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第3話「穏やかで特別な世界」
子どもの頃から、写真を撮るのが好きだった。
小さな手に握った、父の黒いカメラ。幼い子どもには不釣り合いの大きさのそれを、持ち主の父より巧みに使いこなしていた。
四角く切り取られたその空間は、まるで、自分だけの、特別な世界のようで、それが好きだった。
「……いらっしゃい、銀河 」
「こんにちは」
はじめて食事をしてから、早二ヶ月。酷暑の夏はやや落ち着いて、暑さを楽しめる程になった。恋糸 は、いつの間にか銀河のことを馴れ馴れしく呼ぶようになり、銀河も、慣れた様子で恋糸の家に上がり込むようになっていた。
「銀河、あのいつもの運転手さんにちゃんとお礼とかしてるかー?」
「何のですか」
「お前、無理言って働かせてもらってるんだろ? 周りにもありがとうって言わなきゃ」
「……コーヒーとか、よく買ってるス」
「そか。やってんならいいんだよ。偉いな」
恋糸はベッドに転がり、借りてきたばかりの漫画を開いた。
一方銀河は、机とベッドの隙間に座り、一枚ずつ、じっくりと写真を眺めていた。彼は、あの食事以来、毎日のようにここへ来て、恋糸の部屋をひっくり返すようにして写真を探しては、それらを何時間も眺めていた。
そんなことのどこが楽しいのか、恋糸には理解できなかったが、その背中が楽しそうに揺れているところを見ると、心が落ち着いた。
「銀河はさ、写真とか見るの好きなの?」
「……いや、それもありますけど……。なんか俺は……恋糸さんの写真の感じが好きで……」
「へー」
恋糸は、ベッドの上に寝そべり、肘をついて銀河を見下ろした。
しばらくの間、二人は無言だった。銀河は黙々と写真と向き合っていたし、恋糸はそれをじっと見つめていたからだ。
数十分後、銀河が突然、満足そうに机を叩いて振り返った。
「どうスか、いい感じでしょ」
銀河は、大きく開いたアルバムを手に持っていた。黒い背景に、恋糸が昔撮った写真が並べられている。規律正しく並んだ写真には、几帳面な彼の性格がよく出ていた。
「……まだまだだな」
肘をついたまま、恋糸はそれを鼻で笑った。銀河はむっとして、アルバムを机の上に放り出す。
「……やめたス」
「あはっ、また辞めた。銀河はヤメヤメ男だなぁ」
「次のページは唸らせてやるス」
銀河はそう言いながら、机の上に散らばっていた写真を回収した。
このアルバム作りは、銀河が遊びに来るようになってから一週間の内には始まっていた。ペースは、一度の訪問につき、一ページ。これまで一度も、それが変わったことはない。何故毎回一ページなのかは分からないが、楽しそうなのを見るに、恋糸がダメ出しをするからではないようだ。どうやら、比較的のんびり屋の銀河は、何かを創り上げるということにおいても、ゆっくり進めるのが好きらしい。
恋糸は、机の上に放り出されたアルバムに手を伸ばし、パタパタと雑にページをめくった。
「……ふーん、もー終わっちゃうじゃん」
「新しいの買ってください」
「えー……銀河が勝手にやってるんでしょー……」
「だって良い写真だから。眠らせるのはもったいない」
恋糸は、アルバムから手を離すと、枕に頭を埋めた。銀河に抗議するように、足をふたふたと動かす。
「……てか、銀河がいくら頑張って綺麗に並べたって、俺は唸らないよー。写真がダメだもん」
恋糸はベッドの上から腕を伸ばし、銀河にアルバムを見せながら話し始めた。
「……ほら、これとか、ちっともだめ。ものが多くて、もうメインが何なのか分からないでしょ」
「いいじゃないスか、かっこいいし」
「だめだめ」
恋糸はアルバムを放り出し、ベッドに突っ伏す。
「……駄目なとこばっかりなんだから」
そう言うと、銀河が、恋糸のほうを振り向いた。
「…………じゃあ、改善した写真ください」
「……そんなのないよ」
「今から撮ればいいじゃないスか」
「撮れねんだよ」
恋糸の声は少し鋭く、銀河はびくっと小さく肩を竦めた。恋糸ははっとして、誤魔化すように銀河の頭を撫でる。
「…………撮れないの。もう、俺は」
「……けど」
恋糸は銀河に背を向け、ベッドの上で丸くなった。もう、何も聞くつもりはなかった。
「こんなに楽しそうなのに」
「……うるせー。ナマイキだ、ばか」
恋糸はきゅっと縮こまる。布団を頭まで被り、逃げるように目を閉じた。
青く美しい羽を揺らす蝶に導かれるようにして、恋糸はシャッターを切る。今この瞬間、この蝶は、自分だけのものになった。この美しいカラスアゲハは、この姿で、自分だけの世界の中を、永遠に生き続ける。
「……たかさきー、平先生が呼んでるよー」
「知ってるー」
恋糸はカメラを構えたまま、やる気のない声で答えた。
「ホントに大事な話なんだってー。早くおいでよ」
「分かってる! 先行ってろー」
もう一度、恋糸は同じ蝶に挑戦する。息を止め、狙いを定めて、シャッターを切る。
ひらりひらりと舞い踊る美しい蝶の、羽をすぼめた惨めな写真が撮れた。
「……今日うまくいかねー」
恋糸は、カメラから手を離し、口を尖らせて歩き出した。
大学も四年目になり、この頃の恋糸は、卒業制作に夢中だった。
卒業制作において、担当教授の富谷 から出された条件は、「最高傑作を作り出すこと」。この富谷という男のことを、恋糸は妙に気に入っていた。彼は静かで、好きも嫌いも良いも悪いも、まるで心の内に存在しないかのように見える、木のような男だ。しかし、恋糸の作品には異様に厳しく、今まで一枚も恋糸の写真を合格だと言ったことがない。訂正に次ぐ訂正。指摘からの批判。幼少期から今まで天才と呼ばれ続け、数々の賞を簡単に自分のものにしてきた恋糸は、この初めて出会った壁に、とにかく夢中だった。
「富谷先生が、先日お亡くなりになった」
だからこそ、小さな教室で、平 という教授から告げられたその言葉は、恋糸の心を強く殴りつけた。
「……富谷先生が……死んだ……?」
「そう……。だから君たちの卒業制作は、私が引き継ぐことになった」
隣で話を聞いていた、同じゼミの同級生が、小さな声で何か言い合っている。恋糸は驚きで何も言えず、瞬きもせずに遠くを見つめていた。
「……あの、平先生。就職の件ってどうなるんですか」
「ああ、それは……」
隣にいた女子学生と平の話を遮るように、恋糸は突然立ち上がった。ガタンと机と椅子が大きな音を立て、部屋にいた全員が恋糸を見た。
「……高崎?」
平が、小さな声で言った。
恋糸は荷物を持ち上げ、ふらふらと走り出した。扉を開け、その外へ出た後、自分が何をしていたかは思い出せない。気がついたときには自分の部屋にいて、いつも持ち歩いていたカメラには、富谷が使っていた部屋の写真が、大量におさめられていた。
恋糸は、ぼんやりとシャッターを切る。美しく、退屈な写真を、彼は何枚も撮る。
写真を撮れば、心はいくらか穏やかになった。均衡の取れた美しい風景を、静かに自分のものにする。目の前にあった壁がなくなった今、恋糸は、不完全燃焼の気持ちを抱えたままでいた。
「高崎。卒業制作とコンテストは絶対に出せ」
「……ださねーよ。この卒業制作は先生と俺のもんなんだから」
しつこく声をかけてくる平に、恋糸は無愛想な返事をする。心が乱れて、写真は崩れた。
「ああ、クソ……。やってらんねーよ……」
「コンテストと卒業制作、この二つだけはどっちも出さないと卒業できないんだぞ。卒業制作を出したくないなら、最悪卒業制作はテキトウでいい。だが、コンテストだけは……」
「だから、出さねーってば……」
「高崎!」
怒鳴られても、恋糸はカメラから目を逸らさない。平は恋糸の肩を掴み、強く揺さぶった。
「お前は天才だ。出せば必ず一位で卒業できるんだぞ!」
「怒鳴ったって俺は出さねーよ」
「調子に乗るな高崎!」
「あはっ。何そんなに怒ってんだよ? ……ああ、俺がコンテストで優勝すれば、今の担当のアンタにもいいことがありますもんね。研究費、上げてもらえるんでしたっけ」
恋糸の言葉に、平は固まった。彼は、怒りと、戸惑いとが入り混じった怖い顔をしていた。
「……いいですよ、出しても。……でも、賞は絶対に取れない」
恋糸は静かに微笑む。恋糸は、平を置いて歩き出した。
気が付けば、真っ白な板の前に、恋糸は立っていた。よく見ると、真っ白な板だと思っていたそれは、表面に真っ白な写真が貼ってある木の板だった。恋糸は突然、その写真を剥がさなければならないような気がした。しかし、写真に手を伸ばしたとき、自分の腕がぼろっと崩れ落ちた。それでも、恋糸はそれを剥がしたかった。恥ずかしさで胸が潰れそうで、崩れゆく片方の腕で、なんとか手を伸ばす。しかし、写真を剥がすより先に自分の両腕は消え、辺りから、突然拍手が上がった。感嘆する声と、冷ややかな目線が集まる。
「高崎」
大学時代、何度も聞いたあの声。それが、突然、背後からした。苦しくて、恥ずかしくて、恋糸は振り返れなかった。
「……恋糸さん、恋糸さん」
「ん、んー……?」
身体を揺さぶられて、恋糸は眉をひそめる。声の方向に身体を向け、うっすらと目を開くと、そこには銀河がいた。
「あー……銀河か……どした……?」
どうやら、眠ってしまっていたようだ。銀河が嫌な話をするせいで、嫌な夢を見てしまった。恋糸は目を擦りながら体をよじった。
「恋糸さん、俺もう帰ります。夜なんで」
「夜!?」
恋糸は飛び起きて携帯を見た。画面には、九時二十三分と表示されている。
「うわ、すごい寝てた。ごめんなー。暇だったでしょ」
「あ、いや……俺も寝てて」
「そうなの? 床で?」
「は、はい」
「痛かったでしょ。ごめんなー」
恋糸は立ち上がり、部屋のカーテンをしめた。
「……うわ、暗くなっちゃったなー……。送るよ。駅のコンビニで何か買ってあげる」
「え、いいです、そんな……」
「いいって、いいって。家にご飯ないんでしょ?」
恋糸はポケットに財布と携帯だけを突っ込み、すぐに玄関に向かった。夢のことを忘れるために、早く身体を動かしたかったのだ。
「いくよ、銀河」
その場から動かない銀河を、まだ遠慮しているのかと振り返る。しかし、予想に反して、彼は、何故かきょとんとした顔で恋糸を見つめていた。
「……恋糸さん」
銀河は、恋糸に向かって指をさす。
「写真撮ってくれるんですか?」
「……は?」
銀河の指は、恋糸の手元を指していた。恋糸は、ゆっくりと目線を下げる。
自分の手には、カメラが触れていた。玄関に置かれていたはずの、古いカメラ。それは、手の内で、当たり前のように光っていた。
「…………撮らねーよ。クセで持っちゃっただけ」
「そうスか」
恋糸は棚の上にカメラを戻すと、履き潰された靴を履いてから、銀河を振り返った。
「早くおいで、銀河」
「はい」
銀河は、不思議そうに首を傾げながらも、何もきかずに頷いた。
家から出ると、生ぬるい空気が身体を包んだ。たった数メートルほど歩いただけでも、汗をかいてしまうほどの熱気に、恋糸は眉をひそめた。
「銀河、家どの辺だっけ」
「……家まで来なくていいスよ、別に。子どもじゃないし」
「子どもだろ」
ポケットに手を突っ込んだまま、恋糸はくつくつと笑いながら言った。
「……けど、子どもに見えないでしょ。大丈夫スよ」
「いーや、顔見たら分かるよ。お前は声が大人びてて少し背が高いだけ」
銀河は恋糸の横に並び、不満げな目で彼を見た。
「でも、恋糸さんだって見間違えたじゃないスか」
「だって、お前ずっと下向いてただろー」
「……苦手なんス、人と喋んの」
そう言って、銀河は恋糸から目を逸らした。先程までは不満げにしていたのに、今度は落ち込んでいるように見える。
「……どしたよー」
「……もっと愛想があれば、もっと上手くいくんスかね」
「愛想ー? 銀河はそればっか言うなー。かまってちゃんか?」
銀河の瞼が伏せって、黒い瞳が隠された。恋糸はしまったと一瞬立ち止まる。銀河はどうやら、本気で自分のことを、愛想がないと思いこんでいるらしい。
「……あは、銀河くらいの頃はなー、なんか突然そうなるんだよな。大丈夫、大人になればな、ヘラヘラするのが恥ずかしくなくなるからさ」
「愛想って多分、そういうのじゃねス」
銀河は顔を上げ、すっと遠くを見つめた。その顔は妙に冷静で、聡く見えた。
「……あは、銀河かわいいのに」
恋糸は銀河の頬に手を伸ばす。恋糸は、銀河の頬を親指で引き伸ばすようになぞり、それから微笑んだ。
「銀河は無愛想じゃなくて不器用だと思うなー、俺」
柔らかく、少し荒れた頬。きょとんと丸い瞳は、真っ直ぐに恋糸を見ていた。
「……それで、俺にちょっと似てんの」
銀河は一つ瞬きをして、首を傾げた。
「……似てねスよ」
「んー? 俺が似てるって言ってんだから似てんだよー、ナマイキめー」
「いたいス」
恋糸が手を離すと、銀河は引っ張られていた頬を撫でながら文句を垂れた。
夜のコンビニは遠い。恋糸は、頭の中で、様々なことをたらたらと考えていた。
銀河といると、たまに、大学時代を思い出す。何故だか分からない。写真を褒められる喜びが、懐かしいからだろうか。
「……銀河、今度どっか行くか」
「え」
銀河が、ぱっと顔を上げた。その瞳がきらりと光ったのが、あまりにも愛おしくて、恋糸は笑った。
「どこでも連れて行ってやるよ。どこがいい?」
「どこでもいんスか」
「いいよ」
銀河は嬉しそうな顔で恋糸を見たが、すぐに、あ、と小さな声で呟いて大人しくなった。
「……でも、いいです……。俺、金ないし……」
「あはっ」
しょぼくれてしまった銀河に、恋糸は思わず吹き出した。
「『連れて行ってやる』って言っただろー? 全部俺が払うから。どこに行きたいんだ?」
「……なんでそんなことしてくれるんスか?」
「なんでだと思う?」
銀河は何度か瞬きを繰り返し、そして首を振った。
「分かんねス」
「……ヒマだからだよ」
銀河が、一瞬怪訝な顔をした。
「銀河といると、文化的に暇を紛らかせるからなー……」
恋糸はそう言って、頭の後ろに手を組んだ。
銀河といると、何もしなくても勝手に時が進む。それは、たったそれだけで、今の恋糸を救っていた。
「……俺は、恋糸さんといるの、楽しくているのに」
ふと、銀河がそう言った。
その言葉に、恋糸は目を瞬かせ、立ち止まって銀河を振り返った。
「恋糸さん、楽しくないスか……?」
恋糸は言葉を失った。
子どもとは、こんなにも純朴なものだっただろうか。いや、自分がこの年の頃、ここまでまっすぐ人と向き合っていただろうか。
「……ごめん銀河、言い方が悪かったな」
恋糸は苦笑して、銀河の頭を撫でた。
「変な冗談言って悪かった。俺も楽しいよ、銀河といるの。ホントのこと。お前といると、流れる時間が穏やかだから」
「……そスか」
銀河は、少しは安心できたのか、僅かに笑った。
コンビニに着くと、恋糸はカゴを持って銀河に続いた。銀河はスカスカのおにぎり棚を眺めながら、眉をひそめている。
恋糸は、その横顔が妙に気に入って、しばらくの間見入っていた。
「……なんスか」
「な、銀河、何食べる? 同じもんにしようよ」
「え……家で食うのにスか」
「なんだよ、いいだろー」
そんなことを言いながら、結局恋糸は、銀河と違うものを購入していた。
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