の打ち上げだとか言って、酒を飲めはまだしないが居酒屋に行って帰りが遅くなることもちょいちょいある。テニス部は女子の方が人数が多いし、女子マネも三人もいる。きっとまた誰かに狙われたりしてるんだろうな、とモヤっとする。 つまんねえ。 ムス、としながら食べ進めようとすると、数生がスマホをテーブルの上に置いたままなのに気づいた。 不用心だな、数兄は、と思ってスマホをなんとなく自分の方に寄せた千早はちょうど来たLIMOの通知を目にしてしまった。 【緑川ユリ】 そこに表示された懐かしい名前を見て千早は目を見開いた。 「ユリ…?」 そして名前の下に【このまえはありがとう。】という一文が読み取れた。 ———このまえはありがとう? 千早は咄嗟に数生のいる方を見た。こちらには気づかず、まだ佐々木と話している。 スマホを目の前に置いて通知画面を見つめる。その先が読みたい。が、確か数生は指紋認証でロックを掛けていたはずだ。 「このまえ…」 つぶやいたが、それ以上は何も分からない。一体どうして高二のときに数生とは別れたはずのユリがそんな連絡をしてくるのか。 ———数兄は、ユリと会ってるのか? それはまったく思いもよらなかったことで、千早の身体には震えが起こった。 思えば去年は、千早は進路を決めたあと生まれて初めて真剣に勉強に取り組み始めた。全くそれまで行くつもりのなかった建築学部を選んだのは父親が建築士で事務所をやっているから、というのもあったが、数生とのこの先を考えてのこともあった。 千早が勉強している間、数生も大学に入って新生活で忙しそうにしていた。テニス部の練習や集まりで帰りが遅くなったり合宿に行って何日か留守なこともあったが、そういうときはちゃんと連絡をくれたし、帰って来れば千早の家に来て甘やかしてくれたりしていたので、数生が大学生活で女の子と遊んだりしてるかも、なんて全く疑ったこともなかった。 ユリはたぶん数生が付き合った女の子の中で一番好きで大切にしていた相手だ。高二の頃、ユリが可愛いとかユリとキスしたとか浮かれて話す数生を苦々しい想いで見ていたけれど、結局は千早が強引に迫って数生の気持ちをこちらに向かせた。 数生は身体の関係に流されてしまってるだけかも、と不安になって〈ユリとよりを戻してもいい〉なんて心にも無いことを言ったこともあったが、結局は数生は千早のことを選んでくれた。 数兄は俺のこと「好きだ」って言った。だから大丈夫なはずなのに。なんで、今さらユリと連絡取ってるの?たぶん、会ってるんだよね? 千早は足元が急にぐらぐらしてきた気がして食欲が失せ、定食を食べる手を止めた。そして、そっとスマホの横のボタンを押して画面を暗くし、トレーを持って数生のいる席へと歩いた。 「数兄、俺、もう行くから…スマホとバッグ、一応持って来た」 「あ、そうなのか?ごめん、じゃまた夜にでも」 「…うん」 数生はすぐまた佐々木との会話に戻っていった。千早はトレーを片付けてふらふらと歩き、ガヤガヤ楽しそうにしている学生たちの中にいたくなくて図書室に向かった。 静かな図書室の、個別にパーテーションで囲まれた席に座って千早は突っ伏した。 ———あれ、何??!! どうしよう。さっきすぐ数兄を引っ張って行って聞けばよかった。 〈ねえ、なんでユリからメッセージが来るの?このまえって何?会ってるの?〉 怖くて聞けなかった。もし、数兄が真っ青になって言い訳を始めたらどうする? もし、『実はユリと付き合ってて…』とか言われたら? 『ごめんな、千早』って言われたら? ぐるぐると考え始めて千早の頭は沸騰寸前だった。 そのあとはずっとどうすればいいのか分からなくて、夜になって【家、帰って来たけど。来るか?】と数生から連絡が来たのに【ごめん、眠いからまた明日】とかいう返事をしてしまった。数生からは【そうか?わかった、またなー】と、ごくあっさりした文面が返ってきて千早は泣きたくなった。 そして千早はそのあと数日、数生を避けてしまった。まったく自分らしくないのだが本当にどうしたらいいのか分からなかったのだ。もし決定的なことを知ったり言われたりしてしまったら。自分がどうなるのかが怖い。 学部も違うし、食堂もいくつもあるから数生と会おうとしなければいくらでも会わずに済んだ。 【千早、どうした?具合でも悪いのか?】と一日に一回は数生からメッセージが来るので、【バンドの練習があるの忘れてて】とか【胃の調子わるいから】とか【授業が午後からだから】とか言って返信すると、【そうか?なんかあったら言えよ。調子悪くてもメシはちゃんと食えよな】とか返って来たりする。しかし数生も忙しいせいか、千早の家に来たりキャンパス内を探しに来たりはしなかった。 避けはじめて四日目、千早は第二外国語の授業を受けるために文学部の校舎に向かった。その隣は経済学部の校舎で、数生に会わないようにこそこそと隅っこを歩く。 しかし文学部の手前の渡り廊下で千早は決定的なことを目にしてしまった。 ユリがいた。友達2人と笑いながら目の前を歩いている。千早は心底驚いた。 そんな。ユリもこの大学だったのか———? 数兄は、ひとこともそんなこと言わなかった。知ってたのなら言えばよかったのに。 『実はユリも同じ大学だったんだよな』とか。『でも心配するなよ、喋ったりしてないし』とか。 でも言わなかったのは…連絡を取ったりしていたからだ。 後ろから見るユリは、数生と別れた二年前よりも大人びていた。以前より伸びた髪は色を明るくしたみたいでさらさらと背中にかかる長さになっている。小さな黒い水玉模様の薄手のブラウスに光沢のあるブルーのAラインのスカートを合わせていて、裾がふくらはぎのあたりでひらひらと風に揺れている。薄くメイクをしていて華奢で女の子らしく、どこからどう見ても男子人気が高そうな女子大生だ。 やめておけばいいのに、千早は気づかれないようにそっと三人に距離を縮めて会話に耳を澄ませた。 「マユ、こないだの青田学院の男の子たちとの飲み会どうだった?」 「ぜーんぜん。期待してたのと違ったぁ。なんか真面目な人たちばっかで全然話、弾まなくてさ〜」 「そうなんだね、意外。ノリのいい人たちばっかりなんだと思ってた」 「ユリはさー、いいよね」 「ん?」 「彼氏、いるじゃん」 「…え、いないよ?」 「嘘だあ。こないだ、またあの背の高い人と一緒に帰ってたじゃん」 「え、ユリ、やっぱりあの人とまた付き合ってるの?」 「あ、違うの。違うんだけど…」 「なんだっけ、倖田くんだっけ。高校のころ付き合ってたんでしょ?ヨリ戻したんじゃないの?」 「え、付き合ってたんだ、知らなかった。お似合いだよね、どうして一度別れたの?」 「うーん、それがその…」 千早はそれ以上聞いていられなくて、くるりと回れ右をしてその場を去る。 嘘を吐かれていた。信じてたのに。 というか、ちゃんと付き合うことになってからは疑おうと思ったことさえなかった。 千早は授業を受けずに学生があまりいなくなった食堂に行くと、そこらへんの椅子を引いてへなへなと腰を下ろした。 「マジでか…」 数生に限ってはそんなことは起こらないし、器用な人じゃないから浮気なんてしようものならすぐ分かるはず、と完全に油断していた。自分が受験で勉強ばかりして数生に会うのを我慢していたときに数生はきっとユリと会っていたのだ。 ユリと会って?一体、何してたんだ? そんなことを考えていたら、千早は顔を手で覆ったまま動けなくなった。 しんどい。誰か助けて。 「あれ、成瀬じゃん!今の時間空いてんの?文学部の食堂にいるの珍しいな。俺は休講になってさ〜…」 食堂で千早を見つけた真島はテンションが上がって肩を叩いたものの、こちらを見た千早が涙で顔をどろどろにしているのを見て驚愕した。 「わっ!!なんだよ、どうしたんだよ、成瀬?!」 「まじまぁ…」 唯一、自分と数生の関係を知っている真島の顔を見て千早はいよいよ「ひっく」としゃくりあげ始めた。 「うわぁ!!なんだなんだ?!」 千早が泣くところなど当然見たことのなかった真島が慌ててポケットを探ってハンカチを 出して渡す。くしゃくしゃのそれを見て一瞬眉を顰めた千早だったが、仕方ないという感じで鼻をかんだ。 「洗って返す…」 「やるよ、そんなもん。だから、何、なんなの」 「…数兄が…」 「まあ、お前が泣く原因なんてそれくらいだよな。で?」 「…浮気してた」 「ええ?!はぁー?!」 真島のデカい声にさすがに離れた席にパラパラ座っていた学生たちもこちらを向いた。 「嘘だろ?!」 「…高二の頃に付き合ってた元カノと会ってた。俺、どうしたらいいか分かんなくて…。数兄がいるから大学もここにしたし、学科だって数兄との将来を考えて決めたのに…」 「ええ?!マジ?!…成瀬って……重っっ!!」 普段は何かと自分を追いかけてくる真島が引いたような顔で見てくるので千早はますます涙が止まらなくなった。 「…数兄と、ずっと一緒にいるには…。俺が親の建築事務所に入ってそこを継いだら、数兄のこともいつか雇ってあげれるかもと思ったりして…」 「え、それ、倖田先輩にも言ったの?」 「まだ言ってない」 「…言ってやれば?ていうか、ほんとかよ、浮気って?倖田先輩ってそんなに立ち回りが上手そうには見えないけど」 「LIMOが来たのも見たし、元カノが同じ大学だって言ってなかったのに文学部にいたし、友達に『付き合ってるんだろ』って冷やかされてた」 「……あー。じゃ、もう真っ黒?」 「数兄に限ってそんなことするわけないだろっ!!」 「自分で言ったんじゃん…。で、何。本人に問い正しもせずにメソメソしてたわけ?」 「…聞けないよ…怖くて」 「わー…。成瀬って本当に先輩に関することだけはヘタレだよな。ちょっと練習したらベースも上手くなったし、見た目もいいし、たいして勉強してなさそうだったのに建築学科に入れるくらい賢いし、女にもモテるのに…て、まあそれはモテてもムダか」 「ほっとけよ。子供の頃から数兄は俺の世界の中心だったから…数兄がいないなら全部が無駄だ……」 「げー。まだ大学一年だぞぉ、俺たち?そんなに悲観することかね。所詮、男同士の恋愛なんて儚いもんだよ。まして先輩みたいにもともとノンケならすぐ女に戻ったって仕方な……あ、ごめん」 「うう…」 また千早の目から涙が溢れ出し、真島は千早の手からハンカチを奪うとそれでごしごしと目元を拭った。 「…まあさ〜、怖いだろうけどちゃんと本人に確認してみろよ。もしかして、ほんとにも〜しかしてだけど、事情があるのかもしれないだろ。んで、やっぱりフラれたら俺が相手してやるって!」 「…ありがとう。でも断る」 「感じ悪りぃな、成瀬って…」 呆れたように言う真島を見て少し気持ちは落ち着いたけど、どうやって数生に切り出していいか分からない。 ———決定的なことを言われたらどうすればいい? 『ユリとヨリを戻したから別れてくれ』とか。『ごめんな、千早。やっぱり、俺、女の方が好きなんだ』とか。 でも。俺とセックスしてるときの数兄はいつも気持ちよさそうだったし、嫌じゃなさそうだった。最近は前よりもずっとたくさん数兄の方から触ってくれたりキスしてくれたりするようになった。頭を撫でて、好きだって言ってくれたのに。 もしかしてやっぱりセックスが相性いいだけだった?だからズルズルと俺と付き合ってた? もし別れようって言われたら。でも、俺、数兄のいない世界なんて見たことがないからどうやって普通に生きて行ったらいいか分からない。 頼んでみる?セフレでもいいからって。二番目でもいいから、そばにいさせてって。 でもやっぱり嫌だ。ユリに触った手で俺にも触るなんて。そんなの、たぶん、全然嬉しくない。いや、それでも嬉しいけど、悲しすぎる。

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