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10.驚愕

 そうでなくても、姉から電話が掛かってくるなんて青天の霹靂だったのに。彼女が記事を読み上げ始めた時には黒電話を握り潰しそうになり、その力は徐々に抜けていく。最後に彼女の、バーバラ・スタンウィック並にぐっと来る低い声による朗読を耳にした時は、完敗も完敗。途中からベッドへ受話器を投げ出していた「そして彼はこのラニー某がこれまで先達を務めてきた数多の男女と同じく、ボヘミアンとして名を馳せる、インマン家初の令息となる訳である。いやはや、一族にとってこの世の春は永遠に続く。金の力で春は買えるのである……」 「ウィンチェル、あのくそジジイ、父さんに言って融資を全部引き上げてやる、銀行口座だって一つ残らず全部凍結してやる!」  ショックから立ち直り、ベッドから這い出したのは、フロントに電話して今朝発売のニューヨーク・デイリー・ミラーを購入してくるよう頼んだ後のこと。無駄な話だと言うことはリッキーが誰よりも知っていた。アメリカの新聞は2週間遅れでモロッコに到着する。 「あの下衆野郎にユダヤ人同士の仁義なんか期待する方が間違ってた。それにしても、もっとまともな事を書けば良いんだ……何だよ、男性ともっと親密な人間なんて大勢いるだろうに。テン・ウィリアムズや、ロック・ハドソンだって……ランドルフ・スコットなんか、筋骨隆々な黒人ボクサーを3人くらい別宅に囲ってるって噂じゃないか」 「幾ら君のお父上とは言え、ハースト一族に喧嘩は売らないだろう」  パジャマ姿で寝室をうろうろし、ジンを喉に流し込んだり、呪詛を垂れたりしているリッキーと違い、もう1人の当事者は落ち着き払ったものだった。 「こんなゴシップ、1週間もしないうちに皆忘れるさ」 「そんな世界が単純に動いてるなら、今頃僕はウィンチェルの事務所に乗り込んで、あいつを拳銃で蜂の巣にしてる。君のことをボヘミアンだなんて! 終身刑にされても構うもんか、僕の財産を全部君に譲るから、世界文学全集でも独房に差し入れてくれよ」  自らが貶されるのも癪に障るが、彼が侮辱されれば怒髪は天を突く。当然の情動を、地団駄踏んで表明すれば、ランベルトは女の指に珍しい宝石が光っているのを見つけたような顔で、僅かに目を瞠る。 「何を笑ってるんだ!」 「いや、君は心優しいと思って」  今のは間違いなく褒め言葉ではない。どう考えても偽物なクリスタルのグラスを壁に向かって投げつけ、リッキーはシェーズロングに身を横たえた男へ飛び掛かった。  ランベルトはわざと受け身を取らなかった。2人して床の上に転がり落ち、そのままごろごろ、気付けば両手をベルベル絨毯へ縫い付けられていたのは己の方だった。 「離せよ、馬鹿!」 「落ち着け、リッキー」  ぐっと握りしめた手首を床へ叩きつけるようにして押さえ直し、ランベルトはリッキーの額に己の額を押し付けた。 「何事も前向きに捉えよう。君は休暇が伸びたんだ。これで暫くは、少なくともほとぼりが冷めるまでは、国へ戻ってこいと言われなくなる。大体どれくらいかな?」 「知るもんか」 「少なくとも今日じゃない。ボヘミアンにとっては、それで十分だ」  ボヘミアンって、イメージが悪過ぎる。それこそ僕の財産を根こそぎにして、酒や賭博や薬物へ全部使ってしまいそうな印象だ。  リッキーが抵抗を止めると、ランベルトは左手を解放してくれた。つまり彼の右手は、曝け出されたリッキーの喉を滑り、胸元へと向かう。絹パジャマのボタンを一つ、二つ、三つと外し、中へと差し込んだ。  ひんやりした手指で、まだ興奮の名残で上下する胸をさらさらと撫で回す。リッキーが上半身を一層大きく浮き上がらせたのは、もはや憤慨が由来ではあり得なかった。 「実を言うとな、リッキー。俺は裸よりも、パジャマを着てる君を見たら興奮するんだ」 「な、何それ……ちょっと変態じゃないか」  本気でびっくりして目を見開けば、ランベルトは益々上機嫌に喉奥で笑いを転がした。 「こんなものを身につけて眠る、健やかに育ったお坊ちゃんを手籠にするなんて、凄く背徳感を覚える」 「手籠だって?」  胸の先端や脇腹など、性感帯へ触れられて、勝手に身体が震えてしまう。子犬のように鼻を鳴らしながらも、リッキーは必死に男の肩へ手を伸ばした。こちらがどれだけ全身全霊、力任せに押しても、体勢を入れ替える最終決定権は明らかにランベルトが握っていたが、構うものか。とりあえず、髪も服も乱れ、顔と言えばすっかり興奮で赤らんでいるが、彼へ馬乗りになる事には成功した。 「昨日の晩、勝負から帰ってきた後、ベッドサイドで僕のことを観察してたのは、そう言う理由だったなんて……」 「おやおや! 狸寝入りだったか」 「僕を侮るなよ」  今度はこちらが仕掛ける番だ。きっちり糊の付けられたワイシャツのボタンを一つずつ外しながら、リッキーはふふんと鼻を鳴らした。 「ウィンチェルが聞いたら腰を抜かすどころか、脳の血管が切れてぽっくり行くような悪徳だって、山と知ってる」 「それは失礼した、極悪非道なお坊ちゃん……キスをしてくれる?」 「いいよ」  口付けは優しく迎え入れられる。上からだろうが下からだろうが関係ない。ランベルトの舌遣いは巧みだった。ああもう、と、悔しさと恍惚がカクテルされて、触覚からびりびりと脳を痺れさせる。  だから突然、ランベルトが唇を外し「どうぞ、入ってくれ」と叫んだ時は、飛び上がりそうになった。  幸いランベルトは、リッキーの後頭部を手で引き寄せ、己の胸に押し付けさせる。これで入り口から見える寝室の様子と言えば、床に投げ出されたランベルトの脚位のものだ。 「そこのテーブルに置いておいてくれ。ああ、グラスは片付けなくていい。後でまた呼ぶよ」  今にもあの朗らかな笑い声を立てそうな胸の震え、耳元を撫でる指先、一々ぴくん、ぴくんと身を震わせながら、リッキーは信じられないと言わんばかりに目を剥いていた。どう言う手段を使ったのか、ベルボーイは新聞を手に入れてきたらしいのだ!

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