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12.片膝をつく

「君が女だったら、明日の朝一番にウェストミンスター寺院へ駆け込んで、俺と結婚してくれたかい」  今夜のランベルトはすこぶるご機嫌、恐らくあのコックニーを話す双子のギャングが仕切る賭場で遊んできたのだろう(あそこはまだ君には早いよと、ランベルトはテムズ川のドックで開かれる会合にリッキーを連れて行ったことはないし、レジーとロニーにも紹介してくれない)それも己が望むままに。夜更けに部屋へほろ酔いで押しかけてきて、寝込みを襲われむにゃむにゃ言っているリッキーとまぐわった。パジャマのズボンを剥ぎ取り、シャツまで全部脱がしてから。  それで、彼が正気に戻ったかと言われれば、とんでもない。汗だくの体を起こしたリッキーは、思わず声を裏返らせた。 「ええ?」 「君は俺のことを愛してる。俺は多分、世界の誰よりも君を愛してやれる……その実績がある、だろう?」 「うーん。確かにそうだけど。結婚は無いだろうな……」  そこまで口にされて、ランベルトが自らを揶揄っているのだと気付くべきだった。なのに情事で疲れ果てた脳はしゃんとしてくれず、思いついた言葉を反射的に口にしてしまう。 「だって、そんな事をしたら、僕は父さんの遺産相続リストから外される。それは君も嬉しくないだろう」  何の心算もなく与えられた快楽によって、まだ肌がぞわぞわする。もういっそ裸のままバスルームへ行くべきだった。シャツのボタンをのろのろとはめながら、後悔していたリッキーが視線に気付いたのは、生まれたれの仔馬じみた足を床へ下ろした時のことだった。僕のベッドで煙草を吸わないで、とこれまで散々忠告していたが、ランベルトはまるで見せつけるように堂々と燻らせる。今も紙巻を咥えた唇を渋そうな形で笑みに歪め、夜の闇に琥珀色の瞳を煌めかせた。 「なるほど。君の両親は、君を堅実に躾けたって訳だな」 「そう? そうなのかな……うん、ありがとう」    この街で1番箔が付いたホテルなのに、シャワーはなかなか湯にならない。だから最初にリッキーが上げた悲鳴は長く、嘆きの音色を帯びる。が、その次に叫んだのは、いきなり後ろから腕が伸びてきて、背中を弾力に富むざらりとしたものに擦られたからだ。 「ラニー!」 「まだ寝ぼけてるんだろう。君は眠たい時に1人で風呂へ入らせると、溺れるか腹を壊すかのどちらかだから……くそっ、冷たい」  こうも明け透けに、先ほど彼自身が働いた狼藉を示唆されれば、顔も赤らむ。徐々に温度を高めつつある水流が、熱い針のように感じるほどだった。  カモミールの匂いが微かに香る石鹸は、肌の上でくるくる滑る海綿で泡立ち、そして瞬く間に流される。腰の辺りまで滑り落ちたぬめりを脇腹から胸元まで、手のひらを使って伸ばされ、否が応でも肉体が再び熱を持った。 「ラニー、いやだよ」 「何故?」 「だって、明日の、あっ、今日の朝一番に電話を掛けなきゃ。リー・キャンフィールドが、こっちに来たら絶対連絡してねって……」 「お父上に怒られないのか」 「怒られるさ、だからこっそり会うんだ。彼女は僕のことを、弟みたいに可愛がってくれる」  彼女の姉がケネディ上院議員と結婚して以来、リッキーの父は彼の名門ブーヴィエ家との付き合いを家族に禁じた。あくまで暗黙の了解だが、今のところ己以外に破った者はいない、と思う。    バスタブで滑りかけた足は、腹に回された腕で支えられた。ぼちゃん、と鈍い音と共にスポンジが床へ落ちる。と、同時に、顎を掴まれて首を捻られ、唇を貪られていた。押し付けられる口髭が、この国で許されないことをしているのだとまざまざ実感させ、不安と高揚が綯い交ぜにして胸の中で吹き荒れさせる。 「やめておけ、お父上の言うことを聞いた方がいい。彼女はジャッキーのスパイだ。君を通じて、ミスター・インマンの話をジョー・シニアに流してる」 「そんな……」 「君はそんな権謀術数に関わるな……全く、何てくだらない。カフェ・ソサエティって奴は。あの売女も酷い話じゃないか、君を利用するなんて」 「それをリー本人に言えたら、君と結婚しても良いんだけど」  薄暗がりの中で、琥珀色がきらりと光る。カーテンポールに掛けてあったバスタオルを腰に巻くと、ランベルトはバスタブを跨いだ。慌ててバスローブを引っ掴んで羽織り、リッキーが追い付いた時には、既に寝室のダイヤルが回されていた。  リッキーが客間の受話器を取って耳に押し当てると、あの低く柔らかい、少し母音が伸びる声が耳に届く。彼女はこの国で暮らすうちに、クイーンズ・イングリッシュをそれなりに習得していたのだ。 「おい、この売女。無邪気な坊やを金の皿に乗せて、ジョー・ケネディに献上するような真似をしやがったら……お前の義理の兄貴がエヴァ・ガードナーのあそこを舐めてる写真が、ウィスパー誌にすっぱ抜かれることになるぞ。家畜小屋で残飯を漁ってるのがお似合いだと、アイルランドの豚野郎に言っておけ」  そして歯切れのいい、微かにドイツ訛りの混ざる、彼の恫喝が。  がちゃんと受話器が置かれた時、せっかくシャワーで温まったはずの体はすっかり血の気が引き、冷え切っている。それでもリッキーは裸足のまま、ふらふらと寝室へ向かった。濡れ髪もお構いなしでベッドに寝そべり、煙草を吹かすランベルトの足元に、右膝を突く。  左手は当たり前の如く差し出される。恭しく掲げ、薬指の根元に口付けすると、リッキーは人間業の及ぶ限り厳かに呟いた。 「君は最高に下衆だけれど、同時に僕が知る中で、最も僕を愛してくれている人間だ」  明け方らしい青みを増した冷気の中、ランベルトの顔は陶器の人形のように青白い。ふうっと紫煙を吐き出しながら、彼は唇を緩めた。 「君がそう思ってくれるのが、俺は何よりも嬉しいよ」

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