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第23話 リロン
「武蔵から聞いただろ?俺の恥ずかしい過去の話。フィエロって店を作ってさ…そこが俺の全てだった。だけど、閉店させたんだよ。それは俺の弱さであり後悔だな」
銀座の『フィエロ』を閉めてから、何もせずにフラフラとしていた頃、ジロウはリロンに会ったという。
「俺の気持ちが荒れてた時、本当に酷かった頃にリロンに会ってるよ。ずっと前だけどな」
「…どこで?銀座駅のホーム?」
「そうだよ。今からどれくらい前かなぁ…その後すぐバーシャミをオープンさせたから、3年…いや4年前くらいかな…」
リロンは全く覚えていないが、それくらい前ならあそこに座っていたのは確かだった。
「俯いてベンチに座っててさ、内気な奴なんだろうなって思った。それなのに、女の人から声をかけられるのを待ってるんだろ?そこまでしてやりたい仕事なのかねって思って見てたよ」
外からはそんな風に見られているということは、リロンにはわかっている。
「俺はその頃、女の家に行って、帰ってきて、また別の女の家に行って…それを繰り返してた。何にもしないで、それだけだった」と、ジロウはその頃を振り返り言う。
その頃…4年前の同じような時期、電車を待っている間、銀座のホームベンチに座るリロンの隣にジロウは座ったそうだ。
「その時さ、リロンの腹が鳴ったんだよ。隣に座る俺に聞こえるくらいの音でさ。澄ました顔して座ってても、ものすごく腹減ってるんだなって思って可笑しくなって。ちょっと笑っちゃったら、お前は下を向きながらムッとした顔をしてたよ」
それで咄嗟にジロウがリロンに向かって声をかけたと言う。
「腹減ってんの?何か作ってやろうか?って、俺が声かけたんだけどさ、お前、その時なんて言ったと思う?」
「覚えてない…あそこに座ってるとたまに男の人に声をかけられてたから、いつも無視してた。多分、話はしていないと思う」
「あははは、覚えてないよな。そりゃそうだ。随分前の話だもんな。でもお前、ちゃんと答えてたぞ?」
ジロウは、結構具体的な話をする。本当にリロンと会ったような細かいことも覚えているようだ。
何か作ってやろうかと聞くジロウに対してリロンは顔を上げることもせず、振り向いてジロウを見ることもせず、リロンはジロウに言ったという。
『アマチュアのシェフが作るものなんか食べるわけない』と。
「そう俺に言ったんだよ。そりゃガツンってくるよな。頭にくるっていうか…プロの作った物しか食べないってことだろ?俺のこと知らない奴にそんなこと言われてさ。今まで超一流って言われるフィエロを経営してたんだぜ?そこでシェフをやってた俺にさ、下向いてこっちもろくに見ない奴がアマチュアのシェフのくせにって吐き捨てるように言いやがった。あははは、ウケる。本当に今思い出すと最高だな」
「全然覚えてない…」
「だろ?覚えてたら最悪だから、この前会った時忘れててくれて嬉しかったよ」
知らない人から、お腹が空いてるなら何か作ってやるって言われたら怪し過ぎて警戒するのが普通だ。だけど、リロンはジロウの手を見てシェフだとわかったようで、別の方向からの回答を返していたようだ。
「リロンの観察力だろ。それはここ最近お前と一緒に生活してて本当によくわかった。きっとあの頃の俺を横からチラッと見て、シェフをやってるんだろうけど、適当にやってる奴だから、最高の嫌味としてリロンは言ったんだと思う。本気でシェフをしてないお前はアマチュアだろ?って。そんな中途半端な奴が作るものなんか食べるわけないって。最高だよな、お前。だけどさ、その後俺は、なんでシェフだとわかった?しかも、アマチュアだと言いやがった!って、その言葉ばっかり考える日が始まったんだ」
その後すぐにジロウは今の店、バーシャミをオープンしたという。それからは、毎日店を開け続けていた。
「だからこの前…2ヶ月前?リロンを見つけた時は嬉しかった。もう一度会えないかなってずっと探してたからさ。まぁ、本当は、お前のこと見かけるだけでもよかったんだけど…声をかけるってまでは考えてなかったよ。だけどさ、あの時、俺に向かってアマチュアって言った仕返しをしようと思ってさ、つい声をかけちゃったんだ。だけど、今度はお前の方が消えそうなくらいボロボロになってるから…」
繋いでいる手をギュッと握られる。銀座から夜の道を歩いているが、ここはどの辺なんだろうか。
2ヶ月前に初めて銀座で会った男は、数年前からリロンを見ていた男だと知った。
しかも、能天気で他人のことなんて気にしないラテンの男だと思っていたのに、リロンのことを消えそうなくらいボロボロになっていたと見抜いている。
2ヶ月前、ジロウに会った時、リロンは消えてここから立ち去りたいと思っていた。
もう今の生活が難しいことはわかっていた。ご婦人たちから声はかからなくなる。この後どうやって生活していくのか、考えては不安ばかりだった。そんな時に、ジロウと出会った。
「…知らなかった。覚えてない。ジロウさんと前に会ってたなんてわかんない。でも2ヶ月前もまたお腹空いてあそこに座ってだんだな、俺。全く成長してない」
「あははは、また俺に会ったタイミングで腹を鳴らすってなんだ?って思った。その後は、バーシャミにリロンを連れて帰って俺は嬉しかったよ?アマチュアなシェフって今回は言われなかったから、第一関門クリアだ。連れて帰ってから、こいつに何を作ってやろうか、あの頃から俺は成長出来ただろうか、またコイツに拒否されるかな?とか、ちょっと不安だったけど。あの時、色々と考えてたよ」
それからは、リロンに毎日ちょっかいを出しているのが楽しくなっていったと、ジロウは言う。
初めてやったであろうウエイターの仕事は、水を得た魚のように生き生きとしていた。少しずつ元気になっていくリロンを見ているのが、ものすごく楽しかったと。
そのうち、消えそうだったリロンに力と色が見えてきて、ボロボロでささくれてたであろう気持ちが、しっとりと丸く収まっていくのがわかった。
もう大丈夫なんだろうと思ったよと、ジロウは言う。
「飯を作れば美味しいって言って食べてくれる。俺が作ったものを『いい匂い』だと言い、喜んで食べる姿を見るとたまんなく嬉しい。仕事だって一緒にすれば、毎日新しい発見がある。リロンの持ってきたオーダーを考えて俺が作って、客もそれを笑って美味そうに食べてくれる。シェフとしては、それが一番の幸せだって思う。その後は二人で笑って、風呂入って、ふざけ合って、疲れたらベッドにダイブして寝て…これぞ人生!って思ってたね」
「やっぱり、ラテン男だね、ジロウさん。今を楽しむって感じ?」
「だな。あと2ヶ月、お前とこんなに楽しんで公私ともに生活できるのなんて最高だって。バーシャミを閉店させた後、俺はニューヨークに行くって決まってたんだ。だからそれまで楽しもうぜって」
リロンもジロウとの生活は楽しかった。知らないことが知れるキッカケを与えてくれた人だと思っている。
自分はこんなことが得意なんだとか、オムライスをひとりで食べることが出来たとか、イヤホンの値段が高くてびっくりしたこととか…日常生活っていうものや、価値観とかいうものを、初めて実体験できたと毎日思っていた。
「だけどな…」
ジロウがまた手をギュッと強く握り始める。あれからずっと手を離さないでいる。
「だんだんと…俺はお前を手放すのが惜しくなっていった。リロンは…次はどこで笑うのだろうか。俺の知らないところで笑うんだろうな。どこのベッドで眠るのだろうか。俺はそれを知ることはないんだろうな。それと、毎日の生活が…この感覚はもう二度と共有できないのだろうかってさ」
「ジロウさん…ずるいね。そんなこと今言うなんて」
本当にずるい男だ。
今更どうしろという。
「たまに、フロアからお前に熱い目で見られることが、これからは無くなるんだなとか。そういえば、俺がキッチンから熱い目で追って、お前を見ているのもわかっているのかなってさ」
「…えっ?」
あんなに望んできたジロウの言葉を耳にする。その内容は、都合よく自分の耳に届いてしまう。
深夜、誰も歩いていない道の上で立ち止まり、身体を引き寄せ抱きしめられた。
ダメだとわかっているのに身体をジロウに預けてしまう。
「寝る時は、お前がいなくならないようにって、いつも足を絡めてたりしてた…」
抱きしめたまま、ジロウはリロンの髪にチュッと音を立ててキスをした。
「嫌な男…」
そう言って睨みつけても、ジロウは片眉を上げてニヤッと笑っているだけだ。少しだけでも仕返しをしてやりたいが、憎たらしいことにその嫌な男を見上げると、胸がトクンと音を立てる。
「それで、この後予定しているニューヨークに、お前を連れて行こうかってことも考えたよ」
どういうことだろう。
ジロウの顔を下から見上げると真剣な顔をして、見つめ返される。
「ニューヨークに一緒に行こうって言ったら、お前は何て言うだろうか…」
「…何て言うかな。一緒に行く…って?俺はジロウさんと違って、ニューヨークに行っても何も出来ないし。望んで行くわけではないから、例え行ったとしてもすぐに帰ってくるだろうな」
武蔵が言っていたことは本当だった。
ジロウはニューヨークで店を任される予定だ。このまま、ニューヨークに行ってしまうんだなと思いながら、話を聞いていた。
「そうだろうな。そう言うと思った。やっぱり俺は間違ってなかったか…」と、案外嬉しそうな顔をしてジロウは頷いている。
「だからさ、ずっと考えていた。なかなか踏ん切りがつかなくって…葛藤したけど。それでここ最近ずっと話し合いをしてて。やっと昨日決着がついたんだ」
「決着?」
「ニューヨークで働くことを断った。理由は、俺が欲望を抑えられなくなったからだ。中途半端な俺を、叩き直してくれたのはリロン、お前だよ」
ジロウの胸に顔を埋めながら、ジロウの言葉を聞く。
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