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第16話 リロン

「下野さん、振られちゃった?来ないんじゃないの?雨だし…」 「そうかなぁ…やっぱり、振られたと思う?」 下野が座るカウンター席は、キッチンからすぐなので、会話は筒抜けである。 「なぁ、来ないとか、振られるとか言ってるぞ」と、武蔵が小声でリロンに言う。もちろん、武蔵にも会話は聞こえているようだ。 下野が緊張している理由は、誰かと待ち合わせをしていることだとわかった。きっと、今日ここで待ち合わせをしたのだろう。その人が来るのか来ないのか、それでソワソワとしていたのだろう。そして、そのことをジロウはわかっていたような口ぶりだった。 「…んっ?そうでもないか。下野さん、あと一時間ね。今から一時間でいいよ。オマケしとくよ」 下野と二人で当たり障りない会話をしていたジロウが、突然、一時間で閉店するよと、下野に伝えていた。 「ほら、振られてないみたいだよ」と続けて言うジロウの言葉につられて、リロンはキッチンから覗き込むように入り口を見ると、傘をたたんで店に入ってこようとする姿があった。 「料理は適当に出す?飲み物は?」というジロウの問いに「…ああ、適当にお願いしていいか?」と、下野らしくない上擦った声が聞こえた。 「春ちゃん」 下野が甘い声を出す。待ち合わせの人の名を呼んだようだ。 リロンはびっくりして更に覗き込み、今度は下野の方を見てしまう。それ程その声は甘く響いていた。 「うわぁ…強面でもあんな声出すんだ」 武蔵も驚いたようで、リロンの後ろから下野を覗き込んでいる。 「本当…意外だよね。でも、待ち合わせの人、来てよかった。下野さんがガッカリしてるの見たくないよ」 「ええーっ、リロン、いいの?下野さんのこんな感じなの見ても何とも思わない?俺、下野さんのこと好きだってリロンが言い出したら、どうしようかと思ったぜ」 「あのさぁ、武蔵さんは好きとか恋愛とかって本当に知らないんだね。俺がいつ下野さんのこと好きって言った?そりゃ、好きだよ?優しいし性格も良い。だけどそれはお客様ってことで、恋愛じゃないでしょ」 「そんなもん?いいなって思ったら好きなんじゃないの?そんで、それが付き合いたいって思うことなんじゃないの?ダメ!三角関係!」 もしかしたら、ジロウより武蔵の方がラテン系で女ったらしなのかもしれない。 「ほら、覗き込まない!」 ジロウがキッチンに入ってきた。フロアの二人を覗き込んでいた武蔵とリロンはバツが悪くなり、ささっと奥に引っ込んだ。 「料理は…何するか」 「雨の中、来てくれたから、あったかいものがいいかも。トマトソースのパスタいける?後は…今日のスフォルマートがいいと思う。ジロウさん、出してもいい?」 「いいよ。そうだな、リロンありがとう」 ジロウがニッコリ笑って言ってくれた。やっぱりジロウはリロンを信頼してくれる。それだけでリロンは嬉しく思う。 ジロウが作ってくれたパスタと、武蔵が盛り付けしたスフォルマートを、リロンとジロウとでテーブルまで運んだ。 下野の待っていた人は、線の細い小さな男性だった。今日は会社が休みなのだろう。私服姿である。遠目で見ると大学生のようにも見えだが、二人の会話から同じ年かなと思った。 下野と会うのは久しぶりなのだろうか、二人共少しギクシャクとした印象がある。だけど、会いたかったという気持ちが、リロンには手に取るように感じられた。二人の会話と小さなため息から、会えてよかったという気持ちが伝わってきていた。 キッチンに戻ろうとしたら、心配そうに武蔵がまた覗いているのが見えて、ジロウと二人で笑ってしまった。 「あの二人、大丈夫なんでしょうか…」 料理を作りながら武蔵が呟く。 このままキッチンで夜のご飯を食べようとなり、武蔵がまた賄いメシを三人分作ってくれている。 「武蔵、知ってっか?『7-38-55のルール』ってやつ。話をしている相手に与える影響は、言語が7%、聴覚が38%、視覚が55%だってよ。言葉で相手に伝わるのは、たった7%なんだよ。それを今、あの二人は無意識にやってんだよ」 ジロウがしたり顔で武蔵に教えている。 「ちょっとそれ!俺が言ったことじゃん!なんで、ジロウさんの名言みたいにいうの!その話をした時、割合の話だろ?って言って馬鹿にしてたじゃん」 リロンがジロウに文句を言うが、武蔵が「え?なになに?何それ」と、話に食いついてくる。 「動作とか、表情とか、声のトーンとか。言葉以外の方が大切な時もあるらしい。なっ?そうだよな、リロン」 「もう!それ全部、俺がジロウさんに最初に言ったことじゃん。っていうか、よく覚えてるね?言ったこと覚えてるのすごいね、ジロウさん。だけど…そうだね…下野さんのあの口調といい、声のトーンは相手に伝わってると思う。今日の会話の内容なんてどうでもよさそうだし。それより、やっと会えた感じじゃん?だから、お互いの視覚聴覚をフル活用してる感じだよ。下野さん、上手くいくといいなぁ」 武蔵が作った料理を皿に盛りながらジロウもリロンの話を聞いていた。皿に盛り付けしているが、ひょいひょいと手が伸びてきて、三人それぞれがつまみ食いをしている。 「だけどさ…お前は?他人のことはよくわかるようだけど、自分自身はどうなんだよ。案外、リロンは自分のことになるとわからなくなるもんな?」 あははとジロウに笑いながら言われた。 「はあ?俺は誰の気持ちもわかってるじゃん。だから自分のことなんて、よーく理解してるに決まってる!」 笑われたから、ムッとしてジロウに文句を言ってやった。それにしても、武蔵の賄いメシは本当に美味しい。 「えっと、ちょっと待って…言葉で伝わるのが7%だったら…俺はどうしたらいいわけ!言葉で口説かなかったらどうすんの!人類の未来は無いわけ?」 武蔵が腕を組み、急にスイッチが入ったように語り出す。人類は言葉が何より大切だと、武蔵の訴えは切実だ。 「俺はボディランゲージよりも、言葉で口説く派。愛の言葉を惜しみなく伝えて、めっちゃくちゃに甘やかす派なんですよぉ。それなのに言葉がたった7%なんて、ひどいよなぁ。そしたら俺ら、愛の戦士はどうなっちゃうんだよ…」 「なに?愛の戦士って…武蔵さんっていちいち言うこと古いんだよね」 「わかる…そんで、俺らってどこの誰だよ、お前の仲間は」 武蔵の訴えを聞くリロンとジロウはゲラゲラと笑い合った。 「いや、まてよ…あっ、俺、ボディランゲージも得意だった。あっ、大丈夫でーす。ボディランゲージもいけまーす」 勝手に自己解決し、謎に手を上げて「いけまーす」と言う武蔵を見て、また二人で爆笑した。 武蔵は本当に明るくラテンな男だと思う。ぐだぐだと三人で喋り、笑いながら賄いを食べていた。 「よーし、そろそろ一時間だな。下野さん、この後頑張れよっと…」 キッチンで三人がふざけているうちに、一時間経っていたようだ。下野に声をかけにジロウはフロアに出ていった。 「…下野さん、そろそろいい?」 ジロウの声が聞こえる。閉店しますよと下野に伝えたようだ。急いで会計する下野の声が続いて聞こえてきた。 「春ちゃん、パンケーキ好きだよな?パンケーキ食べる?うちにあるよ?作ってあげるよ」 カウンター付近で会計している下野が、相手に話しかけている声が聞こえる。下野は、そういえばという感じで話し始めているが、声のトーンは少し震えて、緊張しているのがリロンには伝わってきている。 「やだ。今はパンケーキより、ホットケーキが好きだから」 下野の相手が間髪入れずに答えた。こちらは素直じゃないようだ。 相手の人『春』も本当はもう少し一緒にいたいと声のトーンから漏れているのがリロンにはわかる。 だけど、思わず『やだ』と言ってしまったようで、後悔しているのが気配で感じ取れた。 春の主張を聞き、パンケーキもホットケーキも同じじゃないかとリロンは呆れていたが、ふとキッチンの隅に、ホットケーキミックスの箱があるのを思い出した。 この前、スーパーでリロンが買ってきたものだ。ジロウに作ってもらおうと買ってきたが、忙しくなかなか言い出せず、そのままキッチンの隅に置いておいたままにしていた。 ホットケーキミックスの箱を掴み、リロンはフロアに出て行った。 「…はい。これあげる。ミルクと卵があれば出来るから。パンケーキじゃなくて、ホットケーキが作れるから」 下野の相手は突然キッチンから出てきたリロンに驚いて固まっている。驚いた拍子でリロンから渡されたホットケーキミックスの箱を受け取っていた。 「あはは、ありがとう。助かった」 下野がホッとしたように笑い、そのまま二人は帰っていった。 「ナイスぅ〜!リロン!よく、ホットケーキミックスなんてあったな。下野さん、パンケーキは準備してたらしいけど、まさか、相手から『ホットケーキが好きだから!』なんて、断られるとは思ってなかっただろうし。うんうん、これで家に行く口実が出来てよかっただろう。愛の戦士、頑張って欲しい」 こちらの愛の戦士、武蔵が能天気に呟き、下野の後ろ姿に親指を立てて勝手に応援をしている。やっぱりジロウより、この人の方がラテンの血が強い気がする。 「パンケーキもホットケーキも同じだろ…だけどリロン、アレ作ってやろうと思ってたのに。いいのか?渡しちゃって。じゃあ…明日、俺が買ってくるか。あれだろ?赤い箱のやつだろ?キッチンにあったやつ」 ジロウは、キッチンの隅に置いてあったホットケーキの箱を気づいてくれていた。 「あはは、もういいよジロウさん。ホットケーキは特別食べたいってわけじゃないし」 そう。 もうすぐ期限は終了。 だから、ここでホットケーキなんて、多分もう食べる機会はないと思うから。 食べれる機会がある人に食べてもらえばいい。 今日の下野は、会いたい人に会えて嬉しそうだった。 みんな自分を必要としている人に会えて羨ましく思う。

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