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第3話

3.つい、ときめいたりして 千早はまた悩みの渦の中に取り込まれていたが、三限目が終わると仕方なく理工学部の校舎に戻って四限目の授業に出た。 ほとんど授業は頭に入って来なかったが、気を紛らわすためにノートはなんとか取った。機械的に視線と手を動かしてボードの文字を写していただけで、自分でも何を書いてるのか全然分からなかったが。 授業の終わりを告げるチャイムが鳴るのが聞こえたが、皆が次々と教室から出て行くのが見えてもしばらく千早は動けず、片付けることもせずにぼんやりと椅子に座っていた。 ———無駄だったのかなあ。 この大学選んだのも。建築学科選んだのも。 大学に入るために勉強したのも、これから勉強することも全て無駄になるんだろうか。数生がそばにいないのなら、元々特に興味のなかったことにどうやってモチベーションを持てばいいのか分からない。そもそも数生とユリがいる大学に通い続ける自信もない。 どんよりした瞳でテキストに目を落としていると、ガラ、と扉が開く音がした。 「あ、いた。千早!」 耳によく馴染んだその声にまさかと思って目を向けると、数生がそこにいた。 「…え、数兄…?」 「もー、なんだよ。四限目ここだと思ったから外で待ってたのに出てこないしよ…。どうしたんだよ、千早?調子悪いのか?」 「なんでここって知って…」 「お前、忘れたのか?自分で俺に取った授業の時間割渡して来たじゃん」 「…そうだった」 「なんか、連絡してもちゃんと返さねえし…。何?なんかした、俺?」 「したよ…」 「…は?何が?なんだよ、言えよ、はっきり」 怒ったような顔で数生が千早のいる最後列の席まで近づいてくる。千早はびく、と身構えた。 「…数兄…」 俯いた千早の隣の席に数生は腰を下ろし、「ん?」と、険しくなっていた顔を緩めて千早の顔を覗き込んできた。 「…俺に内緒で、ユリと会ってるでしょ」 そう言うと、数生は目を一瞬ぱちくりさせ、「…ああ!」と合点が行ったような顔をする。 ———本当にそうだったんだ。 一瞬にして千早は顔を歪め、また泣き出しそうになった。 「わ、違う違う、ちょっと待て!誤解誤解!ユリとはそんなんじゃなくて…!」 「そんなんじゃないなら、どんなんだよっ…」 「わかったわかった、まず話を聞け…!」 そう言って千早の肩を掴んだ数生は話し始めた。 * * * 数生がユリが同じ大学にいるのを知って仰天したのは去年の4月の終わり頃だった。 ———ユリ?!どうして…。 キャンパス内の広い中庭を歩いているときに木々の向こう側に懐かしい声がしたのでそちらをふと見たらユリがいたのだった。少し距離があったので友達と話していたユリはこちらに気づいていなかった。 まさかユリも同じ大学だったとは。誰からもそんなこと聞かなかったなあ… この大学には同じ学校出身者はたくさんいるはずだが、学部がバラバラだから頻繁に会うわけでもないし、知っていたとしても気を遣って数生に言わなかった奴もいたのかもしれない。 まあマンモス大だし、あの高校からはちょうど入りやすい偏差値の大学なのだから誰がいても不思議ではない。ユリが自分がいることを知っているのかは分からないが、学部も違うようだし数生は気にしないように努めた。 ユリとはその後もチラっと姿を見かけるくらいで、お互いに目を合わせたり話かけたりすることもなかったのに、状況が変わったのは秋の終わり頃だった。 四限目が終わったあと、数生は課題のための資料を探すために普段はあまり行かない文学部の隣にある図書館に向かっていた。スマホに通知が来たのでポケットから取り出し、画面を見ながら少し歩いていたら、前に人がいるのに気づかずにぶつかりそうになった。 「あ、すいませ…」 「あっ、ごめんなさ…!」 お互いに謝ろうと顔を上げると、「ユ…緑川さん…」「倖田くん…!」と、二人とも一瞬動きを止めた。 「ごめん、スマホ見て歩いてて…緑川さんもこの大学だったんだよね。春頃、いるなって思ったけど声かける機会もなくて…」 「あ、わたしこそ、バッグの中ごそごそしてたから気づかなくてごめんね。…あのね、実はわたしは倖田くんが推薦で受かってたこと知ってたんだ。あ、でも!追っかけてきたとかじゃないよ、本当に。たまたまここか早河田大で迷ってて…。どちらも受かったんだけど、この大学に好きな作家の人が講師で来ててね。それが決め手でこっちにしたんだ」 「そっか…本、好きだって言ってたもんね」 「うん…」 そのとき、確かにどこかで小さく〈カシャ〉という音が聞こえたのだった。 意識していなければ気付かないくらいの微かな音だったけれど、数生にそれが聞こえたのはユリがその音が鳴ると同時にパッとその方向に振り返ったからかもしれない。 それは一度だけだったけれど、そのあともユリはキョロキョロと周りを見渡していて、その顔がどんどん青ざめて行くのが数生にも見て取れた。 「どうしたの、緑川さん?…なんか、さっきシャッター音みたいなの、聞こえたよね」 あまりのユリの動揺ぶりに数生は尋ねずにはいられなかった。 「あのね…。ちょっと前から…写真に撮られてる気がするの。いつも、少し離れたところから聞こえて…わたしが振り返ると、帽子とかパーカーを被って顔を隠した男の人が速足で逃げるみたいに歩いて行くのが分かるの。今のところ、写真を撮られてるだけなんだけど…それが一週間に何回かあることもあって…。なんか、怖くて…」 「写真…?盗撮ってこと?それって、ストーカーみたいな…?」 「分からない…。でも、本当に盗撮するならシャッター音がしないようなカメラアプリだってあるじゃない?…わざと、わたしを振り返らせてる気がするの。なんだか余計に怖くて…」 「…それは参ったね。いつもどうしてるの?学校には相談した?」 「学校にも言ったし、一応近くの交番にも行ってみたんだけど、具体的に何かされない限りはちゃんと動いてくれないみたいで…。しばらく様子を見ましょう、みたいなこと言われて終わっちゃって…」 「はあ?!とんでもないな…。〈具体的に〉って、もう既に盗撮されてんじゃん。捕まえていいよ、それ」 「絶対に盗撮されてるっていう確証もないし…今のところどうしようもできなくて。だから、家に帰るときは途中まで友達に付いてきてもらったりとか、人がたくさんいる道を選んで帰ったりとかなるべく一人にならないようにしてたんだけど…」 「今日はもう帰るの?」 「うん、帰ろうと思ってたとこ」 「…とりあえず、駅まで送ってくよ。何線?」 「あ、わたし大学の提携してる学生マンションに住んでてね。ここから10分の距離だから…大丈夫だよ、一人で帰れる」 「いや、さっきそいつが現れたばっかりなのに、危ないよ。送ってく。俺、今日はテニス部も休みでさ。図書館に寄って帰ろうと思ってただけだし、明日でもいいから」 「…本当?ごめんね。実は、やっぱりちょっと怖くて…」 ユリの身体が小刻みに震えているのを見て数生は可哀想に、と心の底から同情した。ユリは前よりもまた綺麗になっていた。男に付け狙われることだってやはりあるだろう。 「じゃ、行こうか」 「…うん。ごめんね。ありがとう」 数生はユリをマンション前まで送り、「俺のLIMOのアカウントとスマホの番号って消したよね?また登録しといて。で、なんかあったら相談して。呼んでくれれば家に送ったりとかもできるし…。あ、別に下心があるとかじゃないし、心配しないでいいから…」とスマホを出した。 「…ありがとう、倖田くん。ごめんね、少しだけ甘えてもいいかな。今度、お礼させて。お茶でも奢るね」 「いい、いい、そんな気を遣わないでよ。本当に、何かあればすぐ連絡してくれて大丈夫だから」 そうして数生とユリは再び連絡先を交換した。一週間に一度くらい、「倖田くん、今日って何限までかな。もし、四限目まであって、そのあと用事なかったら一緒に途中まで帰れないかな?」とかいうメッセージが届いた。 数生は特に嬉しいだとか迷惑だとか感じるでもなく、当然助けなければという気持ちでユリを送ったり、不安な気持ちを話すのを聞いたりしていた。 「最近は、まだシャッター音することある?俺と帰るときはしてないよね?」 「うん、数生くんといるからか、そういうときは聞こえたことなくて…。けど、たまに校舎を移動するときに聞こえたりするような気がして。もしかして自意識過剰で、関係ない人が撮ってる音にも反応してるだけかもしれないけど…」 「いや、そりゃ敏感にもなるよな、盗撮なんてされれば…。もうちょっと毎日送れればいいんだけどな」 「ううん、時間が合うときだけでも助かってる。…なんか、迷惑かけてばっかりだし、今さらなんだけど…数生くんて今は付き合ってる人いないんだっけ。わたしと帰ったり会ったりしてて大丈夫なのかな?」 「…うん、付き合ってる人は…実はいるんだけど。他の学校の人だし…大丈夫だよ」 「そう?もし彼女が嫌な顔したら言ってね…ていうか、普通は嫌だよね、ごめん。でも本当に無理そうになったら教えて。もっと、わたし、対策を考えるし」 「難しいよな。俺と一緒にいたりするのを見て、そいつが諦めて撮るのを止めてくれれば一番いいんだろうけど…」 そして冬休みに入って、しばらくは学校に来ることがなければ盗撮は収まっていたようだった。しかし、二年の前期が始まった当日にユリはまた〈カシャ〉というあの音がするのを聞き、男が走り去って行くのを見たという。それでまた数生に連絡をしてきて、春先から数回、二人で一緒に帰ったのだった。 * * * 「…ユリ…緑川さんとはそんなわけで連絡を取ってたんだ。別に、お互いやましい気持ちもないし、危険だから送ってあげたり話聞いたりしてるだけだよ。マンションに上がったりしたこともないし」 数生は千早を曇りのない瞳で見つめて言った。けれど、千早はいまひとつ納得がいかない。 「…ねえ、けど、それって…数兄がやらなきゃいけないことなのかな?ユリと数兄はもう関係ないじゃん。いつまで続けるの?そのストーカー野郎に数兄まで狙われたらどうするの?」 「んなこと言っても仕方ないじゃん。警察だってこれくらいじゃ動いてくれないし、学生課なんてアテになんないしさ」 「数兄、お人よしすぎ。練習がある日も、わざわざ一度送ってまた学校に戻ったりしてるんでしょ?彼氏でもないのにすることかな?ユリだって、友達いるんだから他の人に頼めばいいのに…」 「友達にも頼んでるみたいだったよ。けど、女の子と一緒のときは撮られることがある、って言ってたし、万が一のとき男が一緒の方が守れるし、捕まえられるだろ?」 「守るって…数兄って、やっぱりまだユリのこと自分の女だと思ってるの?まだ気になる?」 「お前なあ。そういう問題じゃねーんだって。可哀想だと思わないか?もしそいつが襲いかかって来たりしたら大変じゃん。俺は単に、心配してるだけ。緑川さんはもう、今は知り合いってだけだよ」 「…分かんないじゃん」 「は?」 「ユリは、数兄のこと好きなのかも。だって、彼女持ちだって言ってる人にそんなこと気軽に頼んで来る?怪しいよ。弱いとこ見せて狙ってんじゃないの、数兄をさ」 「…千早。本気で言ってんの?」 ふいに数生の表情が険しくなり、千早は俯いて泣きそうなのをこらえた。 「…言ってるよ。…数兄だって…ユリのこと、またちょっと好きになってるんじゃない?そんなに心配してさ…」 「ばか、お前、本当にまだ俺のこと信じてないのか?俺はっ…お前のこと…」 千早の肩に数生の腕が強く回され、顎を掴まれて上を向かせられた。数生にキスされたかと思うと、厚い舌が入り込んでくる。 「ふっ…。ん、数にぃ…」 絡ませた舌が解かれたと思うと、腕を掴まれて立たされ、押されて今度は床に座らされた。 「数兄…?」 「千早のあほが…」 いつになく怒った顔をした数生が、千早の胸を突いて床に倒す。 「え、え、ちょ、数に…」 また喉の奥まで舌が入り込みそうなほど深いキスをしながら、数生の手が千早のボトムスのベルトを解き始めた。 「黙ってろ、ばか…」 ———え、え、そんな。 千早が驚いてる間に数生の手が千早の下着を押し下げた。その荒々しい行動に反応してむくむくと硬さを持ち始めたペニスが数生の大きな手で乱暴に捕まれ、強く擦られる。 「あっ、あ、ちょ、かずにぃ…!」 「千早…」 ぐいぐいと扱かれ、いつもは受け身の数生によりによって大学の教室でそんなことをされているという事実にさらに興奮してしまった千早はもう今にも達してしまいそうだった。 「あっ、あ、かずにい、んっ…ふ…」 キスで口を塞がれ、息が詰まる。千早の先っぽから出る液体を指先で擦り取っていた数生の手がふいに後ろに回されて、千早の身体はビクッと大きく反応した。 「え、かずにぃ、あ、ちょ…」 濡れた指先がつい、と後ろに侵入するのを感じて千早は仰天した。 「あっ?…あっ…」 ぐい、とそのまま数生の太い指が中に潜り込んで来る。初めての感覚に驚いて千早はぎゅっと数生の背中にしがみつくように腕を回した。 「んあっ、数兄ってば…っ!あっ…」 「俺がっ…こういうことしたいと思うのはなあっ…お前にだけなんだよっ…!」 くい、と折り曲げられた数生の中指がその敏感な場所あたりに当たるのを感じたと同時に、熱が千早の下腹で爆ぜた。びゅる、と白い飛沫が外に飛び出していく。 「千早…お前、もうイったのか…?」 「…はぁっ、数兄がっ…急にそんなことするから、心の準備がっ…!」 はぁはぁと息を吐きながら千早は抗議した。頭はまだ破裂しそうにカッカしている。 「…ごめん。痛かった?」 「痛くない…。ね、数兄……もっと、して…」 「え」 「数兄の…怒った顔…めっちゃカッコよかった…。興奮しすぎてすぐイっちゃった…」 「…お前…てっきりドSかと思ってたけどMっ気もあったのか…?」 「違うけど。数兄は特別…。ね、していいよ。ここでもいいから…。また、俺に指、挿れてみて。なんなら指じゃなくてもいいけど…」 「…しねえよ、ばか。…悪かったよ。ていうか、ほんと、ごめん。ユリのことは早く言うべきだった。お前は受験だったし、なんかデリケートな問題だったから…お前を不安にさせるのも良くないし、言おうと思って、けどなんとなく誤解されるかもとか思って言いそびれてた。お前が合格してすぐ言えばよかったな。ごめん」 「…うん、早く言えば良かったのに。俺も、なんかごめん…」 「ううん。俺が悪かった」 「…じゃ、仲直り?」 「うん…仲直りしよう。…最近、お前が俺を避けてたから、寂しかった」 「ごめんね、俺も早く聞けばよかった。…数兄…。ね、今からさ…ラブホ、行かない?」 「は?」 「数兄と、したい。けど、今日俺んち、親いるし、数兄んとこも誰かいるでしょ?」 「いるなあ」 「行こ。いちゃいちゃ、したいんだ…」 「…分かった。行こうか」 千早はすぐにでも数生に触りたくて、珍しく数生がお願いをすぐ聞いてくれて嬉しくなってしまった。 さっきまでまるで世界の終わりが来たみたいに絶望していたのに、今は数生への欲でいっぱいになった自分を本当に現金な奴だと思った。やっぱり、いいことも悪いことも、数生がいないと始まらないのだ。

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