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第6話 恋に臆病な僕らのリスタート(1)
「実は……昨日からずっと考えてたことがあって――俺、ウリの仕事辞めようと思うんだ」
その言葉を聞いたとき、隆之の頭は真っ白になった。
「どうして?」「辞めたあとはどうするんだ?」――疑問が駆け巡るものの、どれもこれもが言葉にならない。まるで別れを切り出されたような気分になり、隆之は呆然としてしまう。
対するナツは笑っていた。
「なにもすぐ辞めるわけじゃないよ。……だからね? 卒業までにまた指名してよ。そんで、最後に楽しい思い出つくろっ?」
無理矢理作ったとわかる、ぎこちない笑みでニコニコと。当然、隆之は胸のざわつきを覚えたけれど、今は何を言っても彼の心に届きそうになかった。
◇
隆之がナツを指名したのは、それから二週間後。ちょうどナツが『Oasis』を卒業する日だった。
「隆之さんっ、お待たせ!」
昼過ぎに駅前で待っていると、いつものようにナツが小走りで駆け寄ってきた。そのままの勢いで抱きついてくる。
「ちょっ」
「へへ、会いたかったあ。最終日にこうして会えるなんて嬉しすぎるよ~っ」
「そりゃあ、できることならば……と思って」
「わざわざ電話で問い合わせてくれたんだもんねぇ? しかも、貸切コースだなんて」
「くっ……」
ホームページ上では一週間分の出勤予定しか掲載されておらず、どう予約したらいいかわからなかったため、早々に直接電話で問い合わせたのだ。
最終日に貸切――理由など言うまでもない。今日一日は誰にも邪魔されずに過ごしたかった、大人げない独占欲である。
「そんなに俺のこと、独り占めしたかった?」
「……そうだよ。君を独り占めしたくて堪らなかった」
「へ?」
先ほどまでイタズラっぽく笑っていたというのに、ナツは不意打ちを食らって目を丸くしている。そっと身を離しながらも赤面していくのがわかった。
「隆之さんって、そんなこと言う人だっけ。キャラ違くね?」
「たまにはいいだろ」
隆之は照れ隠しするように咳払いをし、ナツの手を取る。そうして二人は、最後の時間を楽しむべく歩き出した。
「買い物に付き合ってほしい」と最初に向かったのは、ハイブランドのスーツ店だった。
重厚なガラス扉をゆっくりと開き、ナツとともに店内へ足を踏み入れる。
フロアは落ち着きある雰囲気で、モダンなシャンデリアが煌々と輝いていた。洗練された商品の数々もさることながら、それを引き立てるようなディスプレイも美しい。
「すみません。スーツ一式、見繕っていただきたいのですが」早速、隆之は女性店員に声をかけた。
「ご用途は何でしょうか?」
「ビジネスです」
「かしこまりました。まずはサイズを測らせていただきますね」
「はい、お願いします」
と、ナツの背を押す。ナツは小さく「んっ?」と声を上げた。
「ちょっと待ってよ、なんで俺? 隆之さんのスーツ買うんじゃねーの?」
「今までの感謝を込めて、プレゼントを贈りたいと思ってさ。これから必要になってくるだろ?」
「でもスーツなら、入学式のとき親に買ってもらったし――ちょっと値段が……今日のデートにしたって、貸切で安くないお金払ってるのに」
ナツが隆之にしか聞こえない声でぼそぼそ呟いた。
オーダーメイドではなく既製品を扱っているとはいえ、量販店のものとは明らかに価格が異なる。しかし、構わずに隆之は言った。
「こういったのも持っていた方がいい。近い将来、自分でも『よかった』って思える日が来るさ」
そう言って店員に目配せすると、彼女は微笑んでメジャーを手に取った。首回り、裄丈、肩幅、ウエスト……と、手際よく採寸し、カラーリングの好みなどいくつかの質疑応答が交わされていく。
ナツは終始落ち着かない様子だったが、全身を一通り見繕ってもらい、候補が定まったところでフィッティングルームに通された。
隆之はその前で待機する。やがて、カーテンがシャッと音を立てて開かれた。
「どっかなあ?」
おずおずと現れたナツの姿に思わず息を呑む。
爽やかな印象を持つ濃紺のスーツに、定番の白無地シャツ。襟元にはストライプの赤いネクタイを結び、黒の内羽根ストレートチップを履きこなしている。全体的にタイトなシルエットで、若々しいすっきりとした見た目だ。
「いいじゃないか、よく似合っているよ。着心地はどうだ?」
「軽いし、フィット感あって動きやすい――んだけどさ、マジでいーの?」
ナツが申し訳なさそうに訊ねてくる。隆之はふっと苦笑を浮かべた。
「金に関しては特に心配はいらない、って前にも言っただろ? それとも、こういったのはちょっと重いんだろうか」
「えっ、いや大丈夫だよ! 他のお客さんからもいろいろとプレゼントは貰ってたりするしっ」
「なら、俺からも贈らせてくれ。……元はといえば結婚資金だったんだ。使い道がなくなったぶん、有意義に使わせてくれないか?」
「………………」
ナツが黙ったままこちらを見つめてくる。何か言いたげにしているものの、うまく言葉にならないのか、唇を開いては閉じてを繰り返していた。ややあって、ぽつりと漏らす。
「ありがとう、隆之さん――卒業後の『俺』のこと考えてくれて。ハハッなんかもう嬉しすぎてやばい」
いつもとはまた違った、はにかんだ笑顔を見せるナツ。
他のフィッティング対応をしていた店員が戻ってくると、肩回りや裾を見てもらい、直しは後日ということで商品の配送を頼んだ。
店をあとにしてからは、映画を観たり、レストランで食事をしたり……と、デートらしいデートを楽しむ。二人で過ごす時間はあっという間に過ぎ去り、気づけば街の景色がネオンで明るく彩られていた。
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