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第13話
「あの男は嫌いです。かわいいカラギのことを小馬鹿にしたようなあの態度、たかが陰陽師風情が偉そうに。しかも目障りなあの鬼の話までするなんて」
「そこまで怒ることじゃないだろう?」
本当は「かわいいカラギ」という表現を改めてほしいのだが、いまそれを口にすると怒りの火に油を注ぎかねない。
「実際、光榮 殿のほうが位が高いのだ。それに俺は貴族でありながら武士 のようなことをしている。よく思われていないのは、いまに始まったことじゃない」
「優しさはカラギのよいところだと思いますが、無礼な相手にまで優しくする必要はありませんよ」
頬を少し膨らませた姿さえも美しい金花の顔に、思わずくすりと笑ってしまった。そうすると怒っていた金花もはぁと息を吐き、苦笑にも似た笑みを浮かべる。
「しかし、光榮 殿は金花のことに気づいたのではないだろうな」
俺が一番気になっているのはそこだ。俺を蔑ろにしようがどうしようが、これまでと大して変わらないから気にする必要はない。だが金花が鬼だと気づかれたとしたら、そうは言っていられなくなる。
「さぁ、どうでしょう。たしかに陰陽師としては優秀かもしれませんが、阿倍野 の若君のほうがよほど才能に溢れていると思いますよ? たしか、春……何とかという名前だったと思いますが」
「阿倍野 の……とは、もしや春明 殿のことか?」
「そう、たしかそのような名であったかと。彼に見つかりでもすれば、たしかに危ういかもしれませんね」
阿倍野 の家といえば有名な陰陽師の家柄だ。直系は帝近くに仕えているため、陰陽寮には親族の誰かが身を置いていたはず。数代前の帝の御世では春明 殿という恐ろしく腕の立つ当主が陰陽頭 を務め、そのおかげで数多の鬼たちを退治することができたと言われている。
そんな有名な、しかも相当昔の人物を知っているとは……。
(そうか、鬼とは長寿な存在だったな)
蔽衣山 で長らく“高貴なる畏怖”と呼ばれていた金花だ、どこかで春明 殿を知ったとしてもおかしくはない。人とは違う時の流れを生きているのなら、春明 殿がすでに鬼籍に入っていることに気づかなくても仕方がない。
(つまり、俺と金花とではそのくらい時の流れが違っているということか)
不意に思ったことに、胸がズンと重くなった。
「カラギ?」
「あ、あぁ、いや、春明 殿は鬼の間でも有名だったのだなと思ってな。たしか都から出たことはなかったはずだが、おまえまで知っていることに驚いた」
「阿倍野 の若君は特別でしょうね。少ししか都にいなかったわたしの耳にもあれこれ聞こえてきたくらいですし」
「は……? おまえ、都にいたことがあるのか?」
「いたといってもわずかの間ですよ。春に来て、秋には蔽衣山 に戻りましたから」
「そうか、都にいたことがあったのか……」
「えぇ。時折り御所の様子を覗き見たりもしていました。それであなたに会ったとき、まとっていた香りが御所にいた人の香りに似ていて懐かしく思ったのです」
優しく微笑む顔を見ながら、俺は金花のことをほとんど知らないことに気づいた。どこで生まれ兄弟はいるのか、鬼と“ようま”の親はどうしているのか何も知らない。あの烏の羽根のこともそうだ。それに、鬼である金花があとどのくらい生きられるのかも知らなかった。
(……いや、知らないほうがよいこともあるか)
またもや胸に重い石が詰まったような、何とも言いがたい気持ちになる。
「都にいた間も蔽衣山 にいたときも、好いた相手はいませんよ?」
「……何を急に」
何を言い出すんだと金花を見ると、からかうような笑みを浮かべている。
「おや? それを心配して黙り込んだのではないんですか?」
「馬鹿を言うな。そんなこと、心配するはずがないだろう」
「ふふっ、カラギを思うわたしの気持ち、信じてくれてうれしいです」
「うるさいっ」
まだ笑っている金花を引き寄せながら右手でがしりと頭を抱え、勢いのまま紅い唇を塞ぐように吸った。わずかに驚いているらしい様子に胸のすく思いがしたものの、すぐに愛しい思いとじりじり焦げつくような気持ちが混ざり苛々してくる。
それを振り切るように金花の口の中に舌を突っ込み、涎が滴るほど熱い口内を舐 り回した。
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光榮 殿が屋敷に来た三日後、朝廷から正式に御所警備の話がきた。陰陽寮の口添えがあったらしいと兄上から聞いたが、どういう風の吹き回しだろうか。
「あれほど武士 の力は借りないと言っていたのにな」
「本当に嫌な陰陽師です」
この話を聞いて以来、金花はより一層光榮 殿を煙たがるようになった。
「わたしのカラギをなんだと思っているんでしょうか」
煙たがっている理由を聞くたびに胸がこそばゆくなる。好いた相手にこれほど思われるのはなんと心地がよいことだろうと、思わず口元が緩みそうになった。
「そう怒るな。御所にはあの鬼が現れる可能性が高い。俺や屋敷の武士 たちは二度あの鬼と対峙している。だから呼ばれたのだろう」
「だからこそ心配しているのです。あの鬼は、あなたを狙っているじゃないですか」
「狙って、……ぶふっ」
「笑いごとじゃありませんよ」
「くくっ、ははは、いや、すまない。おまえの口から『狙っている』という言葉を聞くとはな」
誰よりも俺を狙っていたのはおまえだろうと思うと、笑わずにはいられなかった。
「カラギ」
「わかっている」
心配する金花の気持ちは十分に理解している。それでもなお笑わずにいられなかったのは自分を鼓舞するためだ。こうして笑い飛ばしでもしなければ心が折れそうになる。
(あの鬼に俺の腕で敵うとは思えない)
鴉丸 を持ってしても、一太刀浴びせることすら難しいだろう。それでも御所警備を断ることはできない。ここで断ったとしても、あの鬼はいずれこの屋敷に現れるに違いないからだ。
(あの鬼は「また会おう」と言っていた)
あの鬼と対峙するなら、母上がいるこの屋敷より警備の固い御所のほうがいい。帝や妃たちはしばらく後壱殿別邸 に移るという話だから安全にも問題はなくなる。御所が荒れるのは心苦しいが、陰陽寮も総出で対処するとのことだから話に乗らない手はない。
(せめて一太刀でも浴びせられれば)
陰陽寮の話では、近々あの鬼が御所に現れるだろうということだった。その日に備え、俺は日々鍛錬を続けている。今度こそと思いながらがむしゃらに太刀を振るってしまうのは、やはり奥底に恐怖心があるからだ。
それを断ち切るためにも鍛錬を怠るわけにはいかない。あまりに熱心に太刀を振るうからか、屋敷の武士 たちは鍛錬中の俺に近づくことさえしなくなった。姿が見えれば鍛錬の相手をさせるのだが、誰一人として姿を見かけない。
おかげで一人きりの鍛錬が続いているが、そんな俺の側にはいつも金花がいた。いまも光榮 殿のことを苦々しく言いながら、いつでも俺の汗を拭えるようにと桶に水を用意し、肌触りのよい手ぬぐいを何枚も手元に用意している。
そうした金花の姿を見るたびに、御所で鬼と対峙したときのことを思い出した。あのとき俺は、何が何でも金花の元に帰ろうと考えた。しかし俺と鬼との腕の違いは歴然だ。今度対峙して、また助かるという保証はない。
「それでも、あの鬼をどうにかしなくてはいけないのだ」
敵う敵わないという問題ではなかった。先送りしたところであの鬼がいなくなるわけではないし、問題の解決にはならない。
「それに、他の鬼たちも随分と騒がしくなってきたようだしな」
以前金花が話していたように、力ある鬼のおこぼれを小鬼たちが狙って騒いでいるのだとしたら、あの鬼をどうにかしない限り都はますます物騒になる。
(やはり、次でけりをつけなくては駄目か)
ふぅぅと深く息を吐き出す。右手に持った鴉丸 の刀身はますます鋭く光り、まるで鬼の血を求めているかのようにも見える。再び深く息を吐いてから、柄 を握る右手にグッと力を入れた。
ザッ、ザン、ザザッ、ザッ。
地面を蹴る足音が響くなか、刀身を向ける角度や速さ、力加減を確認する。時に一気に突き進み、時にさっと後ろに飛び退き、頭上から刀身を振り下ろしながらも途中ですぐさま払うように大きく水平に弧を描く。下からすくい上げるように動かし、さらに体に突き立てるように鋭く刀身を突き出す動きも忘れない。
あの鬼の様子を思い出しながらの動きではあるものの、いずれも軽く躱されるだろうことは容易に想像できた。
(これでは、また笑われるだけだ)
それが悔しくも歯痒く、つい力を入れすぎて刀身を大きく振り被ったときだった。背後から何かが飛んでくる気配を察し、すぐさま太刀を向ける。
ヒュン!
咄嗟に鴉丸 で斬り落としたそれは、やや太めの木の枝だった。なぜこんなものがと思った俺の耳に、懐かしい声が聞こえてきた。
「どうやら我が弟子の腕は鈍っていないようだなァ」
「師匠!」
「おっ、まだ俺を師匠と呼んでくれるのか」
「師匠はいつまでも俺の師匠ですよ! いや、そんなことより、どうしてここに?」
「あぁ、ちょいとお偉いさん方に呼び戻されてなァ。それにしても都はやっぱり遠いなぁ。年寄りの足にはキツいったらありゃしねぇ」
ハハハと笑う顔は、最後に会った十年ほど前とそう変わらないように見える。
「お偉いさんということは、朝廷から呼び出しが?」
「なにやら強い鬼が都で暴れてるんだって? せっかく東 の地でのんびりしてたってのに、また鬼退治に参加しろとは因果なことだ」
「鬼退治……ということは、髭切も一緒に?」
「おうよ。ついでに八幡大菩薩様にご挨拶もしてきたぞ」
ハハハと笑う師匠の姿に歓喜の震えが走った。これであの鬼にも一太刀浴びせられるかもしれない、いや退けられるかもしれないという希望が見える。それほど俺の太刀の師匠は優れた武士 で、退魔の太刀を振るう強者 でもあった。
初めて鴉丸 を見た幼い日から、俺はずっとこの太刀を振るいたいと願っていた。しかし由緒正しい貴族の家に生まれた身では武士 のような武芸を許されるはずもなく、二年ほどはただじっと鴉丸 を見つめることしかできなかった。
そんな俺に光明が差したのは、当時御所の警備をしていた師匠、源司維 殿との出会いだった。
師匠は御所警備を担う蔵人所 の中でも抜きん出た腕を持つ人物で、かつて大鬼の腕を斬り落とした嗣名 という鬼の討伐隊隊長の血を引いている。鬼の腕を斬った太刀・髭切を操り、当時はあらゆる鬼を退治して回る都一の武士 だった。
そんな師匠は退魔の太刀である鴉丸 の担い手がいないことをずっと心配していた。それに俺の頑固なまでの願いもあり、武芸を教えてくれることになったのだ。
(あの頃は本当に死ぬかと思ったな……)
師匠は子どもだった俺にも容赦がなかった。半人前のときから「見るより慣れろ」と言って鬼退治の場へ引きずって行くような人だった。それで何度も怪我をし、あの頃の母上は毎日のように泣いていた記憶がある。
しかし、そのおかげもあって俺は早く一人前になることができた。晴れて鴉丸 を正式に携えることも叶い、何度感謝したかわからない。
その後、師匠は御所警護の任を辞し、十年ほど前に都を離れ東国へと移り住んだ。そのとき髭切も持って行ったと聞いていたが、今回の鬼騒動で朝廷が貴重な退魔の刀を無駄にするわけにはいかないと、再び師匠に都へ戻るよう命じたのだろう。
「それにしても、おまえの奥方はえらく美しいな。いやぁ噂以上だ」
師匠の言葉にハッと我に返った。金花を見れば、几帳の奥に隠れるでもなく御簾を下ろすでもなく、先ほどと変わらない様子で廊下に座り俺たちを見ている。
「金、……っ」
咄嗟に名を呼ぼうとし、慌てて口をつぐんだ。
師匠は長年鬼退治をしてきた武士 だ。どこかで金花の存在を耳にしているかもしれない。名を知っているとは思えないが、何をきっかけに金花が鬼だと知られるかわからないから、迂闊に名を口にするのは危ない。
「それに俺がいると言うのに姿を隠そうともしない。いやァ、さすが唐多千 の君の奥方だ、肝が据わっている」
「……師匠、それ以上我が妻を見ないでいただきたい」
「おっ、一丁前に嫉妬か? まぁ、俺のご先祖様には美しさで周囲を虜にした、かの光留君 がいるからなァ。俺もまだまだいい男だしなぁ? しかし安心しろ。奥方に惚れられても奪ったりはしねぇよ」
ニヤリと笑った師匠は、年齢の割にはたしかに若く見目が整っている。だが、それと金花の姿を見られることとは関係ない。姿形や気配から金花が鬼だとばれやしないか気が気でないのだ。
「師匠、久しぶりですし手合わせ願いたい」
ニヤニヤしながら金花を見つめ続ける師匠の気を逸らすにはこれしかない。俺は鴉丸 の切っ先を師匠に向け、あえて挑発するように口の端を上げた。
「もう昔のように、こてんぱんにされたりはしませんよ」
「ほう、言うようになったじゃねぇか」
思ったとおり、師匠はそれまでとは違う笑みを浮かべて俺を見た。
ちらりと横目で見た金花は、変わらず廊下に座ったままだ。早く御簾を下ろせと念じながら、鴉丸 を握る右手にぐっと力を込めた。
「随分とやられましたね」
「くそっ、あの人は昔からこうなんだ。たとえ時間潰しの手合わせであっても絶対に手を抜かない。おかげで俺はいつもボロボロだった」
わずかな時間の手合わせだったが見事に叩きのめされた。しかも俺が手にしていたのは鞘から抜いた鴉丸 、師匠は鞘のままの髭切だったのにだ。「随分と腕を上げたなァ」と褒めてはくれたが、いつになれば師匠を超えられるのかと悔しくなる。
「ツゥ……ッ」
「……すみません」
俺との手合わせに満足したらしい師匠は、「御所で会おう」と言って帰っていった。それを見届けてから、最後まで廊下に座ったままだった金花に二言三言注意をしたが、どこか上の空という顔をしていた。いまも俺の汗を拭ってくれてはいるが、手つきがいつもと違うように感じる。
「金花、どうし……ツッ」
首から顎へと手拭いが触れたとき、ずきりとした痛みを口あたりに感じ思わず声が詰まってしまった。指で口の端に触れるとびりりとした痛みが走り、指には乾きかけの血がついている。
おそらく鞘で殴られかけたときに負った傷だろう。ギリギリで避けたと思っていたのだが甘かった。
「師匠はいつもやりすぎなんだ」
はぁとため息をついたところで、金花がじっと俺を見ていることに気づいた。
「金花?」
どうも様子がおかしい。小言を言ったときに反応がなかったことと言い、明らかにいつもと様子が違う。
「どうかしたのか?」
「……血が、」
「あぁ、師匠はいつも容赦ないんだ。うまく避けられない俺も悪い。大したことはないし、もうほとんど乾いてい、る、だろう……」
少しずつ姿が変わっていく金花に気づき、言葉が止まった。ほんのわずか見上げるように顔を上げた金花の美しい額には小さな角が一つ見える。目はいつも以上に潤み、気のせいでなければ口の端から尖った小さな歯がちらりと見えた。
「金花、」
「……耐えても耐えても、こうして、……抗えなく、……いけないと、わかって、……いるのに……」
金花の顔がすぅと近づき、次の瞬間、口の端に温かく湿ったものが触れた。ぴりっとした痛みにくっと眉が寄ったが、ふわりと伽羅香が漂っていることに気づき、近くにある金花の顔を横目で確認する。その顔は恐れを抱くほど美しく、匂うほどの色気を漂わせていた。
「あぁ……、なんて甘美な香り……。それに、とても甘くて……。あぁ、駄目、鬼の本性が、……いけないと、わかって……、駄目……」
「金花、」
かすかだった伽羅香がぶわりと広がった。まるで俺を包み込むような濃厚な香りに、嗅いだ瞬間じぃんと頭が痺れ出す。
この感じは、初めて金花に会ったときに似ている。あのときも濃い伽羅香を感じ、そのうち酒精に満たされたようなふわりふわりとした感覚に襲われ、それから……。
「カラギ、わたしの大事な人。血も精もたまらない……カラギ、どうかわたしに触れて……」
「……っ」
小袿を床に落とし、単の前をくつろげながら金花が擦り寄ってくる。その姿に俺の逸物はすぐさまそそり勃った。
「ふふっ、うれしい。こんなに逞しくして……」
右手で俺の肩を掴んだ金花は、ほぅと熱い息を吐きながら左手で俺の逸物をねっとりと撫で始めた。はじめは袴の上からゆっくりと、それから形を確かめるようにじっくりと。
「……あぁ、いい匂い……」
「な、……ッ」
不意に首筋に生暖かいものを感じてギョッとした。すぅと息を吸い込む気配に慌てて身を離そうとしたが、左肩を掴む金花の手は思ったよりも力強く身動きすらできない。
右耳の下に触れている熱はもしや鼻先ではないだろうか。汗にまみれた体を臭われるのはどうなのだ。左肩に食い込む指が痛い。そんなことばかりをぐるぐると思うのは混乱しているせいだ。
(そもそも体を匂うなど獣じゃあるまいし、どういうつもりだ!)
首筋や耳の下、さらには耳の裏側にまで鼻先をつけてすぅすぅと嗅がれ、カァッと頭に血が上る。
「一体何をして、……!」
なんとか金花の体をぐぃっと引き離したが、顔を見た途端に違う意味で頭に血が上った。
そこにあったのは、とろりと蕩けた世にも美しい顔だった。それを目にした途端に、額にある小さな角のことも人にしては目立ちすぎる歯のことも、どうでもよくなっていた。
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