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9.壁ドン
顔の脇に勢いよく手を突かれ、思わず首を竦める。そのままぎゅっと目を瞑り身を硬直させていたら、やがて「リッキー、大丈夫だ。怖がらなくていい」と柔らかい声が降ってきた。
別に怖がってなんか、と強がりを叩こうとしたものの、実のところリッキーはランベルトの腕の中、戦々恐々とし続けていた。幾らここが猥雑な酒場だと言っても、人前でこんな真似。店内の視線がこちらへ集まっていないか、気が気ではない。確かめようと視線を走らせるが、大柄なランベルトの体躯に阻まれて、世界から隔絶されている。逃して、と頼んだが、所詮無駄な足掻きだ。不安は指先まで伝播し、掴んでいたロックグラスは今にも滑り落ちてしまいそうな有様だった。
プロペラ機でタンジェへ到着して3日。ビーチで今年最後の日向ぼっこを楽しみ、そのままバミューダ・パンツ姿で海沿いのバーに入ろうとしたら、ランベルトは「いかにもアメリカ人だな」と顎を撫で、見え隠れする膝を見下ろす。それは侮辱? これは最新のファッションだ。「トニー・カーティスだってよく履いてる」と訴えたのだが、このクールな男は揺るがない。「アメリカでは、だろう」
仕方なく仕立てたばかりのスラックスとブレザーで、さながら小さな船長さんと言わんばかりの格好をしてジンジャーエールを啜ること、3杯位だろうか。かつてポツダム会談の通訳をしていた英国人元外交官は、店の様子を見て微かに顔を顰めた。白人観光客向けの店ではなく、テーブル席は半分ほど、残りは地元の金持ち達が直に床へ腰を下ろし、水煙草を吹かしている。
けれど、本当に美味いグリ・ワインが飲めるのは、こう言う地元の店でのみなのだ。サー・ローフォードもランベルトが運ばせた、ラベルのない瓶からワイングラスに注がれた黄金色の液体へたちまち意識を奪われる。一口含んだ暁には、いかにも貴族然とした神経質な表情も、微かに緩んでいた。尤も、彼に伴われて来た恋人の写真家の方は、早々に地元のビールを頼んでいたが。
「サー・ローフォード……昔みたいにヴァレンタインおじさんと呼んでも良いですか? こちらにお越しと聞いて居ても立ってもいられなくなりました。兄が宜しくお伝え下さいと」
幾ら諸国漫遊の身とは言え、インマン家の人間であるからには多少の仕事をこなさねばならない。ローフォードは英国上流階級と、今はリッキーの兄が統括する投資部門の橋渡しをする人間の1人だった。彼は貴族のわりに子供へも親切で、かつて父に連れられてロンドンを訪れたリッキーにも敬意を払ってくれた。もしかしたら、彼の息子が自らと同じ名前をしていることも関係があるのかも知れない。
何よりも、ローフォードはかつてあの悪名高き(とはランベルトの言だ)ブルームズベリー・グループの端くれにいた男だ。芸術家気質な両刃使いへの特使役に、お前はぴったりだろうと、兄の思惑に悪意はない。インマン家の人間は実利的だ。使えるものなら犬でも使う。
幸い、しばらく話をしていたら顔見知りが集まって、どんどん場は賑やかになった。ここは所謂「知る人ぞ知る」店だから、通を気取る人間達は誰も彼も鼻をつんと突き上げるような物腰と訳知り顔で頷きながら店へ入ってくる。ヨーロッパの没落貴族、成金、ギャンブラー、そこから転落した単なる食い詰め者、獲物に付き従ったり、或いは見つけようと目を光らせる小判鮫、娼婦、男娼、文筆家、画家、ダンサー、それらの卵と呼ばれる人物たち。
わいわいと大きな塊となる騒ぎのせいで聞こえなかったのか、店の親父は幾ら呼んでも酒の注文を取りに来ない。ふらふらと席を立った相棒の後を、「もう千鳥足か、情けない奴だな」と笑いながら追いかけてきたランベルトが、結局カウンターへしがみつかんばかりの勢いなリッキーに代わって酒を頼んでくれた。
そのままスコッチのグラスを受け取り、輪の中へ戻る事は叶わなかった。壁へ追い詰められたリッキーの姿はランベルトの広い背中に隠され、今のところそこまで注目を浴びていない。そう信じたい。
「ラニー? どうした?」
ときめきではなく、当惑によりどきどきする心臓のお陰で、問いかけは舌が縺れてしまう。ランベルトは暫く細めた目で、リッキーを見下ろしていたが、やがて身を屈めて、紅潮した耳朶に唇を近づけた。こんなの、傍から見れば愛し合っているようにしか見えないではないか。
「サー・ローフォードの恋人、ホルストだが、写真を撮りたいと言っていた」
「凄いじゃないか! シャネルの写真家だ、撮って貰えば良いのに」
「俺だけじゃない。君との写真だ、何なら君単体のポートレートを……それを元にして、ローフォード卿に、君についてのコラムをヴォーグに書かせるんだと」
「素敵だね。これで僕も国際的社交家の仲間入りを……」
そこまで口にして、突然冷静を取り戻した脳内へ、把握した現状がどっと流れ込んでくる。
「駄目だ、父さんと母さんに殺される」
「それと、君のお兄さんはイギリスで最も重要な顧客を失う事になる」
「と言うか、僕はサー・ローフォードの目の前で、ホルストに徴用されそうになってた訳?」
「全く、君はそう言う機微に疎いな」
くっくと喉の奥で笑い、ランベルトは唇を耳から頬に移動させた。
「仕方ない。最新のゴシップを見せつけて、諦めて貰おう。アメリカの貴公子、最も若いジェット族の一人、リッキー・インマンは、骨抜きにしたコンパニオンの男で遊ぶのに忙しくて、年老いた写真家には興味を示さなかった」
「そんな事しなくて良いよ。この前から誘われてたビートンの依頼を受ければ……彼に写真を撮って貰えばいい。でも、それはそれでホルストの機嫌を損ねるかな」
大体、本当は君、あの希代の写真家に撮影して貰いたい癖に。大胆にも首筋に顔を埋めるランベルトの背中へ片腕を回し、上着をぐしゃりと掴みながら、リッキーは携えていたウイスキーを一口含んだ。そうでもしないと、ちらちら抜け目なく走らされる周囲の横目の中で、平然とした顔を保っている事など、とても出来なかったのだ。
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