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13.傷口が開く

 ハーパースの脅威、リーが去れば、別の厄介事が舞い込んでくる。父がロンドンに足を向けた。こちらの銀行家が節税対策で移り住んだスイスを離れ、年に一ヶ月だけ故郷へ滞在する時期なので、喧嘩を売りに来たのだろうと思うが、ボクシング・グローブは携えていない。  ランベルトに置いてけぼりを食らったからと言って暇を持て余していた訳でもない。偶に訪れる1人きりの晩を、リッキーはちゃんと自給自足で埋めていた。こちらの友人に「ビート」なアメリカ人放浪者を紹介してやったり、逆に流行りのクラブへ連れて行かれて最新のロックンロールを聞いたり。  だが今回ばかりは、老兵達の会合へ顔を出さねばならない。襟首を掴まれた猫の気分で連れて行かれたコンドミニアムで待っていたのは父と、ギネス氏と、そしてグレゴリー・ペック。一体どうした事だろうと首を傾げていたが、そもそもここはペックがアイルランドでの撮影の合間、羽を伸ばす為に借りた部屋なのだと、外套を脱ぎながらランベルトが教えてくれた。  ペックの賭博好きは有名だ。撮影現場ですら3晩ぶっ通しで、スタッフとカードを繰っていることがちょくちょくあるんだとか。彼はランベルトの姿を見て、あの大きな黒い瞳を輝かせた。プロの賭博師は引かれ合うという訳だ。  幸か不幸か、このハリウッドきっての知的で誠実な紳士は明日の朝一番から、シェパートン・スタジオで鯨の模型と戯れなければならないらしい。と言うことで一夜限りの大勝負、ルールはオマハ式。リッキーは控えの選手だが、お呼びが掛かる事はないだろう。今夜の任務は持ち込んだハーマン・メルヴィルのペーパーバックを読んでいるか、銀行家の連れてきたペキニーズと遊んでいる位しかない、ということだった。  退屈でむくれた顔をし、ソファに沈んでいるリッキーの頭を、父は苦笑いと共に撫でた。「本当に遊んでるのか? 全然日焼けしてないじゃないか」 「ラニーが外に出してくれないんだよ」  何度見ても息を飲むほど巧みな手つきでカードを切るランベルトへじろりと横目を向け、リッキーは頬を膨らませた。 「アンダルシアでも、パリでも、タンジールでも……パリでなんか、殆ど夜しか出歩かなかった」 「リッキーはマリー・ルイーズ・ボスケのサロンですっかり寵児になりましてね。なかなか離して貰えなかったんですよ」  優しいマリー・ルイーズ。ハーパス・バザーのパリ駐在編集者を務める彼女の元には、街中のアメリカ人が集っていたのではあるまいか。そこで比較的のびのびと過ごせば過ごすほど、リッキーは己が異邦人であることを意識させられた。それは訪れた全ての街で覚えた感覚だ──ランベルトがいなければ、例えフランス語を話せても、街角でカフェオレの一杯も頼めない人間になったような気分へさせられる。  迷子になったかのような不安は、あの女主人の家の優美なへップルホワイト様式カウチにすら押し寄せてくる。  自らの性癖など、これまでリッキーは一度も積極的にばらした事はなかった、少なくともヨーロッパでは。なのに人の口に戸は立てられない。なぜパリくんだりまで来て、アメリカ人のお仲間に迫られなければならないのだろう。  あのイリノイ出身の大男、最近映画で売れているからって……磨き立てられ、うっとりするような湾曲を描く背もたれに無骨な手をかけ、彼は今にも嵐で柱を吹き飛ばされた山小屋の屋根じみた威圧感で、こちらへのしかかる勢いだった。幾分シシー(女っぽい)な物腰で。  それも気に食わなかったのかも知れない。男の中の男として売っているスクリーンの中のスターに、少しは憧れを抱いていたから。彼が男好きであることは業界だと公然の事実だが、影でこっそりシンパシーを覚え、憧れているだけで十分だったのに。  「悪かった、彼は金髪の、いかにもその気がなさそうな男を掘るのが趣味だから、油断していた」と、間一髪のところで救い出された暁にランベルトへ慰められ、落ち込みは極限にまで達する。僕ってそんなに、ホモっぽく見えるのだろうか。それだけは避けたい事、普通の、そこまで色事に興味のない男として振る舞えていたつもりだから、余計に。 「ロックも悪い男だよね、ミスター。あんな素敵な奥さんがいるのに、浮気だなんて」  懐っこいペキニーズはもう遊び相手の膝へ乗り上げることに躊躇しなくなっている。頭を撫でてやりながら、リッキーは猫背気味なエイブラハム船長の背中へ横目を走らせた。ミスター・ペックに罪は全く無いのだが、体格とか、豊かなブルネットが、あの厚かましく完璧にハンサムな男を思い起こさせる。 「彼女のサロンは西海岸の人種の溜まり場だからな。お前も国へ戻ってきたら、ネッドの下で働いて、あちらの人々の力に役立ってみたらどうだ」  「あちらの人々」なんて物言い、ペックがいなければ絶対に使わなかっただろう。謙っているように見せかけて、最大限まで高められた父の尊大さへ、リッキーはツンと顔を逸らして見せた。 「兄さんに命令される? 勘弁して欲しいね」  この前噛んだ唇の傷にまた歯を立ててしまった。舌の腹に広がる塩辛さがどうにも不快で、リッキーは犬を床へ下ろし、壁の脇の棚からバーボンとグラスを持ち出した。 「リッキー、俺にも持って来てくれないか」 「これヘヴン・ヒルだよ」 「構わない」  溜め息をついてもう一つグラスを取り上げ、拳半分ほど注ぐ。自らはアイスボックスから氷を三つ、彼はストレート。  普段ならばテーブルにグラスを置けば、ランベルトは微笑みながら「いい子だ」なんて呟き、軽く手を叩いてくれるものだ。不満を覚え、広い彼の肩に手を置き、顎を額へ押し付けるようにしてカードを覗き込む。「あーあ、酷い手だね」  今甘い愛撫の代わりに与えられたのは、周囲の突き刺さるような視線。いや、ペックはカードを数えるのへ必死になっているのか、フロップを穴が開くほど凝視するばかり……可哀想に、エースを3枚も手札へ持っているのに、このルールでは存分に役立てることが出来ない。  現実逃避の後にやってきた羞恥にまた強く、噛み跡を食い締める。やってしまった。最悪だ。「煙草ちょうだい」  「君、吸わないだろう」なんて言わず、ランベルトは懐から銀のシガーケースを取り出した。震える指先で辛うじて唇に押し込んだリッキーに、ライターの火を翳してやる親切さ、いや、これはとどめの一撃だ。  父がどんな表情を浮かべていたか、とてもじゃないが直視できなかった。甘く濃い紫煙をろくに吸いもせず、バーボンのグラスへ放り込み、リッキーはカウチへ逃げ戻った。尻尾を振りながら近づいて来たペキニーズをぎゅっと抱きしめ、蚊の鳴くような声で囁く。 「僕は何も悪くない」  わん、と元気の良い返事は、果たして肯定していたのか否定していたのか、ついぞ確信が持てなかった。

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