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第20話 リロン

寝たり起きたり、寝返りが飽きた頃には朝になっていた。 隣にいるジロウはまだ寝ている。 ジロウの絡みついている足からスルリと抜け出して、リロンはゆっくりベッドから起き上がる。着替えやバッグを全て持ち、3階のバスルームに向かった。 バスルーム行く途中、昨日ジロウが着ていたシャツがランドリーバスケットから溢れているのが目に入る。 それを見るとまた胸の奥がムカムカと嫌な気持ちになるが、熱いシャワーとソヴァージュのシャンプーで全て洗い流す。 このシャンプーもあと少しでなくなりそうだ。シャンプーって、ひと瓶使うのに2ヶ月なんだな。そんなこと今まで考えたことなかった。 2ヶ月というジロウとの契約は早かった。ウエイターという仕事は忙しく、あっという間だ。この仕事は初めてだけど楽しい。 飲みに来る人、ご飯を食べに来る人、寂しくてひとりになりたくない人、たくさん話をしたい人。 バーシャミには色んな人が来て、リロンはその人たちと楽しく過ごすことができた。 最近は『閉店するよ!』と、ふざけたメッセージを店内や入り口にジロウが貼ったから「どうしてだ!」という声や「うそだぁ!」という声がお客様から相次いだ。その度にリロンが説明をしている。 お客様には、次はどこで店を開けるのかと問われることが多い。これだけ繁盛している店が閉めるのを決めたのはおかしいと、みんな口々に言う。 それを言われるととリロンは苦笑いをして「あと少し、来てくださいね」と曖昧に答えていた。 常連客の中でも特に仲がいい下野や海斗、蓉には、リロンの次のバイト先が決まってなければ、近所のスーパーでバイトできるよと、仕事を紹介してくれていた。 そこは高級スーパーだ。リロンがいつも買い物に行っている所。この前買ったホットケーキミックスもそのスーパーだった。 海斗と蓉は、このスーパーの本社で働いているという。だからそこだったらすぐに紹介できるし、働けるよと、言ってくれていた。 ありがたい話である。仕事をしたことがないのに誘ってくれている。だけど、リロンは「次は決まってないんですけど、ゆっくり探します」と答えていた。 シャワーを止めた。 全身洗いさっぱりとした。 この後、ソヴァージュのシャンプーは二度と使わないだろうなとリロンは考えている。 この匂いが香ったら思い出してしまう。ジロウと過ごした楽しい日々を思い出してしまう。いつか思い出してもいい時が来るまでは封印しておきたい。 人間の気持ちは、視覚や聴覚など言葉以外で成り立っていることが多い。そうご婦人たちに教えてもらい、ジロウにも伝えていた。 だけど、言葉が必要だということは、ジロウと生活して嫌というほどわかった。 今は、喉から手が出るほどジロウの言葉が欲しい。言葉に飢えているようだ。いや、ジロウの言葉に飢えているという方が、正しいかもしれない。 そんなことは悔しいからジロウには伝えたくない。伝えたところで、求めていない答えが返ってくるのは、怖い。それでも言葉が欲しい考えてしまうとは、重症だなとリロンは思っていた。 リロンはパウダールームで身支度を整え、 ベッドルームには寄らず外に出た。 ヘアサロンに行き、髪を切ってさっぱりとし、新しい生活を始めよう。今日は休みだから時間はたくさんある。これからについて考えようと思う。 いつもヘアカットをしてくれているのは、リロンと仲の良い同業者だ。 いや、同業者だった人だ。 今は美容師として立派に働いている。以前は、リロンと一緒にご婦人と契約しお世話になっていた人だ。 パーティーやお茶会などで顔を合わせているうちに仲良くなったが、彼は、さっさとあの界隈から抜け出した。もうかなり前の話だ。今では銀座で美容師をしている。 さっきバスルームからメッセージを送ったらすぐに返事がきた。今日のヘアカットは夕方ならいいよと。だからすぐに「OK、よろしく」と返信しておいた。 ゆっくり階段を降りて玄関を抜けて、外に出るといい天気だった。空が高く見える。ジロウはまだ寝ていると思う。 外に出てバーシャミの前を通ると、バーシャミの入り口に貼っているメッセージを読んでいる人がいた。 メッセージとはジロウが書いた『閉店するよ!』というやつだ。 いつも来てくれるお客様かなと、横顔を覗き込むとランチで来てくれていた、あの人だった。 「あれ?こんにちは」 「えっ…あっ!こんにちは…」 いつもランチは二人で来てくれているお客様だ。今日は平日なのでランチはやっていない。しかも定休日だから夜も休みである。 「今日は定休日なんですよ」 リロンはニッコリ笑って伝えた。 「あの…お店、閉店するんですね。どこか別の場所に移るんですか?」 「今のところ…他でやる予定はないようです。店はあと少しで閉店なんですよ。次の土曜日の夜がラストです」 リロンがそう言うと、その人は、あと少し…と呟いている。足元を見ると、子犬が戯れついていた。リロンは、しゃがんで子犬を撫でてみる。人懐っこい犬が、クリクリとした目でリロンを見ている。 この人は…確か玖月(ひづき)と呼ばれていたなと名前を思い出した。 バーシャミのランチに来てくれて、少し潔癖症気味だから、よく覚えている。いつもプラスチックのカトラリーを渡していて、使ってくれていた。そして、背の高い恋人がいる人だ。その恋人の名前は岸谷といったはずだ。 「かっわいいですね。わぁ、ゴールデンレトリバー?俺も昔飼ってましたよ、お名前なんていうんですか?」 「ちまるです」 「…えっ、へぇ…かわいいですねぇ。ちまる…くん?ですか?」 『ちまる』とは、どんな意味なのだろう。変わった名前である。 名前に驚き、咄嗟にかわいいですねとリロンは誤魔化したが、玖月は頷いている。ちまるは男の子らしい。 ちまるがリロンに戯れつきながら、何となく二人で歩き始めた。 「ちまるがこんなに懐いてるの初めてみる…すごい…家の中だとイタズラしちゃって大変なんですよ、色んなものをひっくり返してしまって…」 「まだ子供ですよね。今が一番やんちゃなんじゃないかな。いっぱい遊んであげると満足するけど…それはそれで大変ですよね、玖月さんも」 二人で話をしながら川沿いまで歩いてきてしまった。 「あ、あの…名前、僕の名前をなんで知ってるんでしょうか」 玖月が驚いて立ち止まっている。確かにリロンは記憶力がいいから、玖月の名前もすぐに思い出すことが出来ていた。 だけど、この二人はいつもランチで店にきて『玖月』『優佑さん』と呼び合い、イチャイチャしているからジロウも武蔵もみんな名前は聞き知っている。 「えっ!お店でいつも仰ってるじゃないですか?お相手の方が、玖月、玖月って仰ってるから…優佑さん?って呼ばれてますよね?お相手の方。だから、店のスタッフはみんな玖月さんたちのこと知ってますけど」 「ええーっ!本当に?いつの間に呼んでたんでしょうか。そうなんですね…」 うそでしょ?あんなに何度も名前を呼んでいれば、みんな覚えるってと、リロンは呆気に取られる。 でも、この人の声のトーンや仕草や話し方には、嘘はなく素直でいい人だとわかる。 ヘアサロンまで時間はあるから、少しお話しますか?とリロンが誘うと、川沿いのベンチに座りましょうと玖月に言われた。 「玖月さん…座れる?難しいよね?」 リロンは玖月を潔癖症だと感じている。川沿いのベンチなんて座るのは難しいだろう。 「ふふふ…やっぱりわかるんですね。すごい!優佑さんが…あっ、いつもランチで一緒にいる人が言ってるんですよ。あの人はいつも気を配っているって。いつもみんなのことを見てるから、あの店ならきっと大丈夫だよって言われて、連れて行ってもらったんです。連れて行ってもらって良かった!パスタもピザも美味しいし、それにいつもプラスチックのカトラリーをそっと渡してくれるし」 ふふふと嬉しそうに玖月は笑っている。リロンが玖月を見ていたように、玖月や岸谷にも見られていたんだとわかり、ちょっと恥ずかしくなってしまった。 「大丈夫ですよ!座れます。ほら、ねっ?ここは、いつもちまると来てるから、座ったこともあるし大丈夫。それに前はね、もっとずっと酷かったんです。だけど、もう随分良くなってきた。潔癖症ってわかってました?ですよね、あはは」 ぴょんっとベンチに座った玖月の横にリロンも座る。ちまるも一緒にひょいっと抱っこをすると嬉しそうに尻尾を振っている。 「うーん、そうかなって思いましたけど、確信はなかったです。だけど、気になるからプラスチックのカトラリーを渡しました。余計なことだったらすいません」 「ぜーんぜん!あの時、本当にどうしようって思ってたから。だからすごく助かった。ずっとお礼が言いたかったんです。あの時はどうもありがとうございました。そうだ、あの、お名前…」 「リロンです」 そういえば名乗ってなかった。失礼いたしましたと付け加えた。 「リロンさん…」 「いや、さん付けしないでくださいよ」 玖月が真面目な顔をして名を呼ぶので、可笑しくなった。この人は本当にいい人だ。 「じゃあ、リロンくん。改めてよろしくお願いします。そうだ、リロンくん、あのお店って本当に辞めちゃうの?」 「そうなんですよ。ジロウさんの…あっ、あの店のシェフなんですけどね、ジロウさんって。ジロウさんのふざけたメッセージで『閉店する』って書くから、みんなから半信半疑で本当はどうかって聞かれるんですけど…閉店は本当です。あとちょっとなんです」 ちまるがリロンに戯れついてくる。尻尾がちぎれるかと思うほど、ぶんぶんと振っている。その横で玖月はジッと足元を見つめていた。 「そうですか…閉店するのは残念ですけど…リロンくんのおかげで落ち着いて外食が出来た。これは本当に自分の中で大きなことで、感謝しています」 パッと顔を上げ、リロンを真っ直ぐ見つめて玖月は笑って言った。素直な人だと感じる。 「どうしても、手が出せないことがまだあって…それはどれで、いつのタイミングでくるのか自分でもわからない。もう潔癖症は治ってるって思ってるんだけど…たまにその、どうしても出来ないことがあって。それがこの前はナイフとフォークだった。あのお店だと、綺麗で清潔感があるってわかってるのに」 キッカケがあると上手く回避できたりする。だけど、そのままダメだったりすることもあるという。 それって形は違うけど、誰にでも持ってることだとリロンは思う。 「玖月さんのその感覚って充分普通ですよ。何となく躊躇うものってあるし、理由なく嫌なものは嫌だし。形が違うだけでみんな同じようなこと持ってると思うけどな。俺の友達はコースター持ち歩いてますよ。あのコップから水滴が流れて落ちるのがダメなんだって。しかもお店にあるコースターはダメで、マイコースターじゃないと嫌なんだって」 「わかる...水滴でテーブルに輪っかを作ってるのって嫌なんだよね。コースターも、お気に入りのがあるし。それを使いたいって気持ちわかる...」 「あははは、でしょ?話を聞けばわかるってこと案外多いですよね。そんなもんだなって思いますよ。人それぞれ違うし、みんなやれる範囲で過ごしてますよね」 「そんなもんなのかなぁ…」 「そうだと思いますよ?気になるって延長にそれはあるんだと思います。それがみんな違うものだけで」 ちまるがリロンに懐いてくる。かわいい。 玖月も嬉しそうに目を細めてちまるを見ている。 「リロンくんは落ち着いてるよね。話を聞いてても、頼りになるって感じでだし…リロンくんには怖いものなんてないの?」 「えーっ?俺ですか?そうですね、ないです。と、言いたいところですけど、ありますよ」 そう、ある。 玖月はジッとリロンの続きの言葉を待っている。 「うーん…俺は今まで視覚とか聴覚とかが一番頼りになるって思ってて。言葉なんかより雄弁に語るのは人の声のトーンや会話の間だったりすると思ってたんですけど…最近は言葉が重要だと思ってきちゃって。だけど言葉を聞きたくて、聞くのが怖くて…って繰り返しです。自分でも嫌になっちゃいますよ。言葉なんかいらないはずだったのに。だから、怖いものは言葉かな」 「なるほど、やっぱりリロンくんは考えてることも大人だね。僕も仕事中は、視覚とか聴覚って本当に重要だなって思ってる。実際、言葉って本音と逆のことを言ったりする人も仕事してるといることだし…でもプライベートだと、やっぱり言葉は重要かな」 「あーっ!そうですよねぇ。玖月さんはいつも大切にされてますもんね、優佑さんに。プライベートでは言葉は重要だって、見ていてもわかります。俺、いつか玖月さんにお伝えしたかったんです。大切にされてて幸せですねって」 「え、え、えーっ…うう、何だろう、恥ずかしい…ありがとうございます?」 真っ赤になっている玖月の顔を、ちまるが必死に舐めている。それを見てリロンは声を上げて笑った。 川沿いのベンチに座るのは初めてだったけど、玖月と一緒に座れてよかった。 この景色もあとちょっとで見なくなるんだろうなと、リロンはぼんやり川を眺めていた。 「リロンくん、今週末お店に行く。ご飯食べに行くね。人がいっぱいで入れなかったら諦めるけど。最後に夜の時間に行ってみたいってずっとそう思ってたんだ。待っててね、またその時会おう」 玖月は決心したような顔でリロンに向かう。清々しいような、ワクワクしているような、そして、少し不安なような。 「わかった。待ってるね、玖月さん」 約束をした。 言葉を使い約束をする。

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