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14.吐血
少し寝不足だったんですよ。そうでなくても海に近付けは船は揺れますから……いやいや、まさか諍いなど。そうでしょう、ミスター?
いつも通りランベルトと言えば淀みない捲し立てで、話を丸く収めてしまう。その間リッキーは、己の頬へなかなかのパンチを喰らわせたチンピラへ、何とか感情を込めた眼差しを向けようと努力していた。所詮は無駄なこと。調停人が振り返れば、わざと見せつけてやる。口の中に満ちる生温い鉄錆味の体液は、数日前の雨で濁りを増した川の水面へ吐き捨てられるや、瞬く間に渦の中へ消えた。
彼の行動が正しいことは分かっていた。ヨットの中に逃げ場はない。キャビンでは錨を上げてこの方、モントゴメリー将軍のもと借り物のシャーマンを駆っていた英雄の(君の仇だねとランベルトに耳打ちすれば、このパンツァー部隊の英雄は「郷に入れば郷に従え。昔の恨みは水に流すさ、何せここはテムズ川だからな」といとも気安く肩を竦めた)妻と、その夫の部下が、秘密の情事に耽っている。とは言ってもイギリス人は慎ましい、せいぜい頬を寄せ合ってネッキング位のものだろう。
デッキに残された6、7人程の乗客は皆涼しい顔を貫いていた。苛立っていたのはリッキーのみだ。モデルの卵がランベルトへ大っぴらに粉をかけていたので、少し意地悪をした。「君のお母さん、確かどこかの一代貴族の2号さんで、アンダーグラウンド(地下鉄)に飛び込んだんだろう……ええっと、こっちではチューブって言うんだっけか。どっちにせよ、お連れの彼氏のチューブがロニーに開通させられてなきゃ良いんだけどね?」
で、そのお連れの彼氏に殴られた。正確には彼氏ではない、兄妹なのだと言う。親密な物腰にジョバンニとアナベラ的関係を疑ったと言えば火に油を注ぐ結果になると分かりきっているから、リッキーは無表情に全てを代弁させた。
一発の拳骨で、船内の空気がジェローム・K・ジェロームでなくアガサ・クリスティ風に早変わりする。ランベルトは整った歯列を見せびらかすことで全てを有耶無耶にするつもりだし、それは大方成功しつつあった。皆英国流の偽善を発揮して、何事もなかった場合にすべきことへ戻っていく。まるで芝居の幕のように雑誌を広げ、視界から世の中を隔絶する者。くだらないゴシップトークを囀り始める者。
ランベルトがジントニックをこさえて持ってきてくれたので、「いらないよ」と答えれば「口の傷の消毒だ」なんてしれっと返された。
「酷い面だ。明日にはもっと腫れるぞ」
「男ぶりが増したと思わないか」
「まさか。可愛い顔が台無しじゃないか」
さっきこちらへ来る時、女の子へ申し訳なさそうな──埋め合わせは後でするよと言わんばかりに──目配せしていたのに、この言い草だ。臍を曲げても十分許されるだろう。
「ロニーが怖くない?」
「別に」
ずきずきと疼く頬で無理やり微笑み、リッキーは言った。
「インマン家の家訓なんだ。勝てない喧嘩はするな」
秋の強いばかりで温かみのない日差しの下、デッキチェアに寝そべると、態とらしい欠伸をしてみせる。
「いいかい? もうすぐしたら、この船はヨットクラブに停泊する。大体2時間かな……降りてすぐ、僕はフィッシュ&チップスを注文して、実家に電話を掛ける。僕が揚げ物を食べている間に、秘書はすぐ兄さんに報告して、兄さんは銀行が信託基金の管理をしてるハバナのホテルへ連絡するだろう。フルヘンシオ・バティスタの庇護の元、さるユダヤ人が合法的にやっているホテルだ。彼が非合法的に薬を卸しているのは……」
ここまで言えば十分だろう。傍らの手摺に寄りかかり、己のブランデーを舐めながら、しばらくの間ランベルトはバウ(船首)の方へ目をやっていた。やがて琥珀色の瞳は戻ってきて、デッキチェアに突き刺さる。
「やくざものに借りを作るのはまずくないか?」
「平気さ。兄さんも前、アイクと縁故のある80歳のお婆さんとやってうっかり腹上死させた時、頼ってたからね」
古い、それこそボートの3人男とモンモランシーが旅の途中で憩っていそうな、床板の湿ったパブに足を踏み入れると、リッキーは自らが口にした事を全てやり遂げた。
1時間30分きっかり後、店の親父に呼び出され、先程自らを殴り飛ばした青年が青い顔をして店に駆け込んでくる。カウンターから引き出された電話で通話を終えた時、そいつの顔色は紙よりも白くなっていた。屈辱ではなく、純粋な恐怖で。
だからリッキーも慈悲を見せ、青年に説いて聞かせる。別に怒ってはいない事、と言うか、君の怒りはごもっともだと言う事。ただ物事を暴力で解決するのは、文明社会で許されていない事。ましてや相手に血反吐を吐かせたとなれば──
先程までチップスを摘んでいたせいで、タラゴンに塗れた指を舐め、リッキーは嘆息を漏らした。せっかく揚げたてだったのに、魚の衣が傷へ障って、何を飲み食いしても血の味が付随する。ビターの苦味ですら誤魔化せないのだから重症だ。
「僕達も仲直りしよう。ミスター・クレイには世話になってる。特に僕のラニーが……彼は悪食なんだ。君も気をつけないと、妹さんとまとめて、ぺろりと平らげられるかも……いや、金がないから大丈夫か」
グラスに半分ほど残った濃い色のビールへ血反吐の混じった唾を吐き、ゆっくりと振って掻き混ぜながら、リッキーは首を振った。
「許してくれるかな? 彼が……君達に、手を出しても」
上着の胸ポケットから取り出された、10ポンド札の束を挟んだマネークリップに引き寄せられて、青年の顔が持ち上がる。びしゃりと、ぬるいビールを引っ掛けるのに、これ程格好の標的もなかった。
高い鼻先から滴る雫の落ちる床へ、適当に6、7枚ほど紙幣を落とし、店を後にする。やれやれと、すっかり特等席になった甲板のデッキチェアへ身を横たえたリッキーを、ランベルトはしげしげ見下ろした。
「勝てる喧嘩しかしない。ユダヤ人一家の家訓か」
「それと弱い者いじめもね」
眉尻を下げ、そう哀れっぽく訴えても、この百戦錬磨の詐欺師は誤魔化されてくれなかった。
「だが、今のは英国流の戦法だぞ」
痛みをが増すばかりの頬を徒らに触れられ、顔を背けながら、リッキーは苦々しげに眉根を寄せた。
「郷に入れば郷に従え、だろう」
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