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「さぁな、俺にも知らない」 適当にはぐらかして、溜まりに溜まっている食器類を洗うことに専念した。 「⋯⋯知らないのなら、仕方ないけど」 何か言いたげであったが、そこで話は終わり、黙々と作業をしていた時だ。 ポケットに入れていた携帯端末が震えた。 すぐさま作業を中断し、泡がついたままの手で取り、画面を見た。 『愛賀』 そう登録した相手を見た瞬間、一気に吐き気に近い緊張がした。 この電話はきっと⋯⋯。 「小野河君?」 声を掛けられたことによりハッとした俊我は、「皿洗い頼む」と言い残して、外へと繋がる裏口へと駆け出した。 誰もいないことを見渡した後、応答ボタンをタップした。 「愛──」 『ねぇ、俊我、さん⋯⋯っ、痛い⋯⋯怖い⋯⋯っ。早く、帰ってきてっ』 痛みに耐えながら必死になって言う愛賀の声が現実味を帯びた。 陣痛が始まってしまったんだ。産まれてきてしまうんだ。 頭の中が真っ白になりかけている俊我に、涙声で訴える愛賀の声を遠ざけると、電話を切った。 今すぐにでも帰って、愛賀のことを安心させてやりたい。 頭を振って、病院に手短に伝えると即座に切り、持っていた携帯端末を投げ捨てた。 「⋯⋯クソッ」 苛立ちを地面にぶつけた。 すぐに駆けつけると言った救急隊員が来るまでの間、愛賀は不安で仕方ないはずだ。寂しいはずだ。 そんな輩よりも俊我の方が負の感情を払拭してくれて、断然安心なはずだ。 そんなことは分かりきっている。けれども、できるわけがなかった。 愛賀が無事に出産した暁には、子どもを取り上げて、別れなければならない。だから、今からでも少しでも距離を置かなければならないのだから。 愛賀への想いを切らなければならない。 できるわけがないだろう。 断ち切れない想いとしなければならない使命感とで、頭の中が色んな感情で混ざり合い、むしゃくしゃとなった俊我は一人、夜の裏路地で葛藤し続けたのであった。

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