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第3話
「そうそう、久しぶりだねえ」
噂では聞いてたけど本当に一般人になってたんだあ、なんて言いながら乱れたままの着衣もそのままのトイレの床に座っているのハルカを、椎名は一瞥する。
もうその界隈から離れて五、六年近くなるだろうか。
当時、自分はバンドマンだった。
とは言っても決して名の売れたバンドではない。ジャンルはヴィジュアル系、CDのプレスは一番多くて三千枚程、ライブの規模はイベントであれば全国の内、十カ所程度、ワンマンなら東名阪を二、三百人程度のライブハウスで行うくらいのインディーズバンドだ。
テレビなんかに出ることはなく、せいぜい専門雑誌なんかに載る程度。もちろん音源はヴィジュアル系専門のCDショップくらいにしか置いていなかった。また、当時はインターネットも普及していなかったから、せいぜいライブと音源で動員を増やすくらいしか出来なかった。
いわゆる、『その界隈の人にしかわからない』レベル、という位のものだ。
シイというのは、自分の苗字、椎名をもじってつけたステージネームだ。自分のいたバンドはだいたい皆苗字からもじった奴が多かったからそれに倣っただけだったが、個人的には気に入っていた。今でこそその名前で呼ぶのは当時の知り合い位のものだったが、まさか今日、その懐かしい名前で呼ばれるとは思っていなかった。
このハルカという男はその現役時代の知り合いだ。
知り合い、という言葉の通り、当時友人として付き合っていたわけではない。今だって名前こそ覚えてはいたけれど、この男の事を椎名は殆ど知らなかった。せいぜい、噂の絶えない元同業者、ということくらいだ。それも、特に男女関係が悪い方の。
ヴィジュアル系のバンドマンというのはとにかくファンに女の子が多い。そのせいなのか、単純に好色な奴が多いだけなのかは分からないが、ファンに手を出すなんていう奴は別に珍しいものではなく、どこのバンドマンにもそういう噂はあった。かくいう椎名も覚えがないわけではない。当時のメンバーだってわざわざ言わないだけで、そういう経験がある奴はいたと思う。
が、ハルカの場合はその噂の量が尋常ではなかった。なおかつファンだけでなくスタッフにも手を出している、という噂もあった。そのスタッフだけでも椎名が知っているもので、数十人程ハルカと関係があったと話を聞いている。もちろん真偽は定かではないが。
そんな噂まみれのハルカに初めて会ったのはライブハウスの楽屋だった、と思う。ハルカは当時よく椎名のいたバンドが参加していたイベントに、同じように出演していたバンドのギターだった。
バンドをやっている以上、ライブをする時はバンドとして単独の公演と、複数のバンドとのイベント公演がある。イベント出演は、椎名のバンドのように、ワンマンライブばかり出来るものではない規模のバンドにとってはファンを増やすためや、収容人数の規模が違うライブハウスにも出演できるため、好んで参加しているバンドが多い。ハルカのいたバンドも、椎名のバンドと同じような規模だったから、よく共演相手になっていた。
そうなると必然的に打ち上げなり楽屋なりでバンド同士、話す機会が増える。先程思い出したあの光景は、多分最初にイベントで一緒になった時の事だったな、と椎名はどうにか朧気な記憶を辿り、思い返してみる。
確か、ハルカにああ言われて、サナが返事していた、と思う。結局、そのあとハルカのバンドメンバーが謝りに来て、こいつを叱りながら連れ帰っていたけれども。
噂の真偽はどうあれ、当時のハルカは、自由というか奔放というか、なんとも好き勝手動きまわっている奴、という印象だった。
それと面倒見の良さそうな、ハルカと同じバンドの男……名前は忘れてしまったが、その彼とハルカでいつも仲良さそうにつるんでいた事など。
当時のことをどうにかしながら思い出してみれば、やはり、それだけの関係だったな、と気づく。
――平たく言えば、『ハルカのプライベートの事情まで自分は知らない』ということだ。
「……お前って、そっち趣味の奴だったんだな」
噂の方はやっぱりデマだったかな、と思いつつ現状の光景にとりあえず今思ったことを率直に伝えてみる。
思っている以上に混乱しているのだろう、目の前の光景に。まあ、そりゃそうだよな、と椎名は一人納得する。
ゲイの情事現場に鉢合わせたこと。その相手が前職の知り合いだということ。
これで混乱しない奴がいたらそいつはよっぽど人間ができているか、単純に感情がないかのどちらかだろう。
「えあ? 何、趣味って……」
ハルカはこちらの質問の意図が分からなかったのか、一瞬顔をしかめたが、
「……ああ、これ?」
放り出されたのジーンズを見て理解したようで、別にゲイってわけじゃねぇよ? と言いながら首をかしげた。
「いや……」
「普通に女もいけるからねぇ、俺」
呆れて言い返せない椎名に、そんなことをしゃあしゃあと言いながらジーンズから潰れた煙草を取り出してハルカは吸い始める。
煙を吐き出しながら、ゆったりと世間話でもするかのように説明を始めた。
「さっきの奴、別に知り合いとかじゃなくてさ、単純に誘われたからついてったんだけど……トイレ入るなりぶん殴られて、半分意識ないまま、なんか好き勝手やり始めだしちゃったんだよねぇ……」
どうもヤリ逃げされたらしいわ、と平然とした口調で言うハルカ。その口調に悲壮感はなく、カラカラと笑いを込めた話しぶりで指先に挟んだ煙草を弄っている。
「ヤリ逃げって……」
ハルカから話される言葉の意味を理解するのを拒むように、つい復唱してしまった。
数年ぶりに会ったが、この男の自由っぷりは変わっていそうもない。
「だってさ、シイ君。俺まだちっともイけてないのに、勝手に突っ込んで出してとっとと出てくとか、酷ぇったら」
挟んだ煙草でこちらを差しながら話を続けるハルカに、いやそういう意味じゃないと言い返そうとして、やめた。
これ以上、ハルカに何を言われても、脳が理解することを拒みそうな気がする。
それに今は他にもっと言うべき事がある。一つ大きく息を吐いてから、椎名はうだうだと話しているハルカの言葉を遮った。
「あのさ、何でもいいから服着るなり、顔のそれ何とかするなりしろよ……人来たら、俺が変に思われる」
それ、と床に落ちっぱなしジーンズを指していうとハルカはきょとんとした顔をして、ゆっくりと自分の姿を眺めはじめた。
やたらと緩慢な動きのそれは、ほんの少しだけ情事の名残を含んで見せていた。そのせいか付着した体液はもちろんTシャツの血の赤でさえなんだか卑猥なものに見えて、思わず目を逸らす。
情事の後だからだろうか。もともとステージでも、痩せぎすの鶏がらの様な身体の癖に、やたらと変な色気のある奴だったっけ、とまた一つ、ハルカについての記憶が蘇る。
見たところ全く肉のないハルカの身体は、女性のそれとは違い柔らかさのかけらも感じられない。打てば跳ね返りそうなくらい、触っただけで軋んだ音が鳴りそうな身体だ。当時も今もその印象は変わらない。
「あー……ちょっと待ってて」
こちらの考えなど知ることもないハルカは、そんな風に言いながら煙草をトイレの床でもみ消すと、座り込んだままもぞもぞと動き出した。
「いや、俺待つ必要ないだろ……」
そう言ったが結局洗面台に凭れて、その場で小さく溜息を吐いた。
自分で言った通り、別に待つ必要なんか全くないはずだ。そもそも特別親しいわけでもないハルカと、特に話すことも無い。けれどなんとなく目の前の男に付き合っている自分は、ハルカのバンドにいた彼のようだな、とふと思った。
馬鹿だよな、別に仲良かったわけでもないのに。きっとまだ混乱していて、つい無駄な行動をしたくなっているんだろう。あとは、久しぶりに当時を思い返すことが出来る相手に会って、センチメンタルにかられているから。
うん、きっとそうだ、と自分でもよく分からないままこの行動をそう意味付けてみた。
「うわっ、酷いにも程がねぇ? これ……」
こちらの意図など全く気付きそうもなく、トイレットペーパーをいくらか引き出しながらハルカは体にところどころ付着している男の体液を拭っていく。その様子を眺めながら、ついまた余計なことを考えてしまう。
しかし、顔、足、とガシガシと擦るその姿は、正直色気もへったくれもない。けれど血と混ざった男の体液がテロテロと光って、ハルカの皮膚を伝い床に垂れていく様を見ていると、なんとも言いがたい気分になった。
先ほどの情事の声を聞いていたからか、実際に見ているとやけにハルカの行動が生々しい。自分にその気はないはずだと思っているが、実際に目の当たりにするとハルカに残る先程の情事の熱をこちらまで感じてしまいそうだ。慌てて首を振ってみるけれど、目線は床からハルカの顔に向かってしまう。
伏せた瞼。細い首。それから……、とつい眺めていると、ふと何かに気づいたようにハルカがこちらを見上げた。
一瞬、こちらの思考を見透かされたようでたじろぐが、当のハルカは何かを思い出すように眉を寄せ、思案顔で椎名を見ていた。
「な、なんだよ……」
「んー……シイ君。私服じゃなくてそんな姿ってことはさ、シイ君って今日誰かと一緒だったりしねぇ?」
突拍子もなくそういうハルカに今度はこちらが眉をしかめた。
そんな姿、と言われても椎名はただの仕事帰りの格好のままだ。当然のごとく着ているものは普通の仕事用のスーツ。それと自分の連れの有無が何か関係があるのか。
ハルカが何を聞きたいのかよく分からないまま、質問に答えていく。
「ああ……会社の奴らに誘われてきたんだよ。まあ、俺は帰るところだったけど、時間考えても、まだ居るんじゃないか?」
「ちなみに、女の子口説いてたりとかしてなった? その同僚君」
「まあクラブだし、普通にしてたけど……それが?」
なんだと言うのか。ハルカの質問の意図が分からず少しだけ苛立ってて返事をしていると、ハルカは慌てた様にジーンズから携帯を取り出して操作し始めた。
「おい、何……」
「げ!」
しているんだ、という言葉はハルカの叫びでかき消された。思いの外大きいその声に驚いて、びくりとする。そんな椎名に関わらず、やっばい、と騒ぎながらハルカは急いで立ち上がった。だから何がだよ、と聞こうとすると、言い終わる前にハルカに急に腕を引かれる。
「ちょ、何なん……」
全く意図の読めない質問や突然のハルカの行動に上手く反応することが出来ず、椎名は身体のバランスを崩しそのままハルカのいたトイレの個室に倒れこんだ。
今の状況もハルカのこの行動も、全く理解できない。倒れた時にぶつけた膝の痛みに顔をしかめながらハルカに怒鳴った。
「っー……。おい、何すん……」
「いいから静かにしてて。こんな時間じゃもう出ていけないから!」
ますます意味が分からず、はぁ? と声を上げようとして、外ドアの開く音が聞こえた。
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