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第19話
「また目が真っ赤」
「んあ?」
立木を模したコートハンガーに外套を掛けて嘆く薫に、寝ぼけた顔と声で応じる。
「ちゃんと横になって寝てください、顔に涎付いてる」
「マジ?」
「キーボードの跡も」
「どうりで痛がゆいわけだ」
ここ数日、遊輔は薫のマンションに転がり込んでいた。以前住んでいたアパートを家賃滞納で追い出されたあとは付き合いのある女たちの部屋を不定期に渡り歩いていたのだが、半グレと懇意な中村悠馬を主犯とするデートレイプ事件の内偵がばれた事態を鑑み、しばらくの間相棒に匿われることになったのである。
実際二人暮らしの方が都合よく回る。
薫は生活能力が欠落した遊輔の面倒を甲斐甲斐しく見た。
朝ともなればトーストとベーコンエッグ、サラダとコンソメスープのヘルシーな朝食を並べ、遊輔の服と靴下をドラム式洗濯機で回し、「Lewis」に出勤する時間帯には「目を大事にしてくださいね」「使い捨てアイマスク買っておきました」など、一言メモを添えた夜食を作り置きしていく。
一方、寝室への立ち入りは固く禁じられた。遊輔が寝床として使っているのはリビングのソファーだ。
他人の、しかも男の寝室を覗く趣味はないしソファーの寝心地は最高なので不満もないのだが、それはそれとして凄腕ハッカーのプライベートルームは好奇心をかきたてる。
清潔な外見からは想像もできないが、薫もまた男である以上、ベッドの下やマットレスの間にエロ本を隠してるんだろうか。まさかとは思うが、人に言えないヤバい嗜好を秘めてるんじゃないか?
机に突っ伏し居眠りしている間に規則正しく時計の針は進み、「Lewis」に出ていた薫が帰宅していた。
キーの跡が刻印された頬をこすり、眠たげに目を瞬いてディスプレイを見詰める。
薫はタブレットを含めて五台パソコンを所有しているが、遊輔が貸りているのはもとからリビングに据え付けられていたデスクトップパソコンだ。寝室には専用機があるらしい。
「居候に留守まかせんの不安じゃね?」
「通帳の場所知ってます?」
「部屋とか勝手に入られたら嫌じゃね?的な質問だったんだが」
「家具を質に流すとか……」
「しねえよ」
「遊輔さんのこと信用してますんで。寝室覗いたりしないでしょ?」
脅迫を含んだ笑顔で念押しされ、急いで頷く。
「エロ本あさったりしねえから安心しろ、家なき子に逆戻りは望んじゃねえ」
「ま、鍵は取り付けてあるんで」
拍子抜けした。
同時に気分を害す。
「信用してねえじゃん」
「遊輔さんを警戒してるんじゃありません、前から施錠には気を遣ってましたよ。ハッカーは情報が命、留守中泥棒や敵に入られてパソコン壊されでもしたら大ダメージでしょ」
「俺の特技がピッキングだったら?」
「ご自慢の手癖の悪さを発揮するのは女性だけにしてくださいね。ホントはそれも控えてほしいけど」
後半は冗談ぽい小声で付け足し、遊輔が打鍵するパソコンを興味深げに覗き込む。
「捗ってます?」
「ぼちぼち。八割がた終わった」
「デザイン監修が優秀だからですね」
「さりげなく自画自賛たァやるね」
液晶に映し出されたのは未完成のホームページ。トップには和美に借りた春人の写真が掲載されている。
専門知識や技術は現役ハッカーに比ぶるべくもないが、簡単なホームページ制作なら遊輔でもこなせる。
机に手を付いて身を乗り出した薫が、Enterの文字の下の一文を読み上げる。
「『go down the rabbit hole.』……うさぎの穴に落ちる、か。しゃれてますね、お店の名前にひっかけたのか」
「go down the rabbit hole」は不思議の国のアリスにちなんだフレーズで、本筋から外れる、別世界に行く、これまでとは異なる|状態《ステージ》に移行することを意味する。
「フェアリー・フェラーが上手く落とし穴にはまってくれるといいんですが」
「妖精のきこりが兎穴にはまる、か。絵面は牧歌的なんだが……被害者への興味が持続してんのに賭けるよ」
「動画の方は?」
「完成済み」
軽快にマウスをクリック、ファイルを開いて再生する。ブリティシュロックの全盛期を代表するクイーンの名曲に乗り、遊輔が編集した追悼イベント告知動画が流れ出す。
冒頭は春人の誕生。続いてランドセルを背負った幼年期、学ランに着替えた少年期と続き、最後はバーで撮った集合写真で締めくくられていた。
「rabbit hole」のマスターや常連に囲まれ、人懐こい笑顔を浮かべる少年を眺め、薫が呟く。
「遊輔さん」
「ん」
「俺たちがやろうとしてることって自己満足ですよね」
追悼イベントにフェアリー・フェラーが現れる確証はない。
和美や「rabbit hole」のマスターを巻き込んだ作戦がもし失敗に終わったら……
遊輔が皮肉っぽく唇を曲げる。
「偽善は人の為って書くんだぜ。自己満足上等、独善貫いて何が悪い?」
「例の動画、和美さんには?」
「見せられるわけねえだろ」
「息子がどんなふうに死んでったか、母親なら真実を知りたいと願うかもしれませんよ」
「かもな」
「恨まれますよ」
「慣れてる。それこそ今さらだ」
スナッフフィルムを秘匿した事がばれたら最悪刺されるかもしれないが、覚悟の上だ。
「真実なんてくそくらえ。お袋さんが覚えてんのは元気な頃の春人だけでいい」
フェアリー・フェラーが逮捕されたら動画の流出は避けられまい。和美が息子の身に起きた惨劇の全容を知らされるのは時間の問題。
だからこそ、時間稼ぎをしたい。
世間擦れした記者が口にはしない信念を読み取り、苦笑いした薫が腰を浮かす。
「休憩しましょ。コーヒー淹れてきます」
「サンキュ」
自堕落に伸びをして机上のスマホを表返す。次いでリビングに満ち渡るアイドルソングに、台所に引っ込んだ薫が意外げな顔を上げる。
「ジャニーズなんて聴くんですね」
遊輔が掛けているのは少し前に流行った、デスゲームがテーマのドラマ主題歌だ。
自分の分には砂糖を入れ、遊輔の分には入れず、間違えないように色違いのカップに注ぐ。
コーヒーを両手に持って運んでいくと、遊輔は頬杖付き、行儀悪く足拍子をとっていた。
「悪かねえ」
「好きだからかけたんじゃないんですか」
「まともに聴くのは初めて」
机を覆った資料の隙間にカップを置く。その際偶然手があたり、プリントアウトされた用紙が舞った。
「すいません」
即座にしゃがみ、今落としたのがインタビューの概要を箇条書きで纏めた紙だと気付く。
全部で百個以上ある質問項目の一個に、春人が好んだ音楽が記入されていた。
遊輔がスマホのボリュームを最大に上げ流したのは、間宮春人が生前一番好きだった曲だった。
「……」
何故この人が明らかに好みから外れる十代に人気のアイドルソングを流したか、わかる気がした。
春人が出てくるスナッフフィルムにはBGMとして「フェアリー・フェラーの一撃」が用いられた。
即ち、「フェアリー・フェラーの一撃」を聴きながら嬲り殺されたのだ。
回答用紙を手に黙り込む薫はあえて見ず、広く快適なリビングを満たすフレッシュな歌声に耳を澄ます。
ミュートにした動画に故人が本当に好きだった歌をかぶせ、付け焼刃のサビをなぞり、コーヒーを嚥下する。
「好きな曲で送ってやりたかったな」
遊輔は気のない素振りで爪先を振り、薫は彼と同じ方向を見詰め、明るくハッピーな鎮魂歌に黙祷をささげる。
「身元が割れてんのは春人だけ。一人目と二人目は|遺体《ガラ》さえ出てねえ、どこの誰かもわかんねえ」
フェアリー・フェラーを捕まえれば、動画でしか存在を確認できてない残りの被害者の素姓が判明する。
「春人の好きな曲はわかったけど、一人目と二人目の事はなんもわかんねえまんま。葬式で流せねえ」
もどかしげに顔を歪め、苦みを増したコーヒーを飲み下す。薫は椅子の背凭れに寄りかかる。
「追悼イベントには俺とペアで参加するんですよね」
「ああ」
「『rabbit hole』は新宿二丁目のゲイバーです」
「それがどうかしたか」
「言うまでもなく常連にはゲイやゲイカップルが多い。悪目立ちは避けられないでしょうね」
「俺が?」
「ノンケ丸出しです。ゲイにもバイにも見えません」
「別にいいだろ、ノンケお断りってわけじゃねえし」
「大前提として目立っちゃだめでしょ、周囲から浮きまくって警戒されたら目もあてられません」
「裏方に徹すりゃ文句ねーだろ、ロビイストにゃ向いてねえんだ。そっちはお前が」
「また丸投げ?」
ブツブツぼやく遊輔に詰め寄り、リラックスした姿勢で机に手を付く。
「俺たちもゲイカップルのふりすれば良くないですか」
遊輔の手から優しく取り上げたマグカップを机に置く。
「待て待て、会場がゲイバーだって理由でゲイカップル偽装する意味が不明なんだが」
「敷居が低くなります」
「フツーに跨がせろ」
「木を隠すなら森の中」
「元常連の追悼イベントにカップルで参加するゲイの方が不謹慎だろ逆に」
「わからないかなあ、あなたの為を思って言ってるんですよ」
「俺の為?」
にっこり微笑む。
「遊輔さんニューハーフにモテるでしょ、うちのマスターのお気に入りですし」
「ありゃいじられてるって言うんだよ」
「若い頃はよくお尻揉まれたそうですね。それはさておき、あっちでナンパされたら波風立てず断れますか」
「ンな悪趣味なヤツいねえよ」
「俺が今口説いてるでしょ」
心外そうに返す。
「イベント当日は色んな人が出入りします、故人と面識ないけど告知を見て飛び入りする人だっているでしょうね。ナンパ目的の不届き者も紛れ込むかもしれません。ナンパはもっぱらする方専門でされる方の免疫ない遊輔さんなんて、ぐいぐいこられたらひとたまりもないんじゃないですか」
「する方専門って決め付けんな、逆ナン経験あるよ、若い頃だけど」
「練習しましょうか」
「ちょ、」
細くしなやかな指が顎を摘まみ、くいと上に向ける。目線と目線が絡み合い、かと思えば端正な顔が近付いてきた。
脳裏を過ぎる淫らな夢の断片。サディスティックな顔。
あとずさった拍子に肘が当たり、カップの中身が撒かれた。
至近距離に迫った顔が綻び、酸いも甘いも噛み分けた微笑みが浮かぶ。
「真に受けないでください」
気が済んで遠ざかろうとする胸ぐらを掴み、その手を慣れた仕草でうなじに回し、密やかな椅子の軋みに合わせて伸び上がる。
「いんや。受けるね」
男らしく直線的な顎の尖りと喉の反りが映える角度で唇が触れ合い、薫が大きく目を見開く。
事を終えるや素早く体を剥がし、眼鏡のレンズに研ぎ澄まされた眼光と、崩れた色気を含むふてぶてしい笑顔の取り合わせで聞く。
「合格?」
「……はい」
「じゃあ問題ねえな」
遊輔の唇は煙草とコーヒーの味がした。
放心状態の薫を勝ち誇った流し目で一瞥、新しい煙草を咥えて牽制する。
「大人をからかうんじゃねえぞ、ガキ」
風祭遊輔はとんでもない負けず嫌いだった。
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