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第4話 リロン

昼過ぎに目が覚めた。見慣れない天井に、ハッとする。ガバッと起き上がったところはベッドであり、そこにリロンひとりで寝ていたのがわかる。 昨日、銀座の駅ホームからラテンのノリで、軽々しく胡散臭い男にここまで連れて来られて、ご飯をご馳走になり、夜遅くまで飲んで話をしていたのを思い出す。 最初は自分とはタイプが違う人だと思い、適当に話を合わせていたが、音楽や笑いには共通点が多く感じられた。意外で驚く。 しかも、共通言語は日本語だ。その辺、詳しく話はしていないが、二人とも日本語が一番得意なんだろうと思う。 階段を上がってくる音が聞こえる。ここは2階?3階?どこだろう。 「おお?起きたかー?お前すげえな、どこでも熟睡出来るんだな。めっちゃ、ぐーぐー寝てたぞ、半目で」 「うっざ…」 バスルームが3階にあるから浴びてこいと言われる。やはりここは2階のようだ。そして1階は昨日飲んで食べていた店だと言われる。 「ジロウさん、ここに住んでるの?」 「えっ?うっそだろ?その会話3回目だけど…覚えてないのかよ。やべぇ」 「うっざ…」 朝から二回もウザいと人に言うことも初めてである。隣でジロウはゲラゲラと笑っている。昨日も感じたが、非常に元気で逞しい人だ。何も考えていないのだろう。 シャワーを浴びたら下まで来いと言われる。はーいとリロンは、ワザと可愛い声を上げて返事をし、3階に行く。 3階はバスルームとランドリー、それにパウダールームだった。海外のバスルームのように大きく、シャワーもバスタブも広々としていてクリーンである。ランドリーも同じく広いので気持ちがいい。パウダールームは居心地が良く鏡の前から動きたくなくなる。 綺麗なバスタブにリロンもご機嫌になり、ふんふんと鼻歌を歌いながらシャンプーを手に取る。 シャンプーもシャワージェルもエルメスだった。やっぱりジロウはその手の人間なんじゃないかと、改めて勘繰る。その手の人間とは、身体を生業にしている者だ。 エルメスは野生的な香りである。リロンには全く似合わない。だけど、ジロウにはぴったりだと思う。 リロンの見た目とエルメスの香りはマッチしていないから、この香りを身に纏ったまま銀座駅に行ったら、ご婦人には見向きもされないだろう。 今日も昨日のように、銀座駅に向かいホームベンチに座る予定だ。新しいご婦人と知り合わなければならない。だから、今日は途中で香水を買ってから行こうと、リロンは頭の中で道順を考えていた。 シャワーを浴びて、2階に戻る。パウダールームが心地よく、長居をしたくなり後ろ髪を引かれるが仕方ない。 2階に戻り改めて部屋の中を見回すと、ここはベッドルームだとわかる。ホテルのスイートルームくらいだろうか。いや、セミスイートか…とリロンはぐるりと辺りを見渡す。 大きなベッドとソファが、ドカンと部屋に置いてある。奥に小さな部屋があり、そこはクローゼットになっていた。 ここはジロウの家なのだろうか。立地は高級住宅街、1階には自分の店があり、2階3階は住居になっている。持ち家であれば立派である。賃貸だとするとかなり高額な印象だ。しかも海外の家のようにオシャレで変わった造りである。 ブランドのバックパックの中から、黒のパンツと白のシャツを出した。リロンの荷物はこれだけだ。契約終了と同時に買ってもらった物は全てご婦人の家に置いておくという暗黙のルールがご婦人との間にある。 必要な物や服、身の回りのものは、新しいご婦人のところに行き、また一から買い揃えてもらうからだ。 だから、買ってもらったハイブランドのスーツや服などは、全部契約者の家に置いておき、バッグパックに詰めるのは簡単なTシャツとパンツ、下着、パスポートだけである。 以前、ご婦人と契約してすぐシンガポールに行ったこともあった。だからこの生業では、身軽にしておくことも、最低限の礼儀ではある。 トントンと階段を降りて1階に行くと、店ではなく玄関であった。外に出てみると、店の入り口が見えた。 昨日は飲み過ぎたようで記憶が曖昧だ。この店の上で寝ていたのも、さっき起きて何となくわかったことだし、店と玄関ドアが別なことも、今知ったことだった。 店に行くと、ジロウがまた何かご飯を作ってくれているようだった。時刻は昼過ぎ、もうすぐ13時になる。 「腹減っただろ。待ってろよ、すぐ出来るから。昨日、ワイン飲んだからなぁ…飲んだ次の日って腹減るよな。なんでなんだろうな」 「ジロウさん、色々ありがとうございます。お腹かぁ、ちょっと空いたかも。だけど、太っちゃうからなぁ…」 ワークアウトは嫌い。だから食事制限はかなりしている。太らないように毎日少しだけ食べるようにしていた。だけど、昨日は楽しくて飲み過ぎている。悔しいけど、女ったらしで、ラテンの男との会話は楽しかった。 「よし!じゃあ、食べようぜ」 サンドウィッチが出てきた。新鮮な野菜にグリルしたチキンが見えている。ジロウの店はイタリアンだから、パスタとかピザが出ると思った。 太らないようにと思うが、ものすごく美味しそうであり「どうした、食べろよ」とジロウが言うので、パクパクと食べ進んでしまう。 「めっちゃ美味しい…」 ピクルスが入ってて美味しい。思わずため息のように呟いたら、ジロウにチラッと見られた気がした。 「俺さ…イタリアンバルのシェフで、イタリアの血が入ってるのに、イタリア語喋れないんだ。喋れるのは日本語と英語だけ。ウケるよな」 サンドウィッチを頬張りながらジロウからの告白を聞く。特別驚く内容ではない。 「俺も、フランスの血が入ってるのに、フランス語喋れないよ。喋れるのは日本語と英語だけだよ。ウケるよね」 リロンも同様だ。だからなんだ?という感じである。 ジロウと顔を見合わせて笑った。 お腹がいっぱいになったので、 「ジロウさんのご飯は美味しかったよ。ありがとうございました。それでは」と、リロンが言うと「待て待て待てよ」と、ジロウに引き止められた。 「バイトがね…急に辞めちゃってね…今日さ、ひとりじゃ店回せないんだよね…リロンくん、ご飯美味しかった?うんうん…美味しかったよなぁ…」 それから数時間後、リロンはジロウのイタリアンバルBaciami!にウエイターとして立っていた。 生まれて初めての仕事である。

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