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第6話
6.いつだってそうだった
夏がそろそろ近づいていた。
ユリに二人の仲を告げたあの日から、数生が忙しいときは千早が代わりにユリと一緒に帰ることにしている。あんなに心をざわつかせた〈緑川ユリ〉の名前は今やしっかり千早のスマホにも登録されていた。
「千早くん、ごめんね。このあと、バイトなんでしょ?」
「別に。ユリんち近いし、駅に行く道の途中だから大丈夫」
「そう?ありがとね」
高校の頃からの癖が出て、数生は〈緑川さん〉と呼ぶのにも関わらず千早はユリを呼び捨てにする。初めうっかり〈ユリ〉と呼んでしまったのだが、『別にいいよ、それで』と笑うのでそのままになったのだった。
「ねえ、千早くんの髪色っていつも綺麗だよね。高校のときも金髪に近い色だったり、ブラウンぽいときもあったり素敵だなあと思ってたけど…。今のアッシュグレーみたいな色もいいよね。それ、いつもどこで染めてるの?」
「んー、中学の頃から通ってる渋谷の店があって…」
「中学のときから渋谷のサロン行ってるの?悪いんだ〜」
「悪くないでしょ、別に。数兄はこだわりないみたいで近所の美容室に通ってるけどさ」
「そうなんだ」
秘密を共有したせいなのか、同じ人を好きになった経験があるせいなのか、ユリとは案外ウマが合った。最初は会話の糸口を探して堅くなっていた二人も、今やどうでもいい世間話で笑い合ったりできるようになっていた。
「最近は盗撮はされてない?」
「うん、二人がよく一緒にいるせいなのか、最近あのシャッター音が聞こえなくてホッとしてるんだ。けどね、困ったことが他にできちゃって…」
「どうしたの?」
「わたし、最近千早くんにも一緒に帰ってもらったり、キャンパス内ですれ違ったりすると声かけてもらったりしてるじゃない?前から倖田くんにもお世話になってて…『どっちと付き合ってるんだ』て、知らない女の子に急に聞かれたりすることがあってね…」
「あー、そういうやつかあ。ユリ、〈魔性の女〉じゃん」
千早が笑うと、ユリは眉を下げて困った顔をした。
「もー、笑いごとじゃないんだってば〜。すごく陰で嫉妬されてるみたいで…。友達にも言われたんだよね、『気をつけた方がいいんじゃない?あの二人、女子からどっちも人気あるから、あんた目、付けられてるよ?』とかって」
「へー。数兄も人気あるんだ?」
「ふふ、千早くんが人気なのは当然なんだね?そうだよ、倖田くんて背が高くてがっしりしてて雰囲気も明るいし、目立つじゃない?」
「えー、そうかなあ」
「…千早くん、顔、ニヤけてるよ?」
「だって、数兄がモテてるのってムカつくけど、そんな人と付き合ってるのって誇らしくもあるじゃん?」
「千早くんの心って複雑なんだねえ」
「俺の推しでもあるからね、数兄は」
「そっかあ」
以前は、こんな平和にユリと話ができるようになるとは、千早は夢にも思っていなかった。どこかでユリに悪いことをしたという後ろめたい気持ちがずっと澱のように心の底に留まっていたのに、まさか仲良くなれるなんて。
しかし、ただひとつだけ、聞いてみたいことは聞けていなかった。
『ユリってさ、数兄にケツ、触られたことってある?』
さすがに数生にぶん殴られるといけないので今のところ口に出さずにはいるが。
翌日、互いに四限目がなかった数生と千早は文学部に近い食堂でユリが来るのを待っていた。
「そーいえばユリが最近、俺たちと一緒にいるから女の子たちに目ぇ付けられてるんだってさ。笑えるよね」
「お前なあ、笑いごとじゃねえっつの。ストーカーに狙われたあげく、女子にまで嫌われたりしたら可哀想だろ」
「やっさしいんだ〜、数兄は」
「なかなかストーカーの奴が特定できないのがいけないんだけど…。確かに俺たちとばっかりいたら、ユ…緑川さんだって彼氏とか作りにくいよなあ。誤解するヤツもいるだろうし」
「数兄、ユリが彼氏作っても平気?」
「当たり前だろうが。今の俺になんの権利があんだよ…。ていうか、お前まだ緑川さんにこだわってんのか?」
数生が眉を顰める。
「うそうそ。数兄のことは信じてるよ。けど、やっぱ人間て自分を好きだった人が他の人を好きになるのとか、気になるのかなと思ってさ」
「…いい奴と、付き合ってくれたらいいなと思ってるよ」
「そうだよね。だからさー、俺、周りに良さそうなヤツがいたらユリに紹介してあげようと思って」
「お前、大学にまだ友達いないじゃん。真島は顔はいいけど中身は邪悪だし男好きだしさ」
「バイト先にだって知り合いはいるよぉ。まあ、紹介するに至るほどの奴はまだいないけどさ」
「まーな。俺も周りに誰かいるかなあ…とか思ったけど俺が紹介するのもなんか違うよな…」
そこへ「お待たせ〜!ごめんね」とユリが手を合わせながら食堂に入ってきた。「あれ、今日は二人ともいてくれたんだ?」
「うん、今日どっちもヒマだったんだ。ユリ、お茶でもして帰ろうよ」
「ほんと?いいね、それ」
そんな二人のやり取りを見て数生は不思議そうな顔になった。
「…お前ら、なんでそんな仲良いの?」
「え、ユリっていい子じゃん?話しやすいしさ。俺、あんまり口数が多い子って苦手なんだけどテンポも合うし」
「あ、そう…」数生はそう言って肩をすくめ「じゃ、行こうか」と席を立った。千早とユリも続いて席を立つ。
「そろそろ暑くなってきたな〜」
「ほんとだよね。こないだ入学したばっかだと思ってたのに」
日差しが強く照りつけるなか、校門へ続く道を三人でとりとめなく話しながら歩く。けれども穏やかな空気のなか、突然ユリがビク、と肩を震わせた。
「緑川さん、どした?」
「え、まさか…出た?ユリ」
「うん…小さくだけど…音がした、気がする」
ユリの顔はみるみる青ざめた。千早と数生が振り返って周囲を見渡すと、20メートルほど離れた木立の向こう側を走っていく男の姿が目に入った。もう夏も近いというのに真っ黒なパーカーを被っている。「数兄、あいつ…!」
「千早っ…!緑川さんのこと、頼む!」
「え?数兄…っ!」
千早が驚いて口を開いたときには数生は自分のリュックを地面に放り出して、すでに中庭を全力ダッシュしていた。
「ちょっ…!…行っちゃった…大丈夫かな、数兄」
数生はガタイが良くて腕っぷしは強いはずだが、心優しいから喧嘩慣れしてるわけではない。まして相手はストーカーのような奴だ。何をするか分からない。千早はもし数生に何かあったら、と思ってゾッとした。
「ね、千早くん…追っかけよう?」
「…うん、そうしよ。走れる、ユリ?」
「大丈夫。行こう」
千早は数生のリュックを拾い、二人分の荷物を持ってユリと息を切らせながら必死で追いかけたが、長年テニス部で鍛えている数生は脚が速く、なかなか追いつかない。その少し先に黒ずくめの男が走っている姿が見える。
「はぁっ、ユリ、あいつ、見覚えある?」
「うん、いつも見かけるの、あの人かも…!」
二人が走り続けていると、数生がついにその男に追いつき、パーカーを引っ掴んだ。男が体勢を崩して地面に倒れる。
「あ、数兄っ、捕まえた…!」
「倖田くーん!」「数兄ー…!!」
遠くから叫んでいると、数生が男に馬乗りになるのが見えた。
「やばっ…!あいつ殺したら数兄の方が犯罪者になっちゃう…!」
「千早くんてば、怖いこと言わないで〜!!」
半泣きのユリと一緒に走ってやっとのことで近づくと、揉み合いになるなか、数生が男のスマホを取り上げるところだった。
「お前だよな?!ユリに付き纏ってたヤツ…!」
あ、数兄ってばどさくさに紛れて〈ユリ〉って呼んじゃってるじゃん、と、こんなときにも関わらず千早はモヤっとした気分になった。
「何だよ、離せよ!なんもしてないだろっ…!」
数生の下で男が喚いた。被っていたパーカーが脱げかかっていて、顔を見るとどうも数生や千早よりも結構年上のようだ。年齢は30歳前後に見える。
「許可なく写真撮ってなあ、こそこそ後をつけたりするのは立派な犯罪なんだよ!…おい、スマホのロック、解除しろ」
「いやだ…!」
「じゃあ、これ、へし折るけどいいか…?」
数生がスマホをぐっと両手で挟み、折る動作をすると、「わかったわかった…!やめてくれ…!」と、男が悲壮な声を出した。
「…早く開けろよ」
数生が男の目の前にスマホをかざすと、男は震える手でホームボタンに指を当てた。
解除されて中身が見えたらしく、画面をスクロールする数生の顔がみるみる強張る。
「…お前、去年の夏ごろからユリのこと撮ってるじゃないか…。そんなに長い間、つけ回してたのか?」
「俺はっ、緑川さんのこと、可愛いなと思ってただけだっ…!写真を陰で撮ってたけだよ。やましいことしようと思ってなんかない!」
「それが十分やましいっつーんだよ!これ、やっぱり折ろうか…?!」
「やめろ、やめてくれ…!」
「…よし、証拠を残す。お前、このスマホ持って画面側を出せ。…千早、俺のスマホ、リュックから取って」
「…わかった」
ごそごそとリュックを探り、数生のスマホを手渡すと、数生はスマホを手にした男の写真を真上から撮影した。画面をスクロールして何枚かまた撮っている。どうも男が持っているスマホの画面にはユリの写真ばかりが並んでいるようだった。なるほど、これでユリのことをこの男自身がいつからいつまで盗撮していたのかが分かる証拠になるかもしれない。
そして、数生はまた男の手からスマホを奪うと、プロフィール画面を表示し、自分のスマホでまたそれを撮った。
「あんた、学生なのか?年上に見えるけど」
「学生じゃっ、ない…」
「じゃ、なんで校内にいるんだよ?」
「…非常勤講師だよ。頼む、見逃してくれ…!俺、もう今期でここの仕事は終わりなんだよ…。これが大学にバレたら、他の大学からも声がかからなくなっちまう…!」
「…はあ?バカじゃねーの、自分が犯罪者だろ?学生課にお前のこと、突き出す」
「や、やめてくれ、頼む。データも、全部消す。緑川さんの前には、絶対もう現れないから…!!」
「信用できねえな」
「信用してくれ…!あっ、このデータ、まず全部消すよ…!」
「ちょ、待て、あっ…!」
数生の手から自分のスマホを掠め取った男は、さっと操作してスマホ内の写真データを全部消したようだった。すかさず数生はそれをまた奪い返す。
「くそっ!証拠が消えたじゃねえか。まあさっきの写真あるからなんとかなるか…。けど、本体のデータ消したところでクラウドとか家にバックアップくらいあるんだろ?…家について行って、全部没収してやろうか?」
「やめてくれ、全部…!本当に全部、消すから…!」
「じゃ、家に帰ったらバックアップのデータの画面、消す前と消した後の写真送れ。……今、俺のアドレス入れといたから、そこに送信しろ。他にもデータあるのかもしれないけど、とにかく全部消せ。もし、ユリの写真がどこかにupされたりしたらお前を疑う。…あと、講師なら入構証あるんだろ。貸せよ」
ぐっと数生の脚で押さえつけられて身動きが取れずに観念したのか、男は素直に尻のポケットから自分の入構許可証を出した。
数生はまたその裏表を撮影する。そして、ユリの方を見て、
「なあユリ、こいつ、どうしたい?やっぱ警察か学生課に通報しようか?」
と尋ねた。
「ひっ、やめてくれ…!お願いだ…!緑川さん、ごめんなさい、本当に、謝るから…!!」
手のひらを返したように弱々しく男がユリに向かって言う。数生と男を見比べて悲しげな顔をしていたユリはしばらく口を噤んでいたが、小さく溜め息を吐いてから言った。
「もういい…。きっと、大学にバラされたら困るんですよね。もし今度、またあなたの姿を近くで見かけたら、さっきの入構証の写真を持って大学と警察に相談します。…もう、わたしのこと追いかけたり写真撮ったりしないって誓ってくれますか?」
「誓う、誓うよ!俺、経営学部だから緑川さんのいる校舎とは本当は遠いとこにいるし…。前、学食にいるのを見て可愛い子だなって思っちゃっただけなんだよ…!」
「……わかりました」
「ユリってば、そんなんで大丈夫なの?」
千早は苦々しい気分で言った。そんな甘いことでいいのだろうか。相手は完全に犯罪予備軍なのに。
「…いいよ。わたしも後味悪いし…。この人のことでもう怖がらずに済むのなら」
「緑川さん、本当にごめんなさい。すいません。許してください…!」
男が涙声で懇願するのを呆れた顔で数生は見下ろしていたが、
「…ユリがそう言うなら仕方ない。けど、さっき言ってたみたいに何かあれば迷わずお前の名前を警察に届ける。いいな?絶対にもう、ユリに近づくなよ…」
と、男に顔を寄せて凄むと立ち上がり、襟元をグイと掴んで立たせた。男は数生よりも10cm以上背が低く、ギリギリと手で襟首を締め付けられて怯えた表情をする。
「ひっ、ごめんなさい、本当にもうしません…」
「わかった、もう行けよ」
そう言ってドン、と数生が男の胸を突くと、一瞬フラリとよろけた男は、はっとした顔をしてくるりと踵を返し、脱兎のように逃げて行った。
「本当に良かったの、ユ…あ、ごめん…昔のクセで呼び捨てしてたけど…。緑川さん?」
「うん。ありがとう、倖田くん。助かった…あの人、本当に怯えてたからもう大丈夫だと思う」
三人の様子を遠巻きに見ていた学生が周りに何人かいる気配がして、「行こうか、これ以上騒ぎになる前に」と数生は千早とユリの背を軽く押して促した。
「そうだね」
千早の心臓は走ったのとハラハラしたせいでまだドキドキしていたが、(やっぱり俺の数兄はすごい)とか思っていた。
子供の頃いじめられていたのを庇ってくれたり、目立つ容姿のせいで上級生にたびたび絡まれたりするのを数生がいつも助けてくれたのを思い出す。昔から弱い者を放っておけない、正義感の強い人なのだ。
少し前を並んで歩く数生とユリを見ると身長差といい雰囲気といい、やっぱりお似合いのカップルみたいに見えて、まだ少しだけ胸が疼く。
———でもきっと、数兄は大丈夫。
千早は自分にそう言い聞かせた。
ユリとカフェに行ったあとマンションまで送った帰り道、駅からの家に続く道の途中で千早は言った。
「今日の数兄、すごくかっこよかったよ。ユリも安心してたね」
「そうだな。まあ、捕まえられて良かったよ、本当に。さっき俺のメアドの方にデータを消去したってパソコンの画面送って来てた。まあ、データなんてどうにでもなるから、しばらく警戒してないといけないけど…」
「数兄は優しいね。…数兄が何人かいたらよかったのにな」
「…ん、なんで?」
「そしたらユリにも貸してやれるし」
「俺はレンタル商品じゃないっつの…。それに」
「それに?」
「何人かいても、同じ性格なら全員お前のことが好きなんだろ?ダメじゃん」
数生は何の含みもなくそう言ったが、それは千早の心をギュッと鷲掴みにした。
「…へへ、そっか」
千早はどうしても触りたくなって、そ、と数生の手を軽く握ってみる。すると「あ、こら」とパッと手を離された。
「…なんだよー、ちょっとくらいいいじゃん、ケチ」
「だって、こんなご近所で噂好きのおばちゃんらに見られたら何て言われるか分かんねーぞ?」
「…俺はいいもん別に」
「お前と俺はよくても親のこともあるだろ」
「ふん、つまんねーの」
「…帰ったら触らしてやるから。…今日、親二人とも帰ってくるの遅いし」
「行っていいの?」パッと千早の顔が輝く。
「じゃ、あとで行く。けど、たまには外でも数兄と、手、繋いだりしたいな…」
千早が口を尖らせて呟くと、
「…千早。今度、旅行でも行くか?どっか遠いとこか、敷地が広くて一緒にいても目立たない旅館とか…」
と、数生が顔を覗き込んで言ってくる。
「行く行く行く!!え、旅館がいいかな、温泉とかある…それか北海道とか?沖縄とかもいいかな?」
「俺はどこでもいいから、探しとけよ」
「うん!!」
機嫌がコロリと良くなった千早を見て顔を綻ばせると、数生は子供にするようにくしゃくしゃと千早の頭を撫でた。
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