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38 頑張れ、天音
「俺、エントランスで待ってるわ」
「ああ」
手を差し出してくるヒデに鍵を取り出して渡すと、天音を見向きもせずに通り過ぎてエントランスをくぐって行った。
そうか。よく考えたら、俺はヒデに憎まれ役を頼んだことになるんだな。自分のことでいっぱいいっぱいでそこまで考えが及ばなかった。申し訳ないことをした……。
気まずくて天音に近寄ることができずにいると、天音のほうからそばに寄って来た。
「冬磨……なんでだよ。今日の約束は俺とだろ?」
天音の顔はいつも通り無表情だったが、わずかに強ばっているように感じる。
「……お前、もう来ないと思って。ほか呼んじゃったわ」
「な、んで……」
「天音……昨日、ごめん。あんま覚えてねぇんだけど、ひどくした事はなんとなく覚えてる。お前を絶対傷つけないって約束したのに、ほんと……ごめん」
頭を下げて何度もごめんと繰り返した。
本当にごめん……天音……。
「俺、なんも傷ついてねぇし。もう来ないとか勝手に決めんなよ」
はっきり思い出せないとはいえ、昨日は相当ひどい抱き方だったはずだ。
それなのに天音の口調は柔らかくて、少しも俺を責める感じがない。
天音の優しさが心にしみる。ありがとう、天音。
好きな男がいるのに、俺なんかがゴムもなしにお前を抱いたりして……ほんとごめん。
ちゃんとお前を手放すから。だから許してくれ……。
「でもさ、天音」
下げた頭をゆっくりと上げて、優しく天音を見る。
「お前、ちゃんと本命いんじゃん」
「……えっ」
「もうフラフラしてねぇでちゃんとしろよ」
天音の頭をくしゃっと撫でて笑いかけた。
本当は、ちゃんと嫌われるようなことが言えればいいんだけどな……。
それができないチキンな男でごめんな……。
「冬磨、なに……言ってんの?」
「お前、今週びっちり昨日の奴んとこ行ってたろ」
天音はわずかに目を見開いた。
「悪い。先週お前が俺ん家出てったあと、窓から見てたんだわ。そしたら向かいのアパートに入ってくからびっくりしてさ。お前ん家か? って思ったけど、いやそんなわけねぇよなって。すげぇ気になって。だから、テレビ観ながら毎日なんとなく窓眺めてた。昨日の奴ん家だったんだな」
めずらしく天音が動揺しているように見えた。
「本命なんかじゃねぇよ」
いつも無表情で動じない天音が、めずらしく動揺してる。もうそれが答えだろ。
「天音。素直になれって。俺、お前の笑顔すげぇ可愛いって言ったじゃん?」
「……それが、なに」
「あいつの前だとお前、すげぇいい笑顔だったよ。あんなん見たことねぇからマジでびっくりした。あいつの前ならちゃんと笑えんじゃん」
「そ……れはっ」
「だからさ。もうこんなことやめて、ちゃんとしろ。あいつだけにしろよ。素直になって、ちゃんと幸せになんな。天音」
な? と笑って、天音の髪の毛がくしゃくしゃになるくらい撫で回した。
「お前はもう、俺みたいなゲスの相手なんてすんな」
お前と約束があってもほかのセフレを呼んじゃうような男だ。ゲスだろ? だから俺なんか見限れよ。
きっとお前が素直になれば幸せになれるから。あいつも絶対天音が好きだよ。
「ぉ……俺は、誰も好きにならないって言っただろ」
天音がかすかに声を震わせた。
好きな気持ちをまぎらわすためのセフレなのかと思ったが、もしかするとまだ好きだと自覚もないのかもな。
それに無自覚かな。あの男の話になると天音の感情が豊かになる。
あんなに期待していた天音の感情の変化は、あの男にかかるとこんなにも簡単なのか。ほんと俺、完敗じゃん。
「そっか。まだ自分で気づいてないんだな。ちゃんと自分の気持ちに向き合ってみろって。毎日会いたくて、いっぱい笑顔になれるのはなぜなのか、ちゃんと考えてみな」
俺の言葉を天音が聞き逃さないように、ゆっくりと言い聞かせるように伝えた。
早く自分の気持ちに気づけよ。きっとあの男も待ってるから。
お前が笑顔になれる男と、ちゃんと幸せになれ。
「頑張れ、天音」
お前のためなら俺は喜んで身を引くよ。
だから頑張れ、天音。
大好きだよ……天音。
俺をこんなに幸せにしてくれて、本当にありがとな。
「じゃあな。元気でな、天音」
最後に天音の頭にポンと手を乗せ、天音の横を通り過ぎた。
ヒデに来てもらって正解だった。もう追いかけたい。ほんと情けない……。
振り返りたい気持ちを押し殺し、まっすぐマンションの入り口を目指す。
ガラス越しに、ソファに座るヒデと目が合った。
たぶん今、ものすごく情けない顔をしてるだろう。でも、表情を取り繕う余裕もない。
するとそのとき、俺の前に立ちふさがるように駆け寄ってきた天音が、胸を力強く押してきた。
「違ぇしっ!!」
俺に向かって天音が怒鳴る。
「勝手に誤解してんじゃねぇよっ!!」
こんなに感情をむき出しにする天音を初めて見て、俺は動揺した。
「勝手に勘違いして勝手に切んなよっ!!」
そう叫んだ瞬間に天音の目から涙がこぼれ落ちた。
「あ……天音」
どうして泣いてるんだよ、どうしたんだお前。
前に俺が切ると言ったときは簡単に受け入れただろ。
てっきり今回もそうなると思ってた。
天音の叫びと涙に戸惑い、頭が真っ白になる。
何を言えばいいのか、どうすればいいのか全く分からず、ただ愕然と立ちつくした。
天音が、手にしていた袋を俺の胸に投げつけ、泣きながら走り去って行く。
ちょっと待て。いったい何が起こった……?
予想していた展開とあまりに違いすぎて、自分が取るべき行動を見失った。
天音はどうして泣いた?
どうしてあんなに怒った?
俺と終わるのが嫌だった……のか?
どうして……。
嘘だろ……?
今からでも追いかけようかと足を向けたとき、昨日の天音を思い出した。天使のような日だまりの笑顔を。頬を染めてあの男を見る可愛い天音を。
そうだ。あれが全てだ。
たとえ俺と終わるのが嫌だと思っても、それはただのセフレ枠だろ。
約束をドタキャンしてヒデまで連れてきて急に関係を終わらせたから、怒りで興奮して泣いたんだろう。あの涙に深い意味はない。
また勘違いしそうになった。バカだな……。
ごめんな、天音。お前を泣かせて本当にごめん。
でも、俺はお前の幸せを願ってるよ。
天音が投げつけた袋を拾い上げる。
中を見るとプリンが二つ。一つは中身が少し飛び出していた。
手土産にプリンって……可愛いな、天音。
ただのセフレなのに、一緒にプリンを食べようと思った天音が可愛くて、目頭が熱くなった。
プリン、一緒に食べたかったな……。
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