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第27話 ジロウ
えーっ...と。
ベッドの上でも食べれて、ボリュームがあるもの。そして手早く作れるもの。
バターやマスタードを『ヒーロー』と呼ばれている長いサンドウィッチ用のパンに塗り、ゴルゴンゾーラのソースに、玉ねぎのコンフィ、トマト、パストラミをたっぷり入れて、更にもう一枚スライスチーズを上から乗せた。
ヒーローの外はカリッと焼き、中は軽くふわっとさせ、細長いけどボリューミーな
サンドイッチが出来上がった。
長さは30センチ近くになり、ペーパーに包み完成したが、持ち上げるとそのサンドウィッチは、ずっしりと重い。
とりあえず、これくらい食べてもらえばリロンの体力は回復するだろう。水分は2階のベッドルームの冷蔵庫にたくさん入れてあり、途中何度も取らせている。だから、今はとりあえず食べ物だ。
と、考えながらジロウはサンドウィッチで使ったトマトの切れ端をつまみ、口の中に放り入れ、残りを冷蔵庫に戻した。
今年のトマトは例年に比べて甘いと感じる。店に出す野菜は、契約先の土がいいのかどれも甘くて美味しい。
「へえ...本当にあの頃はなんだったんだ」
店のキッチンでジロウは独り言を呟いた。
今日は定休日。ここには他に誰もいない。
誰もいないキッチンで昔を思い出していた。それは、フィエロを経営していた時のこと。突然身体を壊し、店に出ることが出来なくなった時のことだ。
突然訪れたジロウの身体の絶不調は、味覚障害という最悪の名前を医者に付けられた。
今ではトマトも甘く感じられるし、辛い、酸っぱいなどもよくわかる。バーシャミでは、客から美味いと言われる料理だって作れている。
味覚障害といわれた絶不調の病気は、今は既に完治しているのだとわかるが、当時は焦りに焦っていた。
当時、色んなことを試してみるがどれも無意味であり、途方に暮れ絶望の中に引きずり込まれていったのを、今でもたまに夢に見ている。
その不調を知っている人はいなかった。いや、姉は知っていたから、姉以外で知る人はいなかったが正しいかとジロウは、思い直した。
フィエロを突然閉めた理由だ。フィエロを経営中に身体を壊したとは本当のことだが、ベッドから起き上がれないという症状ではなく、味覚障害になったため店に出られなくなっていた。
シェフにとって味覚障害は致命的だった。何を食べても無味無臭。全ての食べ物がゴムのようだなと思っていた。
結局、フィエロを途中で見捨て、料理の世界からも遠ざかり、その場しのぎの生活を毎日繰り返していた。
あの頃は、酒だけが味方だった。無味無臭の酒は酔うことができる。飲んで酔って遊んでいた時、少しずつ味覚障害は治っていった。
突然始まったのに、治るのは少しずつ。それもまたジロウを苦しめることになった。
治った時には、フィエロも、周りの人間関係も、全て失っている。
看板シェフの味覚障害なんて、センセーショナルなニュースを流したら店や他の従業員に傷がつく。
そのため、従業員にも客にも、フィエロを閉めた理由は伝えていない。
あの時、姉が全てを抑えてくれて後始末までしてくれていた。だから、今でも姉には頭は上がらない。
その最悪な頃、ジロウはリロンに地下鉄の駅のホームで出会っていた。
「さてっと…」
ずっしりと重いサンドウィッチ2つを手に、店から2階の自宅へ上がっていく。
ベッドを覗くと、横になっているリロンが見えた。まだ寝ているようだった。
味覚障害で最悪な頃、偶然会ったリロンをずっとジロウは探していた。
再会した時は震えた。見返してやろうという気持ちが湧いた。何とか店まで連れて、料理を食べさせ美味いと言わせたい。あの時、咄嗟にそう考えた。
それなのにな…一緒に暮らし始めたら目が離せなくなり、心を鷲掴みにされていった。笑っちゃうくらい、自分がリロンに惚れていくのがわかった。
お前に惚れていると、伝えることができ、キスをして抱き合ってと、自然な流れだっただろう。
時間を忘れて身体を求め合ったなんて、まだ若いなぁとジロウは苦笑いしてしまう。
だけどな…やっと手に入れたという感覚が近いんだ。これから身体も気持ちも溶け出すほど甘やかしてやるから、覚悟しておけよとジロウは心の中で呟いた。
少し短くなった髪をサラッと撫でると「ううーん...」とリロンは言い、目を覚ましたようだ。目を覚まして欲しいと願って撫でたのは正解だ。
「起きた?」
「…えっ?今、何時?」
「9時かな」
「朝、夜?どっちの9時?」
「夜の。今は水曜日の夜9時」
「マジでっ?痛っ...」
この細い身体に想いを全てぶつけていたので、時間なんてあっという間だった。優しくしたつもりだったが、どうだろう。
年甲斐もなくセックスに夢中になってしまったようだ。リロンは起き上がると身体が痛いと言うので心配だ。
「リロン?起きれるか?大丈夫か?」
身体を抱き寄せ、背中にクッションと枕を入れてあげた。何とかベッドに座ってくれている。
「あははは、あんなカッコなんてさぁ…普段しないじゃん?だから、股関節が痛い」
セックスをしている時の体勢をジョークにしている。リロンの照れ隠しだとわかる。
「確かに、人に向かって足を広げるなんてしないよな。だけど、俺のリロンはかわいかったぞ。また俺に向かって足を広げる?広げちゃう?」
「もう!やめろよ。それにかわいいって言うなよ」
「じゃあなんて言うんだよ。俺のリロンは色っぽい?やらしい?とか?」
「やらしくないってば!」
「うーん...じゃあ、かわいくて、色っぽくて、いやらしくて、俺はねぇ骨抜きにされてますよって言うか。ちょっと長いご挨拶文だけど、まあいいでしょう。これからそう言うよ。アモーレ!」
なに、ご挨拶文って...と口では言うが、リロンは笑っている。嬉しそうなのは、目の端で確認してからキスをした。
「だけど、大丈夫か?ちょっとやり過ぎたかなぁ…それに、俺の底なしの性欲に付き合ってくれてるから、腹減っただろ?でっかいサンドウィッチ作ってきたから食べようぜ」
ペットボトルの水は、もう何本も空けている。新しい水を冷蔵庫から出しリロンに手渡しした。
2階のベッドルームには、ベッドにソファ、冷蔵庫。その奥にウォークインクローゼットがある。
テレビもなければラジオもない。スマホやタブレットで映画を見たり、音楽を聴いたりすることはある。
このスタイルはリロンも好きだと言っていた。その辺は気が合うところだろう。
「...お腹空いた。ダイエットにはよかったかもしれないけど」
「ダメ!ダイエットなんてしちゃ。俺、泣くよ?最初に会った時より今のお前の方が好き。ちょっとふっくらしてきて、抱き心地もいいし。何より健康的だ」
「体力は凄くついたと思うんだよね。ウエイターは立ち仕事だし。だけどジロウさんの体力には敵わないからさ…セックスって体力使うね」
「そりゃそうだろ。愛をぶつけるんだから。でもな…優しく優しく抱きしめたのに、やっぱり身体が痛いか...ごめんな」
チュッチュッと頬と唇にキスをして、ほら食べる?と、サンドウィッチを渡すと、リロンはペーパーを開き、端からかぶりついている。
「んんっ!おいし!ジロウさんのご飯は全部好き。めっちゃドストライクなんだよね。ああーん、このゴルゴンゾーラのソース美味しい…玉ねぎのコンフィも甘くて美味しい。最高…」
ベッドに並べたクッションに埋もれそうになりながら、リロンは嬉しそうな顔を覗かせている。
それを見ながらジロウもペーパーを開く。一口食べると、パストラミの肉の甘みとゴルゴンゾーラのソースが口に広がり、リロンの言う通り玉ねぎも甘くて美味しかった。
やっぱり味覚は戻ってきている。
今は何も不自由はない。
だけど、また同じようになったらと多少の不安はある。
でもな…今は怖いことはない。根拠もなく、不思議だけど。リロンが正してくれていることはわかっている。
「やっぱり、俺の指針はリロンなのは間違いないな。助けてくれてありがとう」
「はあ?助けるって、何言ってんだよ。ジロウさん大丈夫?セックスのやり過ぎじゃない?」
「セックスにやり過ぎってことはない。この後もまたするぅ?しちゃうよ?」
あの時、言葉でガツンと殴ってくれてありがとな。今は間違えずにいられるよ。
それと、この先の俺を大いに期待して待っててくれと、ジロウは思っていた。
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