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第10話

 到着した御所の庭は滅茶苦茶になっていた。池の鯉は何匹も土に放り出され、美しく整えられた木々は無惨にもなぎ倒されている。  建物を見れば千切れた御簾があちこちに散らばり、高価な調度品や女房たちの袿などが庭先にまで散らかっている状態だった。 「唐多千(からたち)の君様!」 「あぁ、鬼が、鬼が……!」 「鬼はどこに、……ッ」  鬼の居場所を尋ねる目の端に、見覚えのある着物の模様が入った。振り向けば、屋敷で母上を攫おうとしたあの鬼が立っている。 「ほう、あのときの公達ではないか。まだ精魂尽き果てていなかったか」 「あのときの……ッ」  じわりと脂汗が額に浮かぶ。咄嗟に鴉丸(からすまる)(つか)を握ったが、右手はそれ以上動こうとしなかった。 「無理せずともよい。おまえでは我の相手など無理というもの」 「……おのれ、鬼ごときが……」 「ふむ、声が出せるとはなかなかの胆力の持ち主だな。あぁ、そうか、あれ(・・)の相手をするくらいだ、ただの人ではないということか」  あれ(・・)と聞いて、すぐに金花の顔が浮かんだ。  やはりこの鬼は金花の正体に気づいている。俺が金花と交わっていることにも気がついているのだろう。鬼への畏怖から浮かんだ脂汗に、金花とのことを知られたという焦りの冷や汗が混じった。  いまここで金花が鬼であると大声で告げられれば大変な騒ぎになってしまう。鬼を屋敷にかくまっている俺はもちろんのこと、金花も捕らえられるだろう。下手をすれば、都を騒がせている鬼の一人として処分されるかもしれない。 (そんなこと、させてなるものか)  金花は自ら進んで人を殺めることはなく、都に来てからもずっとおとなしくしている。それなのに、ただ鬼というだけで処分するなど許せるはずが……。 (…………俺はいま、何を思った?)  いま「金花を処分するなど許せるはずがない」、そう思わなかったか……? (金花は鬼だ。たとえ半分だとしても、人にとっては恐ろしい鬼だぞ)  それなのに、金花を処分されることが許せないと思った。いや、それだけじゃない。俺から金花を奪おうなどもってのほかだと、そう思ってしまった。 「これはおもしろい。表情から察するに、おまえ、あれ(・・)に惚れているのではないか?」 「……ッ」 「いや、これは愉快。長く都にいるが、これほど愉快なことはないぞ」 「黙れ……ッ」 「無理をするな。人が我の前で正直になってしまうのは常のこと。恐怖を感じ命乞いするのも常のことだ。どちらも恥じることはない」 「黙れ……ッ!」  目の前の鬼を退治しなくては、そう思った。御所を汚す鬼など滅して余りある。鴉丸(からすまる)を頂戴しているからには、俺の手で鬼を退治してみせる――いや、それだけじゃない。  金花の正体を喋らせるわけにはいかない。正体が知られれば金花は都にいられなくなり、俺の手元から消えてしまう……そう思うと背筋がゾワリとした。 (俺から金花を奪うなど、たとえ敵わぬ鬼が相手だとしても許すものか!)  右手で鴉丸(からすまる)(つか)をしっかりと握り、両足の裏全体でぐぐぅと地面を踏みしめる。じりじりと左足を後ろに引きながら、重石を抱えるときのように下腹にぐぅっと力を込めた。  背中を冷たい汗が何本も流れ落ちるのがわかる。しかし、それを気にしている余裕などまったくない。 (どう考えても一太刀すら難しい相手だ。それでも……ここで退くことなど、ない!)  右足で土を思い切り蹴り、飛ぶように大きく一歩進んだ。勢いのまま鬼が立つ庭の中ほどへと駆け寄りながら、同時に鴉丸(からすまる)をわずかに鞘から抜く。そのまま鬼の懐に入る勢いで近づき、素早く刀身を抜いてから鬼に向かって弧を描いた。 「その気概、悪くはないぞ」 「ッ!?」  飛び退いた鬼がニィと笑んでいることに気づいた次の瞬間、腹にドスンと重い蹴りのような衝撃を感じた。人では体格がよく重いはずの俺の体は簡単に吹っ飛び、鯉のいなくなった池にざぶんと落ちる。幸い浅いところだったため底に尻をついても腰ほどまでしか水はなかったが、あまりの衝撃に一瞬息が止まったかと思った。 「全員、配置につけ!」  腹と尻の痛みにぐぅっと息を詰める俺の耳に、声高な声が聞こえてきた。雰囲気からして猛々しい武士(もののふ)とは違う。ということは、陰陽寮の者が到着したということだ。 (架茂(かも)氏の誰かか?)  陰陽頭(おんみょうのかみ)が直接出張ることはないだろうから、息子の誰かが陣頭指揮を執っているのだろう。御所を守るのも陰陽寮の役目の一つではあるが、この鬼を相手に陰陽寮が何かできるとは思えない。むしろ怪我人が出ると思い退くように声を出そうとしたが、息を吸った途端に腹がずきりと痛んで咳き込んでしまった。 「カラギ様っ!」  屋敷から到着した顔見知りの武士(もののふ)たちが、池で尻をついたままの俺を担ぎ出してくれた。それに礼を言えないほど咳き込みながらも、何とか身振り手振りで鬼を囲むように命じる。  太刀を交えることができなかったとしても、何かしようとしている陰陽寮の奴らを多少なりと守ることはできるはずだ。意図を察してくれた武士(もののふ)たちが、陰陽師たちと鬼の間に立ち塞がった。 「カラギ様!」 「大事、ない……っ、ゲホッゴホッ」 「しかし、」 「俺は大丈夫だ。それより、ゴホッ、他の奴らの警護を、ゲホッ、間違っても鬼に手は、出すなよ……!」  まだ何か言いたそうな数人を押し退け、再び鴉丸(からすまる)を握り締めた。あの蹴りを受けても刀を放り投げなかった自分を褒めたいと思うが、やはり一太刀も難しいのだと痛感する。 (あの距離でも切っ先すら当たらないとは)  加護を受けた刀や槍では太刀打ちできないということだ。となれば弓矢に期待したいところだが、致命傷を与えることはできないだろう。 「おのれ、鬼め……」  四方八方を陰陽師たちに囲まれていてもなお、鬼はニヤニヤと笑みを浮かべている。何を仕掛けても無駄だという余裕に違いない。  このままでは打つ手無しか……。そう諦めかけたとき、首筋をゾワッと何かが這い上るような気配を感じた。それは鬼に対峙したときの感覚ではなく、もっと掴みどころのない、しかし、たしかに目の前にあるような不思議なものだった。 「陰陽寮が何かするのか?」  何かをつぶやきながら手を動かし続けている陰陽師たちには、何の変化もない。だが屋敷から来た武士(もののふ)たちも何かを感じ取ったのか、一様に鬼から距離を取り始めている。  やはり何かをしようとしている。それなら御所の武士(もののふ)たちも鬼から遠退くように声をかけねば……。そう考え、口を開こうとしたときだった。  ドーーーーーーン!!!!  突然の爆音に体の奥がせり上がるような気がした。地鳴りにも近い大きな音に、耳だけでなく肌までもがビリビリとしている。あまりの音と衝撃に思わず片目を瞑ってしまったが、開いたもう片方の目には(いかづち)に貫かれる鬼の姿が見えた。  しかも、陰陽師たちの声はまだ途切れていない。つまり、まだ続くということだ。 (このままじゃ、人のほうにも被害が出るぞ!)  鬼から距離を取っていた武士(もののふ)たちは片膝をつく程度で済んだようだが、近くにいた者たちは衝撃に吹き飛ばされ地面に転がっている。バリバリと空気を裂くような衝撃のなか、何が起きたのかわからず呆けている者もいた。 「はやく鬼から離れろ……!」  大声を出すと腹が痛むが、そうも言っていられない。また同じような(いかづち)を落ちれば、鬼の近くで転がっている者たちが危険に晒されるのだ。 (先に言わないからこうなるのだ!)  せめて事前に相談があればと思うのは毎度のことで、陰陽寮が武士(もののふ)に気遣うことなど一度たりと目にしたことはなかった。 「はやく、身を隠せ……!」  俺の叫び声に反応したのは半分ほどで、残りはまだ腰を抜かしている。このままじゃ人のほうが先にやられてしまう。そう思い陰陽師たちに視線を移したとき、「おもしろいものだな」という艶やかな声が響いた。 「……まさか、(いかづち)を受けたはずだ」  思わず漏れ出た俺の声はひどく掠れていて、吐息と一緒に霧散した。そんな俺を赤い目でちらりと見た鬼は、楽しいと言わんばかりに口を歪めている。 「人が(いかづち)を使えるようになっていたとは知らなかった。だが、所詮は人が作りだしたもの。小鬼が使うものと大差ない」  鬼の涼やかな言葉にざわりと空気が動いた。陰陽師たちにとっては思ってもみなかった結果だったようで、ひと際目立つ着物を着た陰陽師が何かを喚き散らしている。 (あの顔は……、架茂光榮(かものこうえい)殿か)  朝廷で見かける姿からは想像できないほど取り乱し、声を荒げているのが遠目で見てもよくわかった。しかし、その声は俺の耳どころか近くにいる誰にも届いていないらしく、動きを止めた陰陽師たちは統率もなくオロオロするばかりだ。 「人とはまこと、おもしろいものだな。だが、(いつく)しむほどのものではない」 「……ッ」  鬼の声色が変わった。口調は変わらないが、どこかゾッとする響きを含んだ声に全身がぶるりと震える。 (これはまずいかもしれない)  目の前の鬼は圧倒的すぎた。加護を受けた武具でも陰陽師の技でも、この鬼を退けることはできない。そう思った俺の頭に、なぜか金花の顔がすっと浮かんだ。 (……金花を一人残すわけにはいかない)  鬼だというのに側に置いてくれと金花は言った。そのためなら鬼であることを捨てる覚悟すらしていると口にした。時々見せる眼差しは力強く、あれは覚悟を決めた者の目だ。  そのことに俺は気づいていた。いや、気づいていたのに気づかないふりをしてきた。  同じように、俺を好いているという言葉も聞き流してきた。言葉を聞くたびに胸がざわつき、俺が俺ではなくなるような気がして真剣に聞こうとしなかった。  しかし、そんなことで己の心を欺くことなどできるはずがない。好いていると言われるたびに心地よく、白い手に触れられるたびに体が熱くなったのも本当だ。つまり、俺は金花を好いている、ということで間違いないのだろう。 (金花を残してなど、いけるものか)  あぁそうだ、俺は金花を好いている。いつからかなんて、もう覚えていない。命が危ういときだからこそ、こうして己の気持ちに素直になれたのかもしれない。 (気づいたからには、金花の元に帰る……!)  鴉丸(からすまる)を握りしめ、前髪から流れ落ちる水を左手でぐいっと拭った。水をたっぷりと含んだ着物が鬱陶しいが、いまは目の前の鬼をなんとか退けるのが先だ。 (何か手はないのか)  ほんのわずかでも鬼の気を逸らすことができれば、一太刀与えられるかもしれない。そうすれば隙が生まれ一時(いっとき)でも退けることができるはずだ。そう思いながら鬼のほうへジリジリと近づいていく。  そんな俺に気づいた鬼は、陰陽師たちや他の武士(もののふ)には目もくれず、ニィと笑みを浮かべながら俺を見た。たったそれだけの視線で俺の足はぴたりと止まってしまった。 (隙を狙うのは無理か)  諦めかけたとき、不意に空から真っ黒なものが落ちてきた。ふわりふわりと揺れながら落ちてくるそれは……烏の羽根だ。  鬼も気づいたようで、目の前に落ちて来た羽根を手にした。 (……なんだ?)  羽根を見た鬼の眉がわずかに歪んだように見えた。いや、気のせいではない。鬼は眉を寄せながらじっと羽根を見つめている。 「……これは……。しかし、あのお方は……」  かろうじて聞き取れた鬼の言葉はそれだけだった。驚いているような、しかしそれだけではない何かを含んだ鬼の声に、何事が起きるのかと鴉丸(からすまる)を握る右手にぐぅっと力を込める。 「……まぁいい。人が作った(いかづち)というおもしろいものを見ることもできたしな。いまは退くことにしよう」 (退く……、退けることができたということか?)  なおも黒い羽根を見ていた鬼は、羽根を捨てるとニィと笑った。そして、すぃと赤い目を俺に向ける。 「鬼に惑わされる人ならまだしも、人を愛でる鬼など愚かなものだ。あのお方と言い、どうしたことか」 「何を言っている」 「御所の女たちもいいが、おまえも興味深い。また会おうぞ」  そう告げた鬼は、一つに結んだ長い黒髪をなびかせながら背を向けた。そうして以前と同じようにひらりと身を翻して塀を跳び越えてしまった。  残されたのはいくつもの烏の羽根と腰を抜かしたままの武士(もののふ)たち、それに青ざめた陰陽師たちだけだった。 (一体何が起きたんだ?)  なぜ鬼が退いたのかわからない。突然の出来事に不気味さも感じる。それでも人死にがなかったことに安堵しながら、無残な姿に変わり果てた御所の庭で「ふぅ」と息を吐いた。

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