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第8話 リロン

ジロウが自宅を出た後すぐに、リロンも久しぶりに銀座まで買い物に出た。 音飛びが酷くなり、壊れているイヤホンの買い替えをしたい。 銀座まで電車で移動し、巨大なLEDパネルのスクリーンと椅子が置いてあるショップまで来ていた。携帯の不具合で、過去に何度かここまで来たことがある場所だ。 急に携帯の調子がおかしくなり、バッテリーが100%から20%へと急降下した時は焦ったが、その時のスタッフの対応と豊富な知識でカバーしてもらい安心した。それ依頼、リロンはこのショップに信頼を置いている。 ユニフォームを着たスタッフがたくさん働いている。特にイヤホンなどアクセサリーの販売と、カスタマーサービスを受け持っている人は忙しそうに見える。その人たちを、ジロウの店で働く自分とダブらせて見てしまうのかもしれない。お客様対応は忙しいけど楽しいよねって。 前はここで3時間くらい待ったこともあったが、今日は平日なので待ち時間は無し。 ラッキーと思い、スタッフに最新のワイヤレスイヤホンを詳しく聞き、ついでに携帯も今よりもグレードの良いモデルに変えようかなとリロンは迷っていた。 ジロウの店で働き始めてから身体の調子がいいと感じる。しかも、毎日ジロウは美味しい食事も作ってくれている。それが理由かどうかわからないが、今日はいつもより気分よく買い物ができるような気がする。 最新のワイヤレスイヤホンは、短時間の充電で長持ちがするという。雨や汗などの、水にも強いらしい。素晴らしい。 魅力的な言葉を並べられてリロンは購入を決めるが、値段を聞き一瞬ためらってしまった。 以前は金額、物の値段など、何も気にせず買い物をしていた。買い物をする時はご婦人たちとほぼ一緒であり、自ら支払うことはほとんど無かったからだ。 それにカードも持たされていたので、自分ひとりの時はそのカードで買っていた。それなので、恐らく、値段を見ずに購入していたんだと気がつく。 だが、今日はワイヤレスイヤホンの金額を教えられた時『高いっ!』と思ってしまった。一般的な金銭感覚が身についたのだろうか。ウエイターとして働いたバイト代から出すのは高いと感じる値段だ。 どうしようか。イヤホンは壊れているから新しい物が必要だ。だけど、ちょっと金額的に高いと感じる。うーんと、悩んだがリロンは購入した。 だって壊れているのだ。今のイヤホンは壊れて使えないのだ。使えないものは、使えるものに切り替える。これは自然な流れである。と、自分に言い聞かせ購入した。 壊れたイヤホンはもう使い道はない。わかっているが、何となく胸にチクっとくるものがある。それは、何だか少し自分に似ているのかもなとリロンは思った。使えないものは排除されてしまうということだ。 ショップの外に出ると夕方になっていた。生温い風が身体をまとって通り過ぎる。温暖化が進んだせいなのか、気候もおかしくなってるようだ。 地下鉄に乗り帰ろうか、それともちょっと洋服でも見ていこうかと、反対側の道に目を動かしたところで、よく知っている人を見かけた。 ジロウがいる。 朝より髪が短くなっているジロウがいた。ヘアサロンに行ったようだ。 サングラスをしているが、間違いない。反対側にいるジロウに大きく手を振ったが、気がついてくれない。声をかけようと思い、交差点で信号が変わるのを待っていると、髪の長い女性が小走りでジロウに近づき腕を捕まえていたのが見えた。 女性もサングラスをしているので、顔は見えないが遠目で見ると二人共、スラリとした身長のカッコイイ外人カップルのように見える。 女性が何か喋りながらジロウに腕を絡め、二人は地下鉄の入り口の階段を降り始めていた。遠目でも笑いあっているのがわかった。 なんだ『女はいない』なんって言ってて、本当はいるじゃんと、リロンは思いながら駅とは逆の方向に歩き始めた。 今日はウエイターの仕事は休みだし、ジロウはデート中だし、ひとりでジロウの家に戻っても何も楽しくなさそうである。 せっかく買ったので、ワイヤレスイヤホンを携帯に接続し音楽を聴く。SZAが流れ出す。ジロウの好きな曲だ。 最近は、店が終わると携帯の音楽をシャッフルでかけて、二人で片付けをしている。好きな曲がかかると二人で踊り出すから中々片付けが進まない日もあった。 そういえば、今日は朝から何も食べていなかったことを思い出す。せっかく銀座まで来ているんだし、煉瓦亭に寄り、オムライスを食べようとリロンは向かった。 小さい頃、祖母がよく連れてきてくれていた場所だ。小さなテーブルがいくつか並んでいる。可愛らしいテーブルクロスもかかっている。ひとりのお客様も多くいた。 ここではケチャップのかかったオムライスが好きでよく食べていた。卵がとろっとしたオムライスではなく、しっかりと卵で包んであるオムライスだ。 煉瓦亭に入ると躊躇せず、オムライスと赤ワインを頼む。 『oh!オムライス!』と心では、はしゃいでいるが顔には出さずに、ただただ出来上がるのを待っている。 そういえば、最近はジロウのご飯以外は食べていなかった。休みの日も一緒にだらだらと過ごし、ご飯を作ってくれているなぁと、オムライス待ちの時間に考える。 今日のように別々の用事をするのは、ジロウのところに来てから初めてであった。だから、さっき見かけたデート中のジロウにリロンはちょっと動揺していた。 オムライス待ちの、はしゃいでる気持ちが少し萎んでしまう。 当然といえば当然、当たり前のことである。女ったらしのジロウだから、恋人や好きな人はいなくても、彼の近くにはたくさんの女性がいると思うし、寄ってくるはずだ。ジロウとの会話は楽しい。冗談ばっかりだが、モテるだろうなと思う。 それに、街で見かけて素敵な人であればジロウは必ず声をかけるだろう。素敵な女性がいるのに声をかけないなんて、失礼だ!とさえ思っていそうだ。ラテン男のノリだし。 宙を見てそんなことを考えていると、オムライスとワインがやってきた。赤いケチャップが乗っていて鮮やかだ。 スプーンで人匙すくってみると、すぅっと湯気が立つ。口に含むと卵がふんわりとし、少し甘みを感じて美味しい。 パクパクと食べ進んでいく。オムライスと赤ワインの組み合わせは、祖母のお気に入りだった。大人になってやっとリロンも同じメニューを頼むことが出来るようになった。今はもう会えない祖母に近づいたなと考えてオムライスを食べ終わる。 お会計をする時に、電子マネーを使ってみた。ジロウの店バーシャミでは、ほとんどのお客様が電子マネーを使う。ここ煉瓦亭でも電子マネーで支払いができるようだ。 スムーズに支払いが出来たので、感動する。ピコンと完了の音が聞こえたので満足した。 リロンはジロウのところで働くまで、電子マネーを知らずにいた。初めて見た時は驚き固まっていたが、今ではすっかり店で使いこなせるようになっている。 だけど、自分が使う機会はあまりない。今日は煉瓦亭で使えたから、帰ったらジロウに報告しようと思う。無事に電子マネーを使えたよって。ジロウが言う通り、感動したよって。 電子マネーを使うのが楽しいから、スーパーで買い物をし、またピコンと音を鳴らしてみようかなとリロンは思い立った。 銀座から6つ先まで電車に乗り、ジロウの家の駅に到着し、改札を抜けるとスーパーが見えた。大きくて綺麗で品揃えもセンスがあるから、リロンはこのスーパーが好きだった。 何を買おうか…特に必要な物はない。 ジロウが何でもすぐに揃えてしまうので、リロンは自分で買い物をすることはなかった。日用品も洋服や下着も、リロンが必要な物はジロウが何でも揃えてくれる。店でリロンが着るラルフローレンのシャツは、何枚も買い揃えてあり、ストックがクローゼットにたくさん置いてあるほどだ。 スーパーの中に入ると綺麗に商品が陳列されているのが目に入る。カレーのコーナーを抜けて、ホームメイドケーキコーナーでホットケーキミックスの箱を見つけた。父が昔よく作ってくれていたのを思い出す。ホットケーキミックスのパッケージは、昔から変わりないようだ。 ホットケーキもパンケーキも同じものだと思うが、それぞれの商品名が書いてある手作りキットがスーパーにたくさん陳列している。 パンケーキとはどうやらふわっとしているもので、ホットケーキはこんがりきつね色のものだと、パッケージからわかった。その中でも、赤い箱のホットケーキミックスはいつも家にあったもの。父がこれだけは得意でいつも作ってくれたものだと思い出す。 今日は何だか家族のことをよく思い出すことが多いなと、リロンは思った。 父は海外に別の家庭があり、ここ数年リロンとはメールでの連絡だけであった。母の顔は知らないし、大好きだった祖母はもういない。 日本で暮らすのは従兄弟の所か、ご婦人との所。思い出も薄い場所なのに、何故か家族のことを今日はよく考える。 思い出も薄ければ、居場所もない。 ご婦人たちとの生活した家も、従兄弟の家も身が縮まる思いをしている時がある。 ジロウと生活をしている場所は、閉店までの期限付きである。だから、どこにも自分の居場所はないんだなぁとリロンは改めて思う。自分で選んできたのだから仕方がないけど、ちょっと寂しい気持ちもある。 それでも、パンケーキではなく、父が作ってくれていたホットケーキが食べたいから、買って帰ろうと赤いホットケーキミックスの箱を掴む。ジロウに作ってもらいたい。 パンケーキではなく、ホットケーキだ。正統派の四角いバターが乗っていて、ホットケーキの熱で溶けだしそうな、それでいてバターが生地に染み込みそうな、きつね色のホットケーキが食べたい。 ジロウが帰ってきたら話をしよう。 今日はいつもより、話をしたいことはたくさんある気がする。 今日はとても楽しかった。 ウエイターの仕事で初めてお給料をもらったから、新しいワイヤレスイヤホンを買ったけど、値段が高くてびっくりしたこと、銀座の煉瓦亭のオムライスが美味しくて、ケチャップが鮮やかだったこと、電子マネーが使えて嬉しくて、スーパーでも電子マネーを使って買い物をしたこと、それと…銀座でジロウを見かけたよってこと。 家に帰ってジロウを待っているも、夜遅くなっても帰ってこない。新しいイヤホンで聴く音楽が楽しくて、イヤホンをしたまま寝てしまった。 朝起きると、いつものようにジロウの足がリロンの足に絡まっていてホッとした。ジロウは帰ってきていたんだ。 「…重い!ジロウさんいつ帰ってきた?」 今日は蹴っ飛ばさずに、足の上に乗っているジロウの足を掴んで、ぶん投げた。 新しいイヤホンはいつのまにか耳から外されていた。ケースに入れられてベッド横に置かれていたから、ジロウが外してくれたんだとわかる。 「ああ…?うーん、タクシーで帰ってきたから遅かったかな」 昨日、銀座で見かけたのはやっぱりジロウだ。寝癖はついているが、髪が短くなってサッパリとしている。 「ジロウさん、ヘアサロン行ったの?」 「おお。昨日、切ってもらったよ」 いつものように二人で伸びをして、3階に上がっていく。 昨日、洗濯をしようと思い忘れていたことをリロンは思い出した。 ジロウがシャワーを浴びている間に、ランドリーに行き、洗濯を始めようと思い、色柄ものを選別していく。バスルームからはジロウの鼻歌が聞こえる。 ランドリーバスケットには二人分の洗濯物が入っていた。昨日、ジロウが着ていたTシャツが一番上に置いてあった。 何気なくそれを手にして、リロンは顔を埋めてみた。ふわっとジロウの香りが広がる。 ジロウのタバコバニラの香水ともう一つ、別の香りもしている。ファッキンファブュラスだ… 初めてジロウと会った時に、ジロウから二つの香水が香った。それと同じ匂いがジロウの昨日のTシャツから香っている。 昨日、ジロウと一緒にいた女性が、この香水の人だったとリロンは知る。 リロンは思わずTシャツを乱暴にバスケットの中に投げ捨てた。

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