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16.気絶
気をやっていたのは数十秒が良いところ。頬を軽く叩くひんやりした手と、己の名を呼ばわるあの低く心地よい声。「リッキー、しっかりしろ」
ゆるゆると瞼を持ち上げれば、暗闇の中で狼の瞳が、食い入るようにこちらを見つめている。振った頭は割れ鐘を鳴らされているかの如く響く。後頭部には、さぞかし大きなこぶが出来ている事だろう。
苦痛で思い出した。ロニーの恐怖の館から逃げ出し、郊外へ車で3時間。どこぞの男爵が所有するマナーハウスへ招待された。今度は呼び出した淑女達も伴って──ストレートもレズビアンもいた。この国の同性と寝る人間は、往々にして異性ともつるむ。或いは、本人もバイセクシャル。
「あまり騒ぐなよ、母さんが寝てる」
そして大抵は、厄介な母親を抱えている。
そこで粛々とポーカーの2回戦目に突入するのかと思いきや、明かりを付ける前に、グレタ・ガルボと誰かを掛け合わせたような女傑が、ドーバー海峡の向こうまで届きそうなアヒル声を張り上げる。
「ここはマーダーをするのに打ってつけじゃないの」
リッキーが引いたカードはハートのジャック。「殺人者」の証であるスペードのエースを引き、犠牲者達を追う役は誰だろう。立入不可の地下室と男爵の母の寝室を除いても、1階と2階合わせて30はある部屋のそこらここらでわあわあ、きゃあきゃあ。犯人は相当の凄腕らしい。10人程いた参加者達は、1時間もしないうちに半分近くが喉を掻き切られていた。
今回リッキーは、2階にある客室のうち、奥から4番目の部屋に飛び込んだ。木を隠すなら森の中、オーソドックスな場所へ。息も整わぬまま周囲を見回し、選んだのは古びた衣装箪笥だ。
暗闇と血も凍るような叫び声にびくびくして、よそ見をしながら取っ手に腕を伸ばしたのがいけなかった。反対側からばたんと押し開けられた扉で鼻先を強打し、思わず数歩後ずさる。挙句絨毯の皺に躓いて仰向けにひっくり返り、ベッドの木枠で頭をぶつける始末だった。
「首の骨を折らなくて良かった」
「ラニー、何をやってるんだよ……」
柄にも無く焦った男の顔を見上げ、リッキーはもぐもぐと呟いた。
「君みたいな大男、よくそんな所に隠れられたな」
背中を支えられて身を起こされたが、まだ体はぐにゃぐにゃする。胸元に凭れかかれば、首筋へ残ったフレグランスが鼻を擽った。危険な色男を体現する、シャネルのスパイシーな芳香。彼もあちこち走り回ったのだろうか。火の気のない、冬も間近の部屋で、ランベルトは少し汗を滲ませていた。
「殺人者はどこに行ったんだろう。この調子なら、明け方までには皆殺しだ」
突っかかるようにして呟きを通した喉は、すっと横一文字に撫でる指先で、今際のように震える。思わず目を見開いたリッキーに、ランベルトはにやりと、本物の殺し屋のように片側の口角を吊り上げてみせた。
「道理で鮮やかな手並みだと思ったら」
「君は7人目。まあ奮闘したほうさ」
甘やかすような口調は慰めの役目を果たさない。それどころか、続けられた「絶対に衣装箪笥の中へ隠れると思ってた」の言に、立腹は一層膨らむ。
「ネッドから聞いたよ。昔からかくれんぼをしたら、必ずここへ身を潜めるって」
今度兄に会ったら、挨拶のハグ代わりにびんたを食らわせてやる。そう固く心に誓いながら、リッキーの右手は目下のところ、立ち上がるよう促すランベルトの手のひらに逆らえない。
「でも、どうしてこの部屋に来ると?」
「それは勘」
「凄いな」
田舎の広い土地を存分に活用した狩猟用邸宅の中から、彼はリッキーが逃げ込む場所をぴたりと当てて見せたのだ。
まるで運命みたいじゃないか? そんな戯言、一笑に付されるだけではない。口にすれば最後、もっと手酷いしっぺ返を食らいそうで怖かった。だからリッキーは、まだ見知らぬ殺人者へ慄いているかの如く、ぶるりと身を震わせる。
「僕のことを何でも知っている」
「君は分かりやすいから」
「失礼な奴め」
金切り声と笑い声の間に出来た束の間の静寂を、弱々しくぼんやりした光が照らしつけている。ふと窓の外を見遣ると、中庭を挟んだ離れに、一室だけ明かりが灯っている部屋があった。恐らく男爵の母親の部屋だろう。狼藉者へ徹底抗戦する気構えらしい。いざ直視すれば、その煌々とした輝きは、闇に慣れた目だと痛みを覚える程だった。
眩しさだけではない。よく耳を澄ませてみれば、更に夜の帷を妨害しているものを聞き取ることが出来る。古臭い旋律は、擦り切れたレコード特有の引っ掻くような音を添えて、途切れ途切れに届けられた。
「これ、ビング・クロスビーではないね」
「ああ。ずっと昔の曲だ」
精悍な顔立ちでしばらく聞き入っていたランベルトは、不意にぐいとリッキーの腰を片腕で抱き寄せた。
「踊ろう、リッキー」
「まだ殺し足りないだろう」
「構わないさ。しばらく連中は怯えさせておけばいい」
頬と頬を寄せ合って、スローなリズムの足運び。幾ら完璧にリードされても、女役で踊ったことのないリッキーは、何度か足を踏んでしまう。文句は寄越されなかった。それどころか、ランベルトは低く密やかな声で口ずさむ歌詞を途切れさせる真似すらしない。
「日々は過ぎ、年月は去り、海原が2人の間に横たわるかも知れない。いつの日か私達は、あの愛おしい国を見つける事が出来るのだろうか」
「なあ、ラニー。君は僕の王様で居てくれるかい」
相手の体へ完全に身を委ね、リッキーはそっと問いかけた。何なら引き摺られているような姿勢だが、仕方ない。未だ頭を打った衝撃から肉体が立ち直るには程遠い。脳全体が痺れているようだし、体に芯は入っておらず、またランベルトの足を踏んづける。
だから、少々馬鹿げたことを口走っても許される筈だ。
「今この瞬間、君のことを誰よりも愛してるよ。俺の女王(クイーン)」
この上なく真摯に聞こえ、何よりも甘やかな愛の告白に耐えきれず、リッキーは熱くなった目頭を黙って相手の肩へ押し付けた。
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