4 / 7

第4話

 そして僕らは十八歳になった。  僕は昼間は高校生として授業を受けながら、夜は瀬野尾製薬のラボで槇のための研究に励んだ。高校三年生だというのに受験勉強には一切手をつけていないけれど、多分なんとかなるだろうと高を括って、ひたすら研究に没頭していた。 『抗オメガフェロモン』——……それが、抑制剤アレルギーのあるオメガの人々のため、僕が三年をかけて開発した物質だ。中学生の頃、苦しむ槇とご両親の姿を目の当たりにしたときからずっと考え続けていたことが、ようやく形になった。  そして今手にしているネックガードこそ、槇のために作り上げた僕の努力の結晶。  液体化させた『抗オメガフェロモン』がごく微量ずつネックガードから分泌され、肌から吸収される仕組みになっている。これを装着していればオメガフェロモン値が劇的に下がり、ヒート期の緒症状を抑えることができる。薬剤の研究を進めると同時に、ネックガードに適する素材の開発もフルピッチで行っていたのだ。  ——これさえあれば、槇は自由になれるはず……!!  完成したばかりの試作品を白衣のポケットに収め、着替えもせずに駆け出した。  向かう先は槇の自宅だ。このネックガードを、すぐさま槇に試して欲しい。  槇のために重ねてきた努力の結晶を握りしめる僕の目は、きっとキラキラと輝いているに違いない。     + + 「た……樹基? なんなんだよ急に」 「はぁ……はぁ……ごめん、夜遅くに……」 「何の用だよ。俺は勉強で忙しいんだ」 「いや、そこをなんとか! 話だけでも聞いてほしい! いや、話だけじゃダメだ! 試してもらいたいものがあるんだよ!」  美山さんとの実験を終えたその足で、僕は槇の家へやってきた。  細く開けられたドアの隙間にぐいぐい顔を押し込もうとする僕に、槇が完全に引いている。しばらく「帰れ」「帰らない」の押し問答が続いたが、先に折れたのは槇だった。「なんなんだよ気持ち悪いな」という悲しいコメントとともに、なんとか家に入れてもらえた。  久々に訪れた冬月邸は、なんだかとてもしんとしていた。いつもなら一番に出迎えてくれる槇の母親も不在のようだ。  リビングを通り抜け、一階の奥にある槇の部屋へと通される。数年ぶりに入った槇の部屋は整理整頓が行き届き、大人びた雰囲気に塗り替えられていた。  なんだろう、ふわふわと甘くて心地のいい香りもする。僕は落ち着かない気持ちを抱えつつ、部屋の中央に敷かれたラグマットの上に腰を下ろした。 「おばさんたちは?」 「母さんの従兄弟の結婚式があるんだ。明後日まで帰らない」 「そう。槇は行かないのか?」 「行けるわけないだろ。受験もあるし、それに……」  ちら、と腕にはめたスマートウォッチに目を落とし、槇は言葉を濁した。そう、抑制剤を飲むことができない槇は、自由に遠出をすることさえ難しい。  槇の第一志望は国内トップレベルの医学部だ。志望校のレベルを落とすべきだと教師に言われたらしいが、槇は何度でも受かるまで挑戦するつもりでいるらしいと、母親づてに聞いたことがある。  僕は医師になりたいという槇の夢を叶える手助けがしたい。  このネックガードがあれば、槇はもうヒートに怯えて暮らすこともなくなるだろう。受験だってきっと余裕だ。願いを込めて、僕はポケットの中にある試作品をそっと押さえた。  すると、コーヒーの入ったマグカップをふたつ手にして戻ってきた槇が、訝しげな表情で僕を見ている。 「で、なんで白衣?」 「ああ……実は、ずっと研究開発をすすめていたものがあって、それがようやく形になったんだ」 「ふーん、何作ったの」 「これなんだが……!」  さして僕の作ったものになど関心もなさそうな様子の槇の前に、僕は両手でネックガードを差し出した。  僕の掌の上に乗った黒いネックガードを見て、槇はさらに謎を深めたような顔をしている。 「これを、槇のために開発した」 「俺のため?」 「このネックガードからは、僕が開発した『抗オメガフェロモン』が分泌される。抑制剤を飲まなくても、ヒートを抑えることができるんだ」 「え……っ」 「ついにプロトタイプが完成したんだ。これを、どうしても槇に試してほしくて……!!」  足掛け三年、ようやく形になった槇への贈り物だ。槇のことだけを考えながら研究を重ね、学び、実験を繰り返し、何度も失敗しながらここまで作り上げたものだ——……と、熱い気持ちを込めながら、僕は早口に槇に説明した。  すると槇は、ちょっと呆気に取られたような、拍子抜けしたような困惑顔をしている。 「あ、えーと。……お前、ずっとこれ作ってたの?」 「そうだが」 「中学の時から?」 「ああ」 「俺のために?」 「そうだ。槇が苦しまずに生活できるようにと、それだけを願って、作った」  僕は力強く頷いた。すると、当惑顔をしていた槇の頬が、じわじわと赤くに染まり始める。  潤んで艶を帯びてゆく槇の眼差しを前に、僕の胸は破れ弾けてしまいそうなほどに激しく拍動していた。 「……ありがとう」 「い、いや……うん……」 「でも、まだ俺に合うか試してないだろ。……つけてみてよ」 「……ああ、そうだな」  槇は唇を引き結んだまま、自らのネックガードをそっと外した。  白く頼りない首筋が目の前で露わにされるというこの状況は、色恋にまるで縁のない生活を送ってきた僕にとってはあまりにも刺激が強かった。……が、ここでうろたえて鼻血などを噴いてしまうわけにはいかない。僕は頭の中で小難しい数式を念仏のように唱えながら、槇の首へネックガードを装着する。情けないほどに手が震えた。 「……ん」 「あっ……すまない」  喉仏の下で留め金を押さえたとき、指先が少し槇の肌に触れてしまった。やわらかく脈打つ槇の肌は想像していたものよりもずっとなめらかで、熱い。触れた時間などコンマ数秒程度のものなのに妙な興奮が込み上げてきて、指先からも火を噴いてしまいそうだった。  ほっそりとした首に、僕が作り上げたネックガードはぴったりだった。デザインなどまだあったものではなく、ただの黒いチョーカー状のものだが、槇の美しさを持ってすれば、そんな無骨なものでさえもとても上品に見える。 「……ここから、そのなんとかフェロモンが出るってこと?」 「そうだ。ちなみに、この留め金のところに仕掛けがあるんだ」 「へぇ」 「ここで常時オメガフェロモンの値を計測し、上昇する傾向が見られたときは『抗オメガフェロモン』の放出量が増えるようになってる。だから、自分で微調整する必要はない」 「すご……。樹基って、意外とすごかったんだな」  ——……は、はじめて槇にほめられた……!  一応幼馴染みだが、小さい頃は勉強もスポーツもなにひとつ敵わなかったし、中学以降はツンケンされるか近づきすぎて怒られるばかりだった。それが今、初めて槇が褒めてくれた。  あまりに嬉しくて、嬉しすぎて、どういう顔をすればいいのか皆目見当がつかない。だが、このまま硬直しているわけにもいかず、僕は一言「意外とは余計だろ」と、喉の奥から絞り出す。 「どうだ、効いてるか? 俺、実はもうすぐヒートなんだ。だから結婚式にも同行できなくて」 「そ、そうなのか……?」 「でも、樹基が作ってくれたこれがあるなら、平気だろ?」  どうだ? とばかりに、笑顔の槇が僕に身を寄せてくる。  槇の笑顔を見たのはいつぶりだ? その上、こんなにも親しげな態度をとってくれるなんて最高に嬉しい。あまりにも幸せで、全身の震えが止まらなかった。  だが、このネックガードはまだプロトタイプだ。しっかりと効果のほどを確認しなくてはいけない……!  というわけで、僕は喜びに打ち震える身体をなんとか宥めた。オメガフェロモンがもっとも濃密に香るのはうなじのあたり。そこを目指して、ゆっくり鼻先を近づけてゆく……。  そして、すんすんと鼻をひくつかせ、すぅ~……と深く匂いを吸い込む。

ともだちにシェアしよう!