4 / 6

第4話

「……なぁ、」  小さく呼びかけるこちらの声に、ハルカが顔を上げる。 「どうしてこうなってんだよ……」  ああ、本当に。慣れないことはするもんじゃない。  本当ならば自分はもうすでに帰っているはずだった。今頃とっくにシャワーを浴びてベッドに入っている予定だったのに。  それが何故、男子トイレの個室で下半身丸出しの男と一緒に居なければならないんだろうか。  改めて自分の好奇心を呪いたくなる、と椎名は思う。  あの時こいつが死んでようが何であろうが気にせずとっとと帰ればよかった。待てと言われようが気にせずここから立ち去ればよかったんだ。  無駄なセンチメンタルと、自分の好奇心が原因だと理解出来ている分、この現状が余計に恨めしい。 「……シイ君さぁ、ここのクラブ初めて来た? 誰かの案内とか?」  こちらの気持ちも知らず、蓋を閉めた便座の上で胡坐をかきながらこちらを見上げて話すハルカの声は自分と同じように小声だ。とはいっても隣があの大音量のフロアから出てきたのなら、そこまで気にする必要もないかも知れないが。 「あ? いや、同僚に連れてこられたんだけど」  確かにここは、椎名はあまりこない繁華街にあるクラブだった。  今日は会社の同僚がよく来る所、と言ってそいつの案内で来たのだ。もともとこの付近は自宅からも遠いし、自分が来るにはあまり雰囲気が好きな街ではないから休日にわざわざこんな所にまで足を運ばない。  ハルカはこちらの返事に合点が言ったようで、ほんの少し肩を竦めながら言葉を続けた。 「ここの階のフロアの女の子、ほぼサクラって知ってた?」 「サクラ?」  突拍子もない話に少しだけ声が響きそうになり、慌てて口を塞ぐ。ハルカが少しだけ軽く睨んできたのに気づかない振りをして続きを促した。 「……そんで?」 「まあ、サクラって言うか、売春グループだよ。結構有名だと思うから誰かの案内ならその人、知っててここ来たんじゃないかな。で、ここのトイレが彼女達の職場。俺も詳しくは知らないけど、クラブ側も黙認してるみたいだし。大体この時間から三十分刻みでやってくるんだよ。で、その彼女らの客が知らない人ならまだしも、相手が同僚君だったら気まずいことこの上ないっしょ?」  だからさ、と言葉を続けてハルカは隣の個室がある方を見る。 「慌てて個室に引っ張ってみたけど、間一髪だったねぇ」  よかったじゃん、と笑ってハルカは椎名の方を見上げてきた。その視線がやたらと満足気だったので、ほんの少し不機嫌さを含んで言葉を返してやる。  状況のせいか、先程よりは少し冷静になれたようだ。 「いや、お前が早く服着るか、お前だけ個室入れば良かったんじゃねぇの、それ……」  もっともな椎名の言葉に、一瞬ハルカは間の抜けた顔をしてから口を開けた。 「……本当だ」 「アホ」  まあ、同僚の買春現場に遭遇するのも確かに気まずくはあるかな、と今日何度目かの溜息を吐く。もちろん隣に気づかれないよう、静かに。  けれど、まさかそのハルカの予想が的中するとは思いもしなかった。自分とハルカがいる個室の隣――先程椎名がいた個室は、その案内した同僚の声と先程まで同僚が口説いていた(サクラということは振りだったんだろうが)女の声がしていた。 「ま、よかったじゃん。一応最悪な誤解はされずにすんだわけだし、俺に感謝してよ」 「うるせぇ。つうか、なんでもいいからせめて下着くらいつけろよ……さっきからお前のチンポ見せつけられる俺の身にもなりやがれ」  ケタケタと笑いながらそんな軽口を叩くハルカに、椎名は先程から何度目かの注意をする。  隣から響く嬌声を聞く限り、同僚達は椎名達には気づいていないようだった。寸でのところだったと思えば、ある意味ハルカには感謝しなきゃならないのかもしれないが、自分を巻き込んだ原因もハルカだ。プラマイゼロどころか、マイナスの方が多い気がする。  こいつに関わったばかりに、と嘆きながら願わくば同僚がさっさと終わらせること……前にも同じようにこんな下世話な事を思った事を思い出して気が滅入った。 「それはシイ君が正面に立たなきゃいいだけじゃねぇ? まあ、下履きたいのは俺も山々なんだけどさ、」  確かにハルカに言われる通り、椎名は個室のドアに凭れた体勢でいた。この状態では便座の蓋に座るハルカとは対面してしまうのは仕方がない。  けれど、例えば隣のようにセックスする分には密着するから良しとしても、大の男二人ではやはり個室は狭い。後ろを向くかすればいいだけだが、体勢を変えるにしてもそのスペースがない。便座をまたげばそれも可能だろうが、今の状態のハルカの近くに寄りたくなかった。 「狭いからこうするしかないんだよ……なんだよ」  言いかけた言葉の続きが気になり、文句を言いながらも促させるが、ハルカはなかなか続きを言わない。  なんなんだ本当。唇の端を指先でなぞりながら、眉を寄せてこちらを見上げるハルカによくわからない苛立ちを感じる。それにしても……仕草がいちいち艶っぽさがある男だ。気のせいかも知れないが先程から椎名を相手に、する必要もない癖にわざわざそんな態度で話してくるのが若干気になっていた。だから余計近寄りたくないと思ったのかも知れない。  それに。  見ないようにしたくても出来ない、ハルカの下半身だ。この男、本当に見せつけている気はないんだろうか。胡座をかいたまま、先から話しているハルカを見ているとさらさらそんな気はなさそうだったが、隠そうする様子も全く見えない。  自由すぎるやつだから俺にはわからない感覚なのかも、と密かに感じる違和感をそう説明づけて、ハルカの言葉を待つ。ほんの数分の沈黙が隣の声と相まってもっと長い時間のように感じた。  顔にかかる髪を払いのけながら、ハルカはようやく口を開いた。 「あのさ、事後処理していい?」 「……は?」  言われた言葉の意味が分からず……いや、分かっているが、理解することを頭が拒んで、椎名は反射的に聞き返していた。 「だから、処理。ケツの方の」  言われたことに絶句していると、そんな椎名にお構いなしにハルカは淡々と説明していく。 「さっきのあいつ、そのまま突っ込んでそのまま出してきやがったから、中の掻き出さなきゃいけねぇんだよ。このままだと腹痛くなるし……てか、さっきから腹が気持ち悪いんだよね」  処理、とは。……大体想像しているもので合っているだろう事は分かった。全く分かりたくないはないが。  本当に、今日はなんて日なんだ。  ハルカは、あまり音を立てずに静かにトイレットペーパーを引っ張り出しながら、言葉を続ける。 「とりあえず俺が勝手にやるだけだし、まあ、ちょっとアレな光景かもしんないけどさ……」  よいしょ、と腰を上げてハルカはトイレットペーパーを広げていく。汚さないように、と言う配慮なのかなんなのか、分からないが目の前で行われていく光景をただただ固まったまま椎名は呆然と眺めているだけだ。  別に後ろを向けばいいのだけれど。今更巻き込まれたことをああだこうだいってももうしょうがない。壁こそ無いが先程からずっとそれと同等なものは聞いている。処理中にハルカが声を上げるかなんて分からないから、それに比べればなんてことはないはずだ。  ただ処理するだけ、ハルカにはそれだけの意味しかない。それ以外の深い意味なんて、多分無い。ハルカの処理が終わり次第、隣の個室の行為が終わったのを見計らってさっさと出ていけばいい。それでいいはずだ。  けれど、体が動かなかった。  ……心底嫌そうな顔して、悪態つきながら顔を背ければ、それでいいだけなのに。 「シイ君が見てて面白いもんじゃないけど、まあ我慢……、と」  そこまで言って、ハルカは顔を上げる……そうして、椎名の顔を見つめた。  少しの間。ハルカの瞼が一、二度瞬きを繰り返す。  まずい、と。バレたと思った。けれど、  その顔は、なんだ、と。一瞬だけ、ハルカの性格からは想像も出来ないような表情を浮かべていた。 「……ああでも、ね」  先程と、がらりと表情を変えてこちらを見る目。この男特有の、片方の唇だけを吊り上げた、嫌な笑みを浮かべて、濡れた舌で唇を舐める。  それを見てまた一つ、思い出す。昔、バンドのメンバーからこんな事を聞いたことがあった。   『――の、ハルカって居るじゃん』 『んーああ、いたなぁ。そいつがどうかしたの?』 『なんかねぇ、あいつに関わると碌な事ないとか、言われてるんだって』 『何じゃそりゃ。確かにいい噂は聞かないけど、さすがに酷くねぇ?』 『や、違う違う。陰口っていうより……なんかあいつの事、皆変な喩え方するんだよねぇ』 『なんだそれ、どんなのだよ?』 『それがさぁ……』    なんて言われていただろうか。  今日だけは、懐古主義を笑えないな、と自嘲しながら口を開く。 「……なんだよ」  ほんの少し声が震えたのが癪で、せめてもの抵抗心から目線を背けること無くハルカにそう尋ねる。  真正面にいるこの男に、自分は今どんな顔をして見えるんだろうか。少しだけ気になったが、結局はどうでもいいことだ。 「……ちょっとでもさ」  唇の間から見える舌が、漏れる声が、湿った甘さを含んでいて、そうだ、とようやく椎名は思い出した。  ――毒だ、と。  思い出せると、改めて納得する。何故こいつがそう言われていたかが今になってようやく分かったかもしれない。  この男と再会してから、なぜだかずっと違和感があった。ハルカに、ではなく、自分自身に、だ。先程から自分のペース、自分の行動が、ずっとしっくりこなかった理由をなんとなく見つけた気がした。  いつの間にかこいつの毒を食らっている。侵食されている。  ……じゃなきゃ、こんな風に。 「興味あったりするなら、」  ――こんな風にこの男から目を離すことが出来ないわけがない。 「……いいよ、そこで見てて」  胡坐を崩してハルカは膝を立てる。足の間から見える男性器の陰に隠れたそこは、熟れたような赤と対比するように先程の男の体液が染み出ていた。 「俺の卑猥なとこ、一部始終、ぜぇんぶ」 見せてあげる、とにやぁ、とハルカの口元が歪んだ。

ともだちにシェアしよう!