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第40話 ジロウ
その日の夜、リロンから電話がかかってきた。フィエロに、リロンが突然面接に来た日の夜だ。
「クミコさんの所から荷物をまとめて、明日の朝早くそっちに帰るよ」
電話の向こうでリロンは弾けるように喋っていた。バーシャミでオーダーを通す時のように。
「明日の朝じゃなくて、今帰ってくればいいだろ?今からそっちのホテルに俺が迎えに行くから。それで一緒に帰ってこよう」
そうジロウが言い、深夜タクシーに荷物を詰め込んで、リロンはジロウの家に帰ってきた。
クミコがリロンを返してくれるというのなら、すぐにでも駆けつけて連れ戻したい。
だから、ホテルにすぐに乗り込み、あっという間に荷物をまとめて、リロンを強引にも自宅に連れて帰ってきた。
クミコはもっとゴネるかと思ったけど、案外あっさりリロンを返してくれた。
ただ、ひとことクミコに釘を刺された。
「何もしないでいるのって地獄よ、ジロウ。ただ、囲ってるだけってどうなの?」
仕事もせず、何もしないで家にいるだけなんてつまらない、地獄のようなもんだと。リロンには、そんな思いをさせるなと。
姉に言われたことを心に留める。
確かに、そばにいるだけなんてリロンには似合わない。
荷物を片付けるリロンが、楽しそうに口を開いた。
「さっきはさ、緊張したなぁ…」
「面接か?つうか、俺はびっくりしたからな!ひとこと言えよ!」
「あははは、ごめんごめん」とリロンは言っている。本当にびっくりしたっつうの。
「クミコさんの所にいるとさ、すっごく忙しいんだ。朝はさ、ジロウさんがカプチーノ持って来てくれるだろ?そこまではゆっくり出来るんだけど、その後は息つく暇もないくらい忙しかったよ。不動産の手配、ニューヨークの店の手配とか…そばで見てるだけじゃダメだから頭をフル回転させて考えて、クミコさんが必要なものとか揃えて…それ以外にもヨガに行ったり、ネイルとかヘアサロン、ランチと夜の食事…一日が24時間って誰が決めたんだろうね。全く時間が足りなかったよ」
同じことを考えている。ジロウもフィエロ開店準備に忙しく、時間が足りない、24時間で一日が終わるなんて!と毎日思っていた。
「わかる…本当に時間って限りはないよな。でもさ、そもそもクミコは何でリロンを自分の手元に置きたいって言ったんだ?今日の面接もだけどよ、俺にはわからないことだらけだぜ?」
「あはは、それね。クミコさんは最初から俺をフィエロのフロアスタッフとしてって考えてたみたい。ほら、あのバーシャミの最後に日にさ『閃いた!』とか言ってたじゃん。それはフィエロでの、俺の立ち位置らしいよ」
リロン曰く、クミコはフィエロに足りないものは、フロアを歩きサーブする従業員だと言っていたらしい。
だからリロンを連れ、新装開店のスタッフの動きとか、ヘアサロンやネイルサロンとか、挙げ句の果てには、フレンチや寿司などの高級店まで行き、サービスの良し悪しを見せ、人の動きを観察させていたのか。
サービスは基本ホスピタリティ、クミコもジロウもそう思っている。それをリロンに教えるため、知ってもらうためのようだ。
「中にはさ、俺とクミコさんの服装でサーブの内容が変わったりするお店もあったよ。見た目で判断してるのかなって感じた。そりゃあTPOはあるけど、高級なレストランも立ち食い蕎麦屋さんも、お客様にサーブが素晴らしいと感じるところは、やっぱり美味しかったなぁ」
「一流の料理ってやっぱり美味いんだろうけど、レストランだとサーブの内容で若干、気持ちの方が揺らぐとせっかくの食事も美味しさも半減するもんな。それはよくわかるよ」
東京中を毎日歩き回ったという。
あらゆる職種のサービスと人の流れを見ていたようだ。
「クミコがリロンの持ち味の幅を広げたいっていうのはわかった。だけど、お前がフィエロで働くって思ったのと、どう結びつくんだよ」
改めてジロウはリロンに確認する。今日、真剣な顔で面接に来た理由が知りたい。
「毎日毎日、クミコさんから感じ取ったんだ。ああ、この人は俺をフィエロで働かせたいんだろうなって。だけど俺はさ、経験もないし…ジロウさんを困らせたくないしって考えて尻込みしてたら、色んなお店のサーブを見せてくれてさ…」
クミコは、残酷なのは、中途半端なホスピタリティが世の中に増えること。教養やマナーだけなんてホスピタリティじゃないとリロンに教えていたそうだ。
「でさ、わかるでしょ?それをわかってるあなたがジロウのパートナーなんでしょ?
って言われて。あはは、クミコさんすごいよなぁ。後は俺の覚悟だけだったよ」
なるほど…クミコはリロン自身に考えさせたというわけか。
料理を提供し、最後まで美味いと客に思わせるには最高のサーブが必要だ。
客と言葉を交わし、料理をサーブするのはコックではなくフロアのサービススタッフである。その辺の良し悪しで食事の内容や、料理の印象、レストランの評価も変わってくるのは確かだ。
「クミコらしいっちゃ、そうなんだけど…それで?今日、お前からの提案があった他のスタッフも面接ってやつ。それもクミコの閃きなのか?」
リロンがフィエロのフロアスタッフとして面接し、合格をした後にリロンが提案したこともジロウは知りたかった。
「あれは、俺の考え。もし、俺が合格したら、俺と同じような状況の人に、フィエロのフロアスタッフをしてもらえれば、最高のサーブが出来るかもって考えたんだ。それをクミコさんに相談したら、後押ししてくれた。最高のリストランテで、最高のフロアサービスってすごくない?」
「…クミコ、それ聞いてニューヨークの自分の新しい店にそいつらを連れて行くって、言い出さなかったか?」
「あははは、バレた?実はクミコさんに俺の知り合いをもう既に何人か紹介した。ジロウさんの言う通り、ニューヨークに連れて行って、そっちの店のフロアスタッフとして働いてもらうんだって」
「ほら!だろ?そうだと思った。今の話の途中からそうじゃないかと思って聞いてたんだよ。やっぱりな」
クミコのやりそうなことだ。転んでもタダでは起きない人だ。
リロンを連れて行くのは無理だとわかっても、同じ感覚を持つ人を見つけたら、自分の手元に置きたいと、ロックオンしたんだろう。
「だけどな…リロン。あの持田夫妻の面接をクリアしたお前は本当にすごいと思うぞ。ことごとくダメ出しで、面接しても全滅だったからな。縁江さんから一発合格なんてさ、マジでびっくりしたよ。瞬時にリロンを見抜いた縁江さんも、流石だなって思ったけどな」
「そう!だから本当に緊張したよ!」
服を片付けている手を休めてリロンをベッドまで連れてきた。リロンはベッドの上にゴロンと寝っ転がり、あはははと笑っている。だから、上から覆い被さってやった。
「縁江さんの面接も毎日ヒヤヒヤだったんだぜ。何で面接で人の食事の内容とか聞くんだ?必要ねぇだろ!って思ってたけど、今思えば日頃からサービスとは何かを見ているかって聞いてたんだろうな」
そう言い、ジロウはリロンにチュッとキスをした。
「そうだね、あははは、本当に緊張したけど面白かった。日本橋の立ち食い蕎麦屋はサーブが最高だってこと、やっぱり知ってたんだ、あの人。それにあの人…縁江さんは、甘いもの好きなんだろうなってわかった。だから最後の質問もさ…多分、縁江さんは、あの中で一番早くマリトッツォを食べ終わったんでしょ?だから俺はあそこでシュガー付きでエスプレッソをもう一杯って言ったんだ。ちょっとしたユーモアで、わざと。伝わるかな…って思ったら伝わったからホッとした」
「…わっかんねぇ。よくわかんねぇ」
上から覆い被さって、リロンの唇から頬、そしてジロウが好きなリロンの顎へとキスをしていく。リロンもそんなジロウに応えてくれている。
「縁江さんのスーツに付いてる真珠のブローチは、はちみつマイスターの称号だよ。あれで甘いものが好きだってわかった。だけどさ…縁江さんは、そうやって面接に来る人にヒントを出してくれてたんだと思う。話のきっかけを作ってくれてたんだ。だから、面接の時にブローチを付けてくれてたんだよ」
激甘なマリトッツォの後に、また甘い砂糖付きのエスプレッソなんてジロウには考えられないが、甘いもの好きな人だとエスプレッソに砂糖を沢山入れて飲むとはよく聞く話だ。
飲み終わったエスプレッソのカップ底に溜まった砂糖を、スプーンですくって食べるのが美味しいらしい。
面接最後の質問では、リロンが見事に縁江の甘党を見抜いた。ジロウの皿に半分以上残してるマリトッツォがあってよかったとリロンは言う。それがきっかけになったらしい。
「なるほどねぇ…激甘なマリトッツォの後だけど、砂糖を沢山入れたエスプレッソが欲しいだろ?って、お前のユーモアを含めた答えに縁江さんは満足したのか」
キスを止めて考えているジロウの頬を、リロンに掴まれた。
リロンを見ると笑いながらも、ジロウを求めているのがわかる。
「もう…ジロウさん、今はプライベートだよ?ベッドの上だし…」
「おおっ?リロンのそんな声聞くと、張り切っちゃうな」
「いや、そんな、張り切らなくていいんだけど。でも、久しぶりだし?」
明日のことは…ちょっと考えなくていいか。
引っ越しした新しい家で、やっとリロンに足を絡めて寝ることができるんだから。
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