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8.腹パン

 奥歯を食いしばって腹に力を込めておけよ。あらかじめそう警告されていたが、ランベルトのボディブローは効いた。十分過ぎる程によく効いた。  たった今タンクへ腰をぶつけたばかりの便器へ、よろめきつつも向き直るまで、耐え切る事が出来たのは奇跡だった。身を丸め嘔吐したもの。店に置いてあった中で一番良さそうに思えた53年物のランゲ・シャルドネ・ブッシアドール。プロシュートのカルパッチョ風(あくまで「風」だ)ポルチーニの芳香を強烈な臭いのゴルゴンゾーラ・ソースで殺したスパゲッティ。幾ら何でも火を通し過ぎなミラノ式カツレツ。ジェラート数種類。  苦い胃液に混ざる甘ったるさはあのイタリア風アイスクリームだろうが、噛み切るのに苦労したカツレツはまだ消化器官へ残っている気がする。最もご退場願いたかった茸と共に。 「もう一発?」 「やめて」  息も絶え絶えに喘ぎながら、リッキーはのろのろと背後のランベルトを振り仰いだ。 「これで駄目なら朝まで我慢する……いっそ腹を下していた方が、ましだったかも知れない」  その近頃流行っているリストランテは、ロサンゼルス育ちのオーナーと、シカゴから修行に来たシェフがやっている。だからこの大陸には珍しく、店の前にはよく磨かれた木板に、流麗なカリグラフィで書き込まれた看板が掲げてあった。「犬とユダヤ人お断り」  伊達や酔狂で出しているのではなく、ロートシルト家(と呼ばなければ、アメリカ人だと馬鹿にされるぞと、以前ランベルトに嗜められた)の分家筋の夫婦まで電話で門前払いを食らわせたそうだから筋金入りだった。  リッキーがその話を聞いて覚えた驚きの発露は、腹立ちや悲しみではなく、一種の懐かしさに近いものだった。アメリカへ帰れば、己の父がどれだけ金を積んでも、決して会員権を手に入れられないヨットクラブが存在するし、インマンの名前で予約を取れば、一番いい席には絶対に案内しようとしないレストランのオーナーも山といる。『紳士協定』は未だ存在していた。  が、ランベルトはナチスが糾弾した金持ちのユダヤ人ではなく、総統のお気に入りだ。どう言う手段を使ったかは分からないが、彼が予約して店を訪れると「ミスター・インマン、お待ちしておりました」と手揉みするオーナーが直々に出迎えてくれた。案内された席も入り口近くにある上々の席(この店はあくまでアメリカ式なのだ)最も良い席はロベルト・ロッセリーニとイングリッド・バーグマンが占領していたから仕方がない、そこまで贅沢は望まない。 「と言うか、バーグマンって」  顰めた声でそう囁くリッキーに、ランベルトはシー、と唇に指を当てて見せたものだった。「彼女は『かも知れない』か、最悪でも『少しだけ』。何事も程度の問題さ」  思わず鼻を鳴らしてしまったのは、どれだけ隠しても無駄なこと。目の前の男が何事も過剰を好むと、嫌と言うほど知っているからだった。  料理は話題になるほど良いものでもなかった。この程度ならニューヨークへ戻れば幾らでも食べられる。勿論そんな事は店内で口に出さなかったが、態度には表れていたのかも知れない。或いは意趣返しか。主義を曲げてユダ公を店へ入れなければならなかったオーナーの悪ふざけ。  勿論、当のリッキーにとっては悪ふざけなんて話ではとても済まされない。ランベルトは「幾ら何でも考え過ぎだ、単に食い合わせが、君の体調と合わなかったんだろう」と慰めたが、とんでもなかった。  食後のエスプレッソを頼んだ時は、食べ過ぎたかと思っていた程度だった。けれど店を出て30分で胸がむかつき始め、そのまま夜遊びもせずホテルへ戻った時には眩暈まで起こしている始末。生憎近隣の薬局はどこも閉まっており、かと言って医者を呼ぶほどでもない。  冷静な判断力を失っていたので、ならば全部吐き出してしまおうと提案したのがリッキーなら、それに乗ったランベルトも大概おかしい。お目付け役ならこういう時、引き留めるべきではないか。そう恨み節をぶつけたところで、きっと彼はいつも通り涼しい顔のまま「俺は子守りじゃない、君と対等の友人だよ」とでも宣うかも知れない。ならば余計に──  最後のえずきは収まりつつあるが、未だ便器にしがみついているリッキーの背中を、ランベルトは甲斐甲斐しく摩り続ける。ただし投げ落とす口調は、呆れを隠しもしないが。 「それで、どうだ。毒きのこは発見できたか」 「わか、らない」  冷え始めた汗に身を震わせ、リッキーは口元を手首で拭った。 「でも、あんまりだ。いくら、僕が嫌われるのに慣れてるからって」 「君を嫌う人間なんてそうそういないさ」  ハンカチに額の汗を染み込ませる手つきはあくまで優しく、甘言を見事に補強する。 「もしもそんな奴がいたとしたら、それは知らないからだ──知ったならばきっと、誰もが君のことを好きになる」 「ホモで苦労知らずな金持ちのボンボンでも?」 「だからこそ、なおのこと、だな」  うっすらと目を閉じ、されるがままに顔の汗を拭われるしおらしさは、ランベルトのお気にいたく召したらしい。「熱い風呂に入れよ。そしたら気分も良くなる」青白くなった頬を撫で、反対の手ではバスタブの蛇口を捻る。 「君がどれだけ愛されているか理解させる必要があるが……それにしたって酷い格好だ」  そう指摘されるまで、シャツの胸元に飛び散った吐瀉物へ気付かなかったのだから重症だった。 「情けないね」 「しょげるなよ。それにどうせもう、全部脱ぐんだから問題ないさ」  シャツ越しにするりと撫でられた腹はずくずくと重く痛むが、これは強烈なパンチだけが原因ではない。涙で潤む目で見上げるリッキーの視線を悠々と浴び、ランベルトは立ち去りざま「クリーニングに出すよう、メイドを呼んでおく」と、とどめの流し目をくれた。

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