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第6話

 とんでもなく忙しかった。僕はオーダーをこなすこと、お客様を待たせないこと、待たせてしまったお詫び。これだけにしか頭がまわらない。裏で必死の顔をしてホールではほほ笑む。僕が笑って気がすむのなら、どんな笑顔でもくれてやる。そんな忙しい日だった。  客が引きラストオーダーが告げられたとき、正直ホッとした。今日がようやく終わる。 「重、悪いけど先あがるわ。智をつれていくから。あとよろしく」 「ああ?他のやつならいいけど、智はないだろ!久!」 「智、着替えて。ちょっとつきあって」  マスターの言うことに僕は従わないとはいえ、重さんの言う通りだ。アユちゃんと二人だったら、重さんが何時に上がれるかわからない。 「マスター、後片付けが……」 「そうなんだけどね、今日は重に泣いてもらう。ほら早く」  しょうがない。僕は重さんに謝って着替え、店をでた。 「そんな時間はかからないから」  じゃあ、店でもよかったのに。明日はいつもより少し早めに店に出ることを考えながらマスターの少し後ろを歩く。10分弱くらい歩いた繁華街のはずれの中通にあるビルの階段を降りた。それにしても、ずいぶん古いというか、昭和な感じというか。  目指す店は地下の一番奥だった。黒い扉を開けて店に入る。 「いらっしゃい。なんだ、久か」  扉を開けた瞬間、ゆったりとしたレゲエのリズムが流れて来た。天井と壁は真っ黒に塗られている中、スポットライトの明かりに照らされたレコードとボトル。  いらっしゃいといった人は、いたずら小僧のような目をした男の人だ。久とマスターを呼んだから親しいのだろう。常連を呼び捨てにする店はないから友達なのかもしれない。  店内には誰もいなかった。カウンターの端にならんで座った。 「仁、智にビールを。おれはメモリ100円のコーヒー焼酎でいいや」 「なんだよ、ボトルいれてくんないの?」 「智がビールをバカバカ飲むからボトルにまで回らないの」  そう、僕はビールが大好きだ。ずっとビールがいい。何杯でも飲み続けられる。 「それは嬉しいね、たくさん飲んでよ。久のおごりみたいだし」 「俺が後片付けもしないで強引に引っ張ってきたんだ。これで金払わせたら重に何言われるかわからん」  カウンターの向こうでカラカラ笑いながら、ジョッキをかたむけビールを注ぎはじめる。「じんさん?」たしかマスターがそう呼んだ。  僕のビールとマスターの前に茶色の液体がきたので、グラスを合わせる。 「おつかれ」 「おつかれさまです」  妙に落ち着く場所だ。流れている音のリズムのせいだろうか。慌ただしかった一日の疲れがどっと圧し掛かる。今日は本当に忙しかった。 「智、加瀬とどういう関係?」  何を言われているのかわからなかった。僕は面倒だからお客さんと店以外で会ったことがない。外で会うくらいなら、店にきてくれたほうがいい。それに仕事中の僕を期待されても、それは僕ではない。そんなボロがでるようなことは無意味だ。 「マスターすいません。加瀬さんって心当たりがないんですけど」  マスターは不機嫌そうな眼を僕に向ける。 「仁、智にビールやって。こないだ一緒にいるのをみたんだ、俺」  僕が誰かと一緒だった?ずっとミサキとしかいないのに。もしかして「加瀬」ってミサキのこと?ミサキは名字じゃない? 「一緒にいたって、中島の店ですか?」 「そうだよ。でっかい窓の店」  ミサキは加瀬っていうんだ。別の人みたいだね、ミサキ。  ほほ笑んでしまったのかもしれない。マスターが僕を見て惚けたように顔が赤くなったから。僕が笑顔を見せると、そうなる人がたくさんいる。ミサキに逢って命が強くなってからは特に。 「マスターすいません。加瀬さんの名前を今初めて聞いたので、わからなかったんです」 「は?あいつ名乗ってないわけ?でも、まあ、なんだ、その……」  言い淀むマスターを見て僕は覚悟した。ミサキが指で水滴を伸ばしていた、あの夜のことだ。あの日の僕達は普通に見えなかっただろう。  傍目に見てもわかったんだ。僕達が顔見知り程度の関係ではないことが。 「加瀬と会っているのか?」  マスターがまっすぐみるから、正直に答えなくてはならない。ごまかすこともできたけれど、ちゃんと言う必要がある。ミサキとの時間は残り少ない。その後も僕は「Satie」を去るつもりはないから。  マスターの性格だと、ここでごまかした僕をもう信頼してくれないと思う。正直に話して、それでダメなら仕方がない。腹を括るしかない。 「マスター、ご心配をおかけしたようです。でも、迷惑はかけないと思います。 あと少ししか僕達には時間がないか。」  マスターの目をしっかりみて言う。 「そんな、はっきり言われてもな……」  マスターは納得したような、諦めたような、そんな顔をしてグラスをあおった。 「まさか加瀬がな。正直びっくりしたんだよ、智と一緒にいるところを見てさ。あんな顔してるのは一人で絵を描いている時ぐらいだったから。久しぶりに見る顔だった」  ミサキが絵を描いてた?どんな顔?思い出してみても、ミサキはいつもあんな表情をしている。僕といたからといって甘い顔に変わることはない。ベッドの中では別だけど。 「あいつ下の名前しか言ってないのか?」 「名前ですか?」  頭によぎるミサキの濡れた目を心の中に押しこめてマスターに言う。ミサキ、どういう字なんだろう。 「稜だよ。俺は「加瀬」って呼んでるけどな」  僕は思わずマスターの顔を見る。りょう?加瀬 稜?それは誰なんだ?混乱してきた。ミサキは誰? 「加瀬……稜?って……名前……?」  今度はマスターが僕を見る。いぶかしげな顔は次の瞬間変わった。 「僕は加瀬さんをミサキと呼んでいます。あの朝店に来た人ですよね?」 「ミサキ?ミサキっていったのか?あいつ」 「僕の名前を聞かれたんです。コーヒーを持っていった時。そのあと地下鉄の改札前にあの人がいました。僕は知らなかったから名前を聞いた。加瀬さんは『僕はミサキ』って言ったんです」  あの日、初めてミサキに抱かれた。あったその日に裸でミサキの前に立った僕。身体の底に熱が生まれる。いや、だめだ、ここにミサキはいないのだから。 「久、ミサキって言ったんなら、もう何を言っても無駄だよ。それに智ちゃんはバカじゃない。自分の行く先をちゃんと見据えている」  僕の前に冷たいビールが置かれる。 「これは僕の奢り、はじめまして、僕はじん。にんべんに漢数字の2で仁。久とは大学時代からの付き合いで、つまりは稜とも知り合いだってこと。もちろん重ともね。 久、いつまでも100円の酒舐めてないでボトルいれろよ。お前がジタバタしたってどうしようもないだろ」  この飄々とした人はあなどれない。そんな気がする。  マスターは壁を見詰めたまま、何も言わない。僕も言うことがないから黙っていた。  智ちゃんと呼ばれるのは嫌いだ。自分の外見と相まって男っぽくないように聞こえるしバカにされているような気がするから。でも仁さんならいいと思った。この人は僕をバカにしていない。優しい気持ちで僕を呼んでいるってわかったから。 「ミサキってなんですか?」  僕はそれだけ聞きたかった、マスターが答えてくれなくても仁さんが教えてくれると思った。加瀬稜ではなく何故「ミサキ」と名乗ったのかを。 「あいつ趣味で絵を描いていた。ヘンテコリンだったけど、気まぐれなあいつらしい不思議な絵だった。色しか塗ってなくて、形も線もなくて色だけ。それを何枚も何枚も。 加瀬は掴みどころのない奴で、気がついたら後ろにいて俺達を見ている、そんな感じの男だった。 『僕はまだ僕になれていない』というのがあいつの口癖。じゃあ誰なんだって聞くと、絵を描いている時だけは僕なんだって。確かに幸せそうだったよ。最後にサインするだろ、それがミサキって名前だった」  僕はとんでもなく有頂天で幸せだった。だってミサキという名前はミサキと僕が唯一共有している物に思えたから。僕達には何もない。この間の夜のように「普通」のことすらままならない。でもミサキは僕にすべてをくれていたんだ。  唯一の自分を僕にくれた。心が満ちた、僕はもう怖くない。僕達の時間がなくなったとしても、忘れることはないだろう。ミサキという音は僕に刻まれたのだから。 「翼君の友達「岬太郎」からとったんだろうって僕が言ったら、おかしそうに笑ってね。稜は「みさきって音が好きなんだ」って言った」 「おい、仁。そんなバカみたいなこと言ってる場合かよ」 「お前が深刻すぎなんだよ。バカなのは久だろ」 「俺はびっくりしたんだよ!あいつは結婚しているじゃないか!こないだ出産祝いも請求されたんだ。仁ならわかるさ、お前の歴代の彼氏を見てきたんだから。でも……加瀬だぞ?」  マスターがため息をつく。ごめんなさい、でもね、どうしようもなかったんだ。 「それは愚問だ久。智ちゃんをみてみろよ。男だって女だって骨抜きにできるよ。 久、どうなんだ?お前、智ちゃんは無理か?」  マスターが僕をみる。無理って言われても、無理じゃないって言われても、どっちにしても僕には居心地の悪い質問だ。マスターと僕?それはありえない。マスターも格好いいけど、僕が心惹かれるタイプではない。そんなことを考えていたら、自然と笑みが浮かぶ。でも場がこんな時だから、ひっこめようとして僕は口のはじだけで笑う格好になった。それを見ていたマスターの顔が赤くなる。 「それみろ、久」 「トイレにいく!」  マスターは店を出て行った。ここは店にトイレがないんだ。そんなことを考えていたら仁さんが僕の前に立った。 「僕、智ちゃんが好きだよ。暇なときは遊びにおいで」 「僕も……仁さんが好きです」 「だと思った。僕の店の売上もあがり、智ちゃんが好きなビールをしこたま飲める方法を今思いついたから。智ちゃんの身体があいたら来るといい」 「……はい」  この人は頭がいい。マスターは直球を投げてよこしたけど、仁さんは違う。  僕の身体があいたら。そうミサキが大阪に帰れば、加瀬稜に戻る日がきたら。僕は一人になるから。好きなビールに慰めてもらうのも一つの方法だね、仁さん。  そのあと仁さんに言われるままボトルをいれたマスターを残して店をあとにした。ミサキのところまで、ここからなら歩いても10分かからないだろう。僕はゆっくり歩いてミサキに近づいていく。加瀬稜という名のミサキに向かって。  僕の中のミサキは昨日より大きくなっている。今なら「普通」もできるかもしれない。そのくらい僕の心は幸福感で一杯だった。 「何をそんなに嬉しそうなの?」  床に座っていたミサキが僕の顔を不思議そうに見あげる。 「マスターに仁さんのところに連れて行かれた。この間食事をしていたところをマスターにみられていたんだ。僕達」 「朝倉に?」 「そう、それで加瀬とあっているのか?って問い詰められた」  ミサキの顔が無表情になる。今日はびっくりしないんだね。なんだか可笑しいね、僕はミサキのことをマスターから教わっている。ミサキが何も言わないから。 「トモキはなんて言ったの?」 「心配かけますが、迷惑はかけませんって言った」  ミサキが床から立ち上がって僕を抱きしめる。 「トモキ……」  僕はもう抱きしめられても逃げない。温かさを知っても怖くない。 「ミサキ。僕もミサキって音が好きだよ」  ミサキの唇が僕の頬に触れる。 「ミサキっていう音は僕とあなたが存在した証だ。二人だけのものだよね。 だから僕は嬉しくなってこんな顔をしているんだよ」  ミサキが息を吐いた。少しして肩が震えだすのが僕に伝わってきた。顔をあげたらミサキの目から涙が零れた。 「ミ……サキ?」  初めてみる顔だった。嬉しさと驚きと、幸福感が混ざった笑み。心の底から愛おしいと思ってしまう、そんな頬笑みだった。 「僕の大事な部分なんだ、ミサキは。そして今はじめてミサキに命が宿った。 そんな感じだよ。トモキが命をくれた」 「僕の命も強くなったよ。ミサキがそうしたんだ」  僕達は口づけを交わす。優しいキス。 「だからまた僕を殺して、僕達はもっと強くなれるよ。そうでしょ?」  ミサキは僕の手を握ってベッドへ向かう。もう充分僕らは言葉を交わした。そしてもっと言葉を交わすんだ。    肌を重ねて……。

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