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第2話

 このまま無事帰れば万々歳だな、と思いつつ階段傍にあるトイレを見かけてふらりと中に入る。  実際、本当に飲み過ぎていた。もちろん歩けないことはないしそれなりに頭も回る。  けれど、この状態でタクシーなり何なりに乗るには流石に不安だった。もしかしたら、振動で気分が悪くなるかもしれない。  意識がしっかりしているうちに一度吐いておきたい。それもちゃんとした設備がある所にいる、今のうちに。  足取りもおぼつかずに扉を開けて迷わずに個室に入る。鍵を閉めるやいなや、倒れこんで便座を抱えるように胃の中のものを大量の水分と共に吐き出した。  喉が焼けるような感触。胃の違和感。  流石に限界来ていたな。吐きながら、そんな事を思う。しかし、自発的に吐いている奴というのはなんでこんなに病的らしく見えるものなのだろうか。  そんなどうでもいい事を考えながら、目の辺りがツンと来るのを堪えた。生理的な涙で視界がぼやける。 「が、はっ……!」  何度か嗚咽を漏らしながら、ある程度区切りがついたあたりで吐くのを止める。  それからゆっくりと呼吸をすると、便器から顔を上げた。のろのろと緩慢な動きで手を伸ばして洗浄レバーを引く。  流れる水音。吐瀉物が全て流れ終えたのを確認してから、やれやれと便座に座り込んだ。  酒を飲みすぎて嘔吐なんて、久しぶりにやった。三十間近にもなると、酒の飲み方もそうそう無茶はしなくなる。必然的に若いころに比べるとこんな風になることはほとんどなかった。  今やって見ると、思っていた以上に体力を使う。昔を思い出して、馬鹿な真似して飲みすぎてよくこんな事が何度も出来たもんだ、と感慨深く思い出した。  吐瀉物と涎で汚れた口をトイレットペーパーで拭きながら、胸元から煙草を取り出す。  ここのトイレは火災警報べルがないらしい。どうやら何度も騒動が起きるから外された、と同僚のうちの誰かに聞いていた。  馬鹿な奴もいるもんだな、と思いつつ、そんな馬鹿と同じ行動をしている。その矛盾さが少しだけ可笑しくて苦笑いした。  口の中の感覚は奇妙なものだった。胃酸でピリピリする舌と、アルコールで焼けた感覚がする喉。そんな口内の痺れを感じながら紫煙をゆっくりと吐く。  帰ったら、と吐いた煙の行方を眺めながら考える。  とりあえずシャワーが浴びたい。体はクタクタに疲れていたが、煙とアルコールの匂いのままベッドには入りたくない。  それで明日起きたらスーツをクリーニングに出して、ずっと切れていたコーヒー豆の買出しと、しばらく触っていなかったベースの手入れもしたいな、とのんびり考える。  やりたい事は、山程あるのだ。  他に時間さえ出来ればCDショップに行って好きな洋楽バンドの新譜のチェックしたいし、以前から目をつけていたカフェにも行ってみたい。それに、新しく出来た輸入物の家具屋にだって足を伸ばしたかった。  ただ、どうせ来週からまた別件の仕事が入って忙しくなるのは分かっている。多分このやりたい事の半分だってきっと出来やしないだろう。だからこそ、今週末くらいはのんびり自分の為に使いたかった。  なんなら、家でゆっくりしながら久しぶりに曲を作ってみるのもいいかもな、と天井に向けてゆっくりと椎名が息を吐いた、その時だった。 「ぅんっ……!」  一瞬、体の動きが止まった。  今の声は、もちろん自分が発したものではない。  ゆっくりとトイレの壁の方へ目を向けてみる。確か入る時に隣にも個室があったのを見たはずだ。先程の声はそちらの方からだろう。  勘違いであって欲しい。けれどきっとこの想像は間違っていないはずだ。多分、今のは。  最中の声、だよな、と紫煙を漂わせて壁を眺めてみる。だからこういう場所の長居は好きじゃないんだと忌々しく思いながら。  今時クラブの便所でセックスだなんて十代のガキでも流行らないというのに。入るときに確認して欲しいもんだと短くなりつつある煙草を強めにふかして、ふと気づく。  ――自分がトイレに入ってから新たに入ってきた奴の気配はあったか? と。  もしかして後からじゃなくて、前から居たのか。しまった。だとしたら空気を読めないのはこちらの方だ。  益々面倒臭いことになった、と出て行くタイミングを逃した事を後悔しつつげっそりする。スーツのパンツから携帯灰皿を取り出すと、吸殻を放り込んで頭を抱えた。  本当は今すぐ出て行きたい。けれどうっかり隣の奴等と出会すのは勘弁願いたい。  そうなると、こういう時は相手方が出ていくのを待つに限る。あとは、願わくば相手の男が早漏であることを望むだけだ。  アホみたく盛りすぎて、間違っても二回戦なんか行かないようにしてくれ、と誰がどう聞いても下世話だろう、そんな祈りをしながら、椎名は小さく溜息を吐いた。  そんな事を考えている間にも嬌声はやむことはない。もう何でもいいからとっとと終わって欲しい。  一度気づいてしまえば、『そういう』音はこのトイレ中に平然と響いて聞こえてきた。ぐちゅぐちゅ、と生温い音、小さな悲鳴のような吐息、肌の擦れ合う音、ぬめるような水音。どうしてこうも音が響くんだろうか。  そこまで考えてからふと、耳の違和感を感じてそっと手で触れてみる。そうしてから、気がついた。  フロアに流れていた大音量の音楽を聴いた後なのにもかかわらず、自分の耳は問題なく周りの音が平気で聞こえている。  思っていたより耳は駄目になっていなかったんだな、と。元バンドマンとしての名残ともいうようにもう何年も前のことを思い出そうとする。  けれどもう淡く薄れた記憶を思い出すのは、想像していたよりも難しかった。自分の記憶よりも身体の方がまだまだ、当時のことを忘れていないんだろうか。あの時みたいに二、三時間ぶっ続けで演奏出来るような体力はもう残ってないのに。  無駄なものだけ、こうやって自分の中で残っている。そう心の中で自嘲していると、カタカタと、ロールの回る音が室内に響き始めた。  後処理の音だろうか。ようやく終わったのかな、と少しだけ安堵していると、ドカッ! という雑なドアの開ける音。それから、 「盗み聞きしてんじゃねェよ!」 ……侮蔑の声。  明らかに、この罵声は椎名に向けてだろう。さらに隣人は聞き取れはしない言葉を怒鳴り散らして、外ドアの開く音と共に消えていった。  どうも、出歯亀だと思われたようだ。誤解もいいとこだが。  謂れのない誤解に眩暈がしそうになりながらも、汚名は晴らせそうになかった。そもそもの発端が椎名自身の確認不足が原因だし、わざわざ言い訳しに行った所で面倒臭い事になるだけだ。げっそりしながら個室のドアを開ける。  まあなんだっていい。とにかくこれでようやく狭い個室から抜け出して家に帰れる。それに比べたら少しくらいの侮蔑くらいなんてことはない。  やれやれと洗面台の方へ向かおうとして、そこで椎名は足を止めた。  目に見えるそれに、気づいてしまったから。  足が出ている。先程までいた個室の隣、つまり情事をしていた個室から足が見えている。  さっき出ていったんじゃないのかよと思いつつもすぐに出ていけない自分の好奇心が恨めしい。  もしかして、男の方だけ出ていったのだろうか。行きずりでもろくな男じゃねぇなぁ、なんて自分には関係ないにも関わらず残された女の方を気にかける。  出来れば面倒なことだけは避けたいのだけれど、男子トイレ内で寝転がせておくのも気分が悪い。自分が放って置く事で後々襲われただの死んだだので厄介になるのは勘弁だ。  とりあえず意識がありそうならすぐ帰るに決めた。よし、そうしよう。と先の個室をそっと覗き見る。 「……あれ、」  そこには自分が予想していない人物がいた。  脱ぎ捨てられた足元のジーンズと下着、頬が腫れた顔。鼻血だろうか、Tシャツの襟首に飛び散ったように滲む血の痕。対照的に顔や足にべっとりと付着している、あまり見たくない先程出て行った男の体液らしいそれ。散らばったように広がって顔にかかる少し長めの黒い髪。折れそうな細い体。  まあマニアックなプレイなのか単純に強姦だったのかは知らないが、間違いなく情事後の光景だ。  けれど個室でだらしなく着衣が乱れたままのその人物は、――男だ。  そして先程出ていったであろう人物も、多分男だった。姿こそ見ていないが、あんな野太い声の女なんか自分はお目にかかったことがない。  要するに自分はゲイの情事に鉢合わせたんだと、椎名の頭が理解するには多少時間がかかった。 「あー、と……、」  つい声が出た。明らかに混乱している。誰がって、自分が、だ。  ああでも相手が男なら放っておいても何の問題もないんだよなとか、なんだかよく分からない事を頭で思いつく。そこまで考えてからいや、こうなるともう色々収集がつかなくなる、と椎名は頭を振った。落ち着け、と自分自身に言い聞かせるように軽く手で頭を小突いてみたりと、傍から見ればよくわからない行動を繰り返してみた。  だからか、気がつかなかった。 「……あ、」  個室の中の男が気がついた事に。そして、 「あれェ……珍し、シイ君じゃん」  男が、昔の『自分の名前』で呼んだことに。 「……え?」 「だからシイ君でしょ。……んん? 覚えてないか、俺のこと」  そう言いながら気怠そうに男は起き上がり、顔にかかっていた髪の毛を手で払いのけながらこちらを向いた。  覚えているも何も、と言おうとして顔をもう一度良く眺めてみる。  腫れてはいたが、男の顔そのものの原型は留めていた。先程まで髪の毛で隠れて分からなかった切れ長な目。少し人を小馬鹿にしたような話しぶり。片方の口角だけ上がった唇。 「あ……」  この笑い方には、見覚えがある。こういう嫌な笑い方する奴はそう多くなかった、から。  今の仕事場ではない。もっと前。  確かその時は、どこか人を見下すような馬鹿にしたような嫌な笑いだな、と思った気がする。そしてそれは、今見ても変わらなかった。 「思い出してくれた? 昔はあーんなにハコで会った同業者だったって言うのにさぁ……」  酷くねぇ? と片方の唇を上げて笑う仕草をみて、椎名は確信する。 『そちらのバンドはいいねぇ。皆仲が良さそうで』  少し鼻にかかる声。揶揄するような言い方。そして、今の笑い方。  昔自分がバンドマンだった現役時代の頃。メンバーとライブハウスの楽屋でミーティングしていた時、そう声をかけられて振り向くと、今と同じ顔をしてこの男は笑っていた。 「……ハルカ、だっけか」  椎名がようやく思い出した名前を呼ぶと、ハルカは相変わらず、当時と同じ笑みを浮かべてこちらを見上げた。

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