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11.唇を噛む

 ロンドンへ。セシル・ビートンは留守だったので、ハーパス・バザーの写真を撮っていたリチャード・アヴェドンを訪ねる。スタジオに足を踏み入れるや否や、丁度良いところに来た、モデルが昨日の晩、スキンズを気取ってる彼氏にパブで殴られて歯を折っちまったから、穴が空いて困ってたんだよとあの早口で捲し立てられたから堪らない。あれよあれよと言う間にディオールのスーツを着せられていた。自分みたいに垢抜けないユダヤ人にタイユール・オブリークなんて似合わないと思ったが、そこはアヴェドンだから、見栄え良くしてくれるのだろう。  そのまま「どうせドヴィマは昼からしか来ないから」とランベルトまで引っ張り込まれてシャッターを切られまくる。あの構図、ヴォーグでバーキンとゲンズブールを起用した時に流用しやがったなとリッキーが舌打ちするのは10年程後の話。その時はもう、ひたすら着せ替え人形ごっこに疲弊していた。アヴェドンが女の子と長電話しに下の事務所へ降りた時には、セットとして唯一用意されたベルベッドの長椅子へひっくり返る始末だった。  アヴェドンがここのところよく利用しているスタジオには、ビートン風の華美な室内装飾や小道具など一切存在しない。彼はモデルの内側から輝きを引き出そうとする。どちらかと言えばブレッソンなどに近い趣だ。 「何にせよ、セシルにしたところでディックにしたところで、彼らに撮られた人間はみんな神様みたいに見えるね。セシルの写真を見ると、ホメロスが竪琴を弾いて語ってるのを聞いているみたいだけれど、ディックのはシネラマでMGMの映画を観てる気分になる」 「君にしては随分賢しげな表現をするじゃないか」  リッキーを見下ろすランベルトは、自己顕示欲を満たすことが出来たせいだろうか。それともこれから御成になる、当代随一のシックな美女を待ち侘びているのだろうか。琥珀色の瞳は、真っ白なスタジオの壁が反射する光を飲み込んだように、人外じみた淡さできらりと輝いていた。  だからこそ、リッキーは唇を尖らせ「もう帰ろうかな」と嘯いてみせる。 「だってモデルなんて、みんな頭空っぽの馬鹿じゃないか。話していてもつまらない」  思ったよりも語気が荒くなってしまったことに、驚いたのは自らだけではない。意外な話だが、ランベルトも微かに、顔を覗き込む為に折り曲げていた腰を反らした。 「よくご存知だな。てっきり、ハットボックス族との付き合いは薄いと思ってたが」 「僕はね。父さんや兄さんは、フォード夫妻のところのモデルとよく遊んでる」    特に権力志向の強いフォード夫人は、自分のモデル事務所に所属している商品等を積極的に金持ちへ斡旋して結婚させ、コネを作ろうとしたがる。さながら売春宿のマダムだ。 「僕も何回か誘われてデートしたけれど……ドヴィマ、ドロシー・ヴァージニア・マーガレット(DOrothy VIrginia MArgaret)とも。彼女に、貴女達の仕事って基本的にウォルター・ミティみたいだねって言ったら、『それって私が貴方より背が高いから?』だって」 「彼女、基本的に探偵もののコミックしか読まないからな」  壁に沿うよう置かれた長テーブルの上へ、つくねんと取り残されたローライの二眼レフに触れ、ランベルトは位置を調整した。さながら2人が、きっちりとレンズの中へ収まるよう細心の注意を払っているかのように。 「俺も彼女とデートしたことがある。いい女だったよ。いつも黙って微笑んで、男への傅き方を徹底的に叩き込まれてるからな」  がり、と己の前歯が粘膜に食い込む鈍い感触。すぐさま塩辛い鉄錆の味が、口の中に広がる。傷口を広げるように舌先で押し広げるリッキーの仕草を、ランベルトがどう捉えたかは分からない、ただ差し伸べられた手はいつもと変わらぬ芝居っ気に溢れ、引っ張り立たせる力と言えば男らしい逞しさに満ち溢れている。 「実を言うとな、リッキー。俺は彼女と結婚する寸前まで行ったんだ。フォード夫妻が止めなけりゃ、今頃俺はここにいなかっただろう……全く惜しいことをしたよ」  つまらないやきもちを妬いて、墓穴を掘ってしまったのは他ならぬ己だ。その事実をランベルトは存分に利用し、嬉々としてリッキーを甚振り弄ぶ。 「つまり、俺と君は穴兄弟って訳か。思いも寄らなかった、世間は狭いな」  ふつふつと背中一面に浮き出しては、結託して流れていく冷や汗。セコナールでも飲んだかの如く、瞼を閉じられなくなったのに、その癖何も映さないまなこ。ランベルトはリッキーの顎を指先で掬い上げると、すっかりけぶった灰色の瞳を覗き込んだ。 「ああ。それとも君は、彼女と寝なかったのか?」 「寝たよ」  まるで自分でない人間が答えているかのような音色だった。それ以上、無味乾燥な声が響く前に、ランベルトの親指は、血でうっすら濡れたリッキーの唇を撫でる。 「だってこの国では、女性以外の相手とデートする男は、逮捕されるから」 「そうだったな」  可哀想に、と呟かれたのが、この会話についてなのか、それとも下唇に赤く塗り広げられる血のことなのか、一瞬分からなかった。 「心配するなよ、リッキー。君は糾弾されない。これは鏡にキスするみたいなものだから……ドヴィマにとって、男はみんな同じだからな。彼女の魅力を利用し、傷付ける存在」  触れるかさついた温もりが燃え上がり、寒々しいスタジオの空気を骨まで煮溶かしてしまいそうな灼熱へと変える。焚べられる薪は、軽蔑と憎悪だ。全ての人間が持ち得る、醜い感情だった。  きっと一番多く抱えているのは、今からこのスタジオにやってくる女性──そう思おうとすることで、リッキーは辛うじて己の惨めな自尊心へ押し潰されずに済んだし、上書きするようかぶりつかれるエナメル質の痛みから意識を逸らすことが出来た。

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