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第31話 ジロウ

今朝はバスタブに湯を張った。 「おーい、バスボム持ってきてくれよ!」 パウダールームにいるであろうリロンに声をかけた。昨日はバーシャミ最終日で盛り上がり、最後は四人で結構飲んでしまった。だから今朝はリロンと二人でゆっくり湯に浸かりたい。 昨日、クミコはお迎えの車が来て帰って行った。来週にはこっちの近くのホテルに移動してくると言われている。 「バスボムもさぁ、結構たくさんあるから引っ越しするのに持っていかないとね。荷物まとめるの大変なんじゃない?」 バスボム数個と一緒にリロンがバスタブに入ってきた。シュワーッと音がしてバスボムが溶けていく。湯の中で、ジロウはリロンを抱き寄せた。 リロンを後ろから抱きしめて、首筋にキスをする。細い首が魅力的だ。 「…ねぇ、ジロウさん。あのさ…」 「ダメ…」 「まだ何も言ってないじゃん!」 言ってないが、言いたいことはわかる。 ジロウは大きなため息をついた。 「俺もさ、お前が言う視覚、聴覚ってやつ?わかってきたかもな。だけどよ、これって好きな人限定だぜ?それ以外の人のことは、俺にはさっぱりわかんねぇな」 「じゃあ、俺の言いたいことわかってるってこと?」 「ううーん…まぁな…わかってるんだよなぁ。わかっちゃうんだよなぁ。だけど、やっぱりダメ!俺、泣いちゃうよ?」 「だから、まだ何も言ってないじゃん!もう、ふざけてばっかり」 あははと二人でバスルームの中で笑ったら声が反響した。引っ越し先はバスルームとキッチンが広いところにするつもりだ。 リロンの言いたいことはわかっている。クミコのところに少し行きたいということだろう。 「ダメって言うかもしれないけどさ…ちょっとだけ聞いて?苦手な言葉を使って話するからさ」 「ほら!ずっるい、リロン。そうやって、苦手な言葉とか言っちゃってさ。俺がそういうの弱いって知ってて言うじゃん」 わかっているが、ふざけて首筋に噛みついてやった。リロンは、あははと笑っている。 「あのね、わかってると思うけど…クミコさんのところに少しだけ行かせて?この後フィエロがオープンしたら、俺は無職になるだろ?何も出来ないのわかってるけど、クミコさんが何かヒントをくれそうなんだ」 ここまでふざけて絡んでいても、リロンはどうしても言う気だ。もう自分の中では決めている事なんだろう。 「わかってたよ、そう言うだろうなってこと。だけど今は、そばにいてくれってだけじゃダメか?」 「そばにはいるよ?でもさ…何か見つけ出さないと…」 「あのな、リロン。俺の中では結構長い時間をかけての構想があるんだ。今だけの、目先のことを話しているわけじゃない。リストランテであるフィエロはもう一度やり直す、それは俺の夢だったし、お前が目を覚ましてくれたからな。だけどな、バーシャミはきっと、俺とお前のベースになるものだ。生きるベースって言っても大袈裟じゃないだろう」 「そうだけど…もう昨日閉店しちゃったじゃん、バーシャミは…」 リロンは、バーシャミではウエイターとして活躍できたが、リストランテであるフィエロでは何も出来ないと思っている。その気持ちは伝わっていてわかる。 「そうだな、もう必要ないと思ってたから契約通り閉店だ。だけど、今は違う。俺はいずれバーシャミもやり始める予定だ。フィエロを復活させるって決めた時、同時にバーシャミも残していかないとって考えていた。どっちかひとつだと、俺はバランスが悪く偏った人間になっちまう」 驕り高ぶる。傲慢。つけあがる。 全部、以前の自分にピッタリの言葉だ。高級だ、超一流だとフィエロがもてはやされていた頃、メインシェフである自分も高級だと勘違いした。一部の人からは、傲慢と言われていたはずだ。 フィエロだけを始めると、同じようにつけあがった人間に戻ってしまうだろう。しかし、バーシャミだけではもう物足りない。だからいずれ両方やる予定を立てている。 「体はひとつしかないだろ?両方を両立させるなんてことは難しいよ」 「リロン、人生は食事と愛なんだ。食事をするには、どんな人でもリストランテとバルの両方必要なんだよ。両極端だけど、両方あってバランスがとれている。どんな形になるかはまだわからないが、俺は両方やるつもりだ。俺にとっては愛の場所だ。またお前とバーシャミで食事と愛を作っていきたい。だからバーシャミができるまでは俺を支えて欲しい。俺がまた間違えたらお前に教えてもらいたいんだ」 「また…そうやって、言葉で惚れさす。こうやって、ちゃんと話をしてくれないと、わかんないじゃん」 「えっ…えーっ、本当にぃ?惚れた?」 「うん、まあね。そっか、バーシャミもフィエロもやってバランス良くか…時にリストランテ、そしてバルねぇ…どっちも愛で出来てるもんね?」 バスタブの中でギュッとリロンを抱きしめる。リロンの肌は熱くなってきて、熱っているようだった。 「だけどさぁ、そんなにいっぱいやるなんて、無理してない?無理しない?」 「うん、もうな、俺は無理はしないって決めたんだ。無理して体を壊したことあるんだぞ?だから、色んな人を頼って、やりたいことをやっていくんだ。笑って愛を提供出来ればいいじゃんって感じ?それに、策は考えてあるんだよ」 クルッとこっちに向き直したリロンにチュッとキスをされる。そのままジロウからもチュッチュとキスをしていくから、バスタブの中にリロンは沈みそうになる。そんなリロンを慌てて引き上げた。引き上げられたリロンはゲラゲラと爆笑していた。 「うん。わかった!ジロウさん。じゃあ、やっぱりクミコさんのところに行ってくるよ」 「なんだよっ!おおーい!わかってないじゃん。ダメ、離れて暮らせない!」 「大丈夫だから。すぐに帰ってくるって。バーシャミをやり始めるまでなんて、黙って待ってられないよ!アレでしょ?バーシャミをやり始めるまで、俺にゆっくりしてろよってことなんでしょ?だったら、クミコさんの所に行ったっていいじゃん」 「わかんねぇじゃん!バーシャミはまたすぐにオープンするかもよ?それまで、リロンは少しゆっくりしてればいい。俺のそばから離れないでくれよ」 「わかったから!それより、引っ越し!ちゃんとしておいてよ?この辺に引っ越しする?」 あーあ…こうなることはわかってたんだよな。と、ジロウは盛大なため息をついた。が、仕方ないのかもしれない。 リロンがやりたいと思うことをやらせてあげるのが一番いいとわかっているからだ。 「…引っ越し、ガンバリマース」 機嫌のいいリロンが、今日はシャンプーをしてくれた。 ◇ ◇ 約束通りの月曜日。閉店したバーシャミの店内で、武蔵とリロンにジロウから説明が始まる。 フィエロは銀座でオープンする。オープンまで3ヶ月。その間にメニュー開発や仕入スタッフの採用、それと他にもやることがある。 「バーシャミに来てくれてた下野さんってわかるよな?あの人、デリカテッセンとクラウドキッチンを経営してる社長なんだよ」 「何ですか?そのクラウドキッチンって」 「レンタルキッチンってとこだな。それを経営してんだよ。今はさ、店が潰れちゃって調理するところが無い料理人多いじゃん」 「へぇ〜レンタルキッチン…料理したい時に貸してくれるみたいな?でも、そこで料理してどうすんの?お客さんをそこに呼ぶんですか?レストランみたいな感じになってるのかな」 珍しくまともな質問を武蔵が続けている。 「クラウドキッチンは、あくまでも調理するだけの場。お客さんを呼ぶことも出来ないし、レストランにもならない。クラウドキッチンを利用する多くの料理人たちは、そこで作った料理をデリバリーを使って販売するらしい。だけど、俺はデリバリーではなく、下野さんがもうひとつやってる仕事に乗ることにした」 「デリカテッセンですか?」 今度はリロンから質問がきた。二人共、真剣に話を聞いてくれている。 「そうだ」 下野は今、もうひとつの仕事であるデリカテッセンの方に力を入れている。 下野が経営するデリカテッセンは、デパ地下で販売するような惣菜を扱っている。所謂、お高い惣菜だ。 そのデリカテッセンは、有名レストランへオファーをしているので、今ではこぞって名高い高級レストランが下野のデリに惣菜を出品して盛り上がっているという。 と、ここまで話をしたら、リロンが携帯で検索をしていた。下野のデリカテッセンがヒットしたようで「うわぁお!」と声を上げている。 「知らなかった…下野さん、今大注目なんですね。…うーん、なになに、高級レストランの味を自宅に持ち帰ることが可能になった時代。今このデリカテッセンが爆発的な人気になっている。今月から新しい店舗を構えスタートさせ、1階はレストランの味を持ち帰ることが出来るデリカテッセンとし、2階から上は1階のデリカテッセンで販売している味が楽しめる高級レストランが入る予定だ…って、これ?えっ?」 リロンが携帯の記事を読み上げて、驚いている。 下野の計画は、銀座のビル一棟をこの関連にすることだ。1階はデリカテッセン、2階から上には1階で販売しているデリのレストランが個々に入ることになる。 デリカテッセンとレストランでの食事。お客様のスタイルに合わせて利用することができる施設となり、話題性もあるだろう。
 「で、だな。そのビルの最上階にフィエロが入ることになる。下野さんの狙いはフィエロだ。だから最上階にオープンさせて、デリカテッセンでフィエロの味を販売し、更に大きなニュースになるのを狙ってる」 「ほぇぇぇ!すげぇ!展開、はぇ〜。追いつかない〜。マジかぁ、すげぇ」 一旦、武蔵の感動は無視しておく。 「1階のデリカテッセンは今週金曜日オープン。フィエロとしての惣菜を、毎日そこに提供することにした」 「す…すっげぇ…ジロウさん、何がなんだかわかんないけど、すごい!わかりました!俺、頑張ります。フィエロ復活なら、俺、何でもやります。ジロウさんの指示通りに動きます」 「おっ!言ったな?武蔵。よし、早速動いてもらおうか。明日からクラウドキッチンを貸りてるから、そこでデリに出す惣菜を調理してくれ。それとな、フィエロは俺と武蔵のWシェフとしてスタートさせるから、そのつもりでいてくれ。メニュー開発だけは二人でやろう」 「ぬわぁぁぁ!どういうこと?Wシェフ?メインシェフはジロウさんだけじゃないの?責任重大じゃん!俺!」 「武蔵、大丈夫。ひとりにはしない。明日からキッチンにはみんなを呼んである。昔一緒にフィエロで働いてた奴らだ。武蔵、懐かしいぞ?アイツらみんなフィエロで、もう一度働いてくれるってさ。ほら、だから頑張れ!愛の戦士なんだろ?みんな待ってるぞ?」 武蔵を見て、親指を立ててウインクしてやった。 「武蔵さん、おめでとう!Wシェフに抜擢なんてチャンスじゃん。頑張って、愛の戦士!」 すかさずリロンも武蔵に声をかけ、親指を立ててウインクしていた。 「わああぁぁぁ…リロンもそう言う?ヤバっ!展開が早い…マジか…でも、そうかチャンスだし…嬉しいし。わかりました、ジロウさん!俺、やります。頑張ります。愛の戦士出動します!」 武蔵はいつものように親指を立てて、そう言ってくれた。 「おお〜!」っと、リロンと二人で武蔵に拍手を送っておく。スイッチが入り武蔵はやる気になったようだ。 よし、これでフィエロスタートの準備が完了だ。

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