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第5話

「…………甘くて、めちゃくちゃいい匂いがする……」 「え? なんだよそれ。効いてないってこと?」 「い、いや、そんなはずはない。だって、ついさっきの被験者からはオメガフェロモンを一切検知しなかったし何も匂わなかった」 「……は? お前、他のオメガにもこんなことやってんの?」 「? こんなことって?」 「こ……こうやって、匂いかいだり、とか」  首筋の匂いを嗅いでいたから、僕らはさっきからぐっと近い距離感のままだ。距離にして約十センチ、この近さで上目遣いに槇から睨まれてしまい、心臓がドッックッンン! と挙動不審な動きをした。 「し、してないよ!! センサーとかでこう、なんかほら、こういう線でつないで、いろいろデータとっただけで!」  動揺しすぎて語彙力が著しく低下してしまった。そのせいか、さらに槇の視線が鋭くなる。 「……ほんとかよ」 「ほっ、本当だよ!」 「ふーん。……で、まだ匂うの? 俺」 「そ、そうだな、少し時間も経ったし、もう一度確認させてもらう」  改めて槇の首筋に鼻を寄せ、すぅぅ〜〜〜〜……と、さらに深く匂いを吸い込む。  甘い花の蜜のような香りが僕の鼻腔いっぱいに広がって、脳みそが溶けてしまいそう。……ああ、あまりにもいい香りだ。しかも、さっきから胸のドキドキが治らない。  これまで以上に槇のことを可愛いと思うし、こんなにも近くにいるから、触れていなくても槇の体温をほのかに感じる。  僕を見つめる潤んだ瞳、赤らんだ頬、少し困ったような表情……昔からずっと可愛いと思っていた槇のすべてが、愛おしくてたまらなかった。 「……めまいがするくらい、かわいい……」 「は?」 「あっ!! じゃなくて……!! い、いいにおいがする……」 「えぇ? それってやっぱ効いてないってことじゃん」 「そんなはずはない! ……ない、はずだけど……」  うまくいくはずなのに、何故——……当惑する僕の脳裡に、ふと閃くものがあった。  それは、三岡さんがついさっき口にしていた、『アルファは惚れたオメガの匂いを甘く感じる』という台詞で……。 「そうか、僕が嗅ぐからいけないんだ。僕は槇のことが好きだから」 「…………はっ……? す、すき……?」 「ああ。僕は槇に惚れているから、槇の匂いを敏感に感じ取ってしまうんだと思う。……つまり、僕が相手では『抗オメガフェロモン』が効いているのかどうか判断がつかない。ああ、こんな単純なことに気づけなかったなんて」 「ちょっ……!! ちょっと待て、ちょっと待て」    ……ん? どうしたんだろう。  さっきよりもずっと、槇が真っ赤な顔をしている。 「あ……あのさ。樹基……俺のこと好きなの?」 「ああ、好きだ。幼い頃から、ずっと好きだった」 「え!? ……えぇ……!? そ、そうだったのか……?」 「だからこそ、槇の抑制剤アレルギーは僕がなんとかしてやりたいと思っていた。槇は、もっともっと幸せになるべきだから」 「……へ……」  槇が好きだから助けたい。この僕の手で、槇が自由に笑って過ごせる未来を作りたい——そう思って、この三年を研究に費やしてきた。  槇が微妙な距離感でうろつく僕を気持ち悪いと思おうが、僕に苛立ちを感じようが、それは大した問題ではない。僕はただ、大好きな槇の力になりたかった。  僕にとっては自明の理。……だが、どうしたのだろう。槇がまた、目を潤ませて怒ったような顔をしている。 「……お、お前なぁ! そういうことを真顔でサラッと言うなよ!! て、ていうか、もっと早く言えよ……!!」 「えっ? ……い、いやでも。槇は僕を気持ち悪いと思っていただろう? 自分でもわかるんだ、僕は根暗でスケベで気持ちの悪いアルファだから……」 「思ってない!! そんなこと思ってないよ!! ……ただ、ただ俺は……っ!」  ぐ、と槇に胸ぐらを掴まれる。槇の華奢な指先は震えていて、なんだか無性にいじらしい。  その手を握りしめてもいいものかどうか、あいにく僕には判断がつかなかった。だが槇はさらに強く僕の襟首を締め上げてくる。 「く、くるしいよ……槇……」 「……何なんだよそれ……っ。普段は全っ然キマらないくせに、俺を守るとか僕が何とかするから待ってろとか、たまに現れてカッコつけたこと言うくせに、俺に手のひとつも出してこないで……!」 「手っ!? て、手なんか出せるわけないだろ!」 「なんでだよ!! 出せよ! 出してこいよ!! 俺は……お前が待ってろっていう意味を、てっきり……」  ふと、槇の手から力が抜ける。そのままストンと落ちていきそうになる槇の手を、僕は咄嗟に両手で包み込んだ。  僕の骨張った手の中に、槇のほっそりとした手が包み込まれている。その手の熱ささえも愛おしく、僕はきゅ、と力を込めて握り込む。 「……てっきり、何だ。僕が何をすると思っていたんだ」 「それは……」 「はっきり言ってくれ。僕はにぶいから、はっきり言葉にしてもらわないとわからないよ」 「……そうだよな。樹基だもんな」  なにか憑きものが落ちたように、槇はふっと無防備な笑みをこぼす。そして、麗しいくるみ色の瞳で僕を見上げた。 「待ってたら……樹基が俺を番にしてくれるのかな……って思ってた」 「つ…………つがい、に……?」 「だって、そうすれば手っ取り早いだろ。番になれば、俺のフェロモンに反応するアルファはお前だけだ。俺は堂々と外を歩けるようになるだろ?」 「あっ!? なっ、なるほど!! その手があったか……!!」 「ふっ……なんだよ、今気づいたの?」  間の抜けた顔をしている僕に、槇は白い歯を見せて笑った。曇り空がきれいに晴れて、そこから眩しい太陽が顔をのぞかせるような——……明るく、美しい笑顔。 「うん、今気づいた。……そんな簡単な方法があったのかって」 「まぁ、そういうとこが樹基らしいけどさ」 「ということはつまり……槇も僕のことを好きだということで、そ、相違ないだろうか?」  ——とどのつまり、そういうことだろう。そういうことであっているよな? さっきから脳みそがお花畑になったような感じで、あまり難しいことが考えられないけど、槇の言いたいことはつまり、そういうことだよな……?  ドキドキドキと激しく鼓動する心臓があまりにもうるさい。  震え声で確認を取ろうとする僕を見上げて、槇はしばらく、いたずらっぽい微笑みを浮かべたまま黙っている。槇の手を握る手が、ぶるぶると震えた。  沈黙に耐えられなくなってきた頃、槇は弾けるような明るい笑顔で大きく頷いた。 「そうだよ! 俺も樹基のこと、ずっと好きだったよ!」 「そっ……そうだったのか。うわぁ……」 「あははっ……ははっ……俺、自分が情けなくて笑えてくる」 「な、情けないって、なんで……!?」 「だって、俺はただお前からの告白を待ってるだけ。でも、お前はこんなすごいもん作ってたんだぞ?」 「いや……それ以外、思いつかなかったんだ」 「すごいよ、ほんと。俺も……変な意地張らずに、さっさとお前に告白する勇気が持てたらよかったのに」  槇は寂しげに微笑んで、握り合ったふたりの手に目を落とした。 「お前の気持ち、わかんなくて」 「……よく言われる」 「樹基は優しいから、俺が告白してもつっぱねたりしないかもしれない。けど、俺なんかに無理に付き合わせるわけにはいかないよなって……」 「槇」  こらえきれなくなった僕は、槇の身体を正面から抱きしめる。  そして熱を持った桃色の耳元で、きっぱりとこう告げた。 「俺なんか、なんて言わないでくれ」 「……」 「アレルギー体質がなんだ。槇はじゅうぶん頑張ってきた。自分を卑下するのはもうやめろ」  すっぽりと僕の腕の中に収まった槇が、小さく頷くのがわかった。珍しく素直な反応を見せる槇の華奢な身体と確かなぬくもりが愛おしく、可愛らしくてたまらない。 「……ってことはさ、樹基」 「ん?」 「お前の前じゃ……これ、必要ないってこと?」 「そういうことになる……のかな」 「せっかく作ってくれたのにな」 「いいさ。アレルギーで困っている人は槇以外にもきっといる。それに、不規則なヒートに悩む人たちにとっても、このネックガードは助けになるはずだ。オメガの人々の選択肢が増える」 「……ほんっと、すごすぎ。天才じゃん」  ……どうしよう、また褒められてしまった。想いが通じた喜びとともに誉められた嬉しさが腹の奥から込み上げて、目の奥がつーんと痛む。  何も言わずにふるふる震えていると、腕の中で槇がもぞりとみじろぎし、僕を顔を上げて微笑んだ。 「……あと、気になってたんだけどさ」 「な、なんだ?」 「さっきから、硬いものが当たってる」 「硬いも…………あっ……!! ご、ごめん……!! そういうつもりじゃ……!!」  そう、さっきから僕は、槇のフェロモンに影響を受けまくっている。  真面目な話をしている最中だというのに、すっかり股間が膨張してしまっている。いたたまれなくなった僕は槇からそっと手を離し、額を押さえて天を仰いだ。 「……ごめん。槇が可愛すぎて、どうにもならない」 「ヒートも近いから、フェロモン値も高かったしな。……こっちこそごめん」 「いや……。けど、このままここにいたら、僕はきっと槇にとんでもないことをしてしまいそうな気がする。だから、帰るよ」  槇の甘い香りに包まれていると、肌をくすぐられるような心地よさとともに、身体の内側からじわじわと興奮が高まってゆくのがわかる。今だって、制服のスラックスの中ではちきれんばかりに膨らんだ性器が布に擦れるだけで、変な声が漏れてしまいそうになるくらいだ。  槇を襲いかねない危険な状態だ。なので僕は、今すぐこの場を離れなくてはならない。  だが、立ち上がった僕の手首を、槇がしっかりと掴んでいる。  恐る恐る槇のほうを振り向いてみると、潤んだ可憐な瞳で僕を見上げる槇が、少し震える声でこう言った。 「……帰らなくていい」 「え」 「言ったろ、ヒートが近いって。……つらいんだ、正直。ひとりでヒートをやり過ごすのって」 「う、うん、うん……うん、うん」  全く想定していなかった状況である。色恋に不慣れも不慣れな童貞である僕は、壊れた赤べこのようにこくこくと頷くことしかできなかった。  すると、槇は焦れたように僕の手を強く握り締めた。 「だから……帰んないでよ」  僕を見つめる眼差しはあまりにも艶っぽく、心臓が弾け飛びそうなほどに槇が可愛い。この淫らさを含んだ切なげな表情の意味を、さすがの僕も理解している。理解できているはずだ。……だが、確認しておかねば気が済まない。  槇が嫌がるようなことを、僕は絶対にしたくはないからだ。 「それはつまり、僕は……僕は槇に触れてもいい……ということで、相違ないか?」 「ふはっ……ここまできて確認取る?」  すると槇は、悪戯っぽい笑みを浮かべて、艶めいた唇でこう言った。 「相違ない」と。

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