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第4話「夢の中」
「よっしゃ、銀河 来たなー!」
「え? え、えっと……」
夏の暑さと、秋の匂いの交じる時期。目の前の扉が開いた瞬間、中から恋糸 が勢い良く飛び出してきた。銀河は混乱して目をパチパチ瞬かせ、首を傾げた。
「遊園地行くぞ!」
恋糸は、驚いて固まっている銀河の肩を何度も叩きながら、彼を家の中に引きこんだ。
「よし。これ持て、これも持て」
突然のことで、未だ状況が掴めない銀河に、恋糸は水筒とリュックサックを押し付ける。銀河は、自分の姿が遠足の小学生のようになっていくのを、黙って見ていた。恋糸が部屋の奥に自分の鞄を取りにその場を離れたとき、ようやく銀河は口を開いた。
「……遊園地?」
「新しいアトラクションができたんだってよ!」
恋糸は、子どものようにはしゃいだ瞳を銀河に向けた。
「銀河と行きたいと思ってさ」
はにかみ笑いを浮かべた恋糸が、なんだか眩しく見えて、銀河は目をそらした。小さな声で、そスかとだけ呟く。銀河は、リュックサックをおろし、その中に持たされていた水筒を押しこんだ。
「……大丈夫スか、暑いのに」
「だぁいじょぶ」
恋糸は鞄を肩にかけ、帽子を被って玄関に戻ってきた。上機嫌で扉を開き、彼は銀河を振り返る。おいでおいでと手招きをする彼は、なんだか母親のようだった。
「……好きなんスか、遊園地」
「好きだよ。けど、一人じゃ楽しくないからな。行くのはひさびさだなー。楽しみだなっ、銀河」
恋糸はそう言ってにこっと笑った。その言葉を聞いて、何か、優越感のような気持ちの中で、銀河は小さく頷いた。
「よーし、行くぞ、銀河!」
恋糸は銀河の手を引っ張り、早足で歩き始めた。楽しそうに金の髪が揺れ、振り返った瞳はキラキラと輝いていた。
遊園地というものは、とにかく、すごい。
銀河は、大きな音と人の声、そして大きな建物に圧倒され、入り口を前にして立ち尽くしていた。
「……ああ、人混み嫌か?」
振り返った恋糸が、首を傾げて銀河に尋ねた。銀河は、恋糸の背後にそびえる大きな門を見ながら首を振った。
「ちげス……。ちょっと、びっくり……して」
「あは。慣れるよ。行こ、銀河」
恋糸は銀河に右手を差し出した。銀河はその手にそっと指先を乗せて、きょろきょろしながら恋糸の右隣にくっついた。
「……銀河の『びっくり』って、やっぱり『こわい』ってことか……」
銀河が顔を上げると、恋糸は口元に左手を当て、眉をひそめていた。
そのバツの悪そうな顔を見て、銀河はしばらく考える。恋糸は笑って、手に力を込めた。
「……怖いんだろ」
「あっ」
銀河は、驚いて恋糸から距離を取った。
「こ、怖くねス……! 出されたから、手置いただけで……。人多くて、邪魔んなると、思って……」
「あは。離れちまうのかー?」
恋糸は銀河の一連の行動を見てけらけらと笑い、それから自分の口元に手を当てた。
「寂しーなぁ」
彼の口元に、ふっと柔らかな笑みが溢れ、銀河は目を奪われた。彼は手をポケットの中に突っ込み、銀河の少し前を歩き出した。
入場ゲートを通り抜けると、そこには、異世界が広がっていた。色とりどりの建物が並び立ち、地面のタイルや植物の一つにさえ、人のセンスが加わっている。なるほど、この場所は、ひとつの完成された芸術作品なのだと理解した。
「銀河、遊園地来たことある?」
入場口近くの店の前で、恋糸はそう尋ねてきた。銀河は顎に手を当て、首をひねる。
「えっと……なんか、写真で見たス」
「写真?」
「母さんと父さんと、一緒に写ってるやつです。だから、多分……来たことあるんだと思います」
銀河はそう答えて、恋糸と共に店に入った。
店内には、店いっぱいにキャラクターのグッズが並んでいた。ぬいぐるみやキーホルダー、お菓子などがずらりと並ぶ中で、恋糸はさっそく物色を始めた。透き通った焦茶色の瞳が楽しそうに動くのを、銀河はじっと見ていた。
「じゃあ、つまり覚えてないってことか」
「そス」
銀河は頷く。すると、突然恋糸が振り返って、銀河ににこりと微笑んだ。
「なら、今日はめいいっぱい楽しんで帰ってもらわねぇとなー」
銀河の頭に、恋糸が何かをぽんと乗せた。それは妙に頭を締め付けて、心地が悪かった。
「あは、かわいーなぁ、銀河」
「……何スか」
いたずらっぽい顔をした恋糸に嫌な予感がした銀河が、そばにある鏡を見ると、そこには、動物の耳を模した飾りを頭につけた自分がいた。銀河はぎょっとして、カチューシャをはぎ取った。
「いらねス」
「バカヤロ。めいいっぱい楽しむにはな、こういうのが要るんだよ」
恋糸は自分の頭にも同じようなカチューシャをつけて、銀河に笑いかけた。
「似合うだろ?」
「……恋糸さんて何歳スか」
「ばか。そーいうのはな、ここではきくもんじゃねーんだよ」
恋糸は銀河の手からカチューシャを奪い取ると、値札をちらりと見てから辺りを見回した。どうやらレジを探しているらしい。
「これもさー、新しいやつで、ネットで見たときから銀河につけさしたかったんだよ」
恋糸はそう言いながら、楽しそうにカチューシャ二つ分の金を払った。銀河はその額に一瞬声を漏らしたが、恋糸の前では、なんとか無表情を貫いた。
店を出ると、銀河は、先程恋糸が買ったカチューシャによく似たものを頭に着けて歩くふたり組を見つけた。なんとなく、羞恥心がこみ上げる。
「……そんなに嫌かー? 俺に付き合ってくれよ、な」
恋糸は、先程買ったカチューシャを、早速自分の頭につけた。銀河の無表情から何を読み取ったのか、恋糸は銀河の頭をぐしゃぐしゃ撫でた。
「……嫌くねス」
「あは。そか」
銀河の頭にカチューシャをつけさせ、恋糸は満足そうに笑う。銀河は少しだけカチューシャの位置を直すと、おとなしく恋糸の横に並んだ。恥ずかしいから、なるべく一人になりたくないと思った。
「さ、楽しもうぜ、銀河」
「……もう一時スよ」
「こっからだろー、遊園地は」
恋糸はけらけら笑い、銀河の背中をパシパシ叩いて歩き出した。
マップを見ながら、恋糸は、銀河を引きずる勢いでシャキシャキ歩いていく。どうやら、ある程度は目的地があるらしい。しばらく歩いたところで、恋糸は銀河を振り返った。
「銀河、ジェットコースターとかは乗れんの?」
「……分かんねス」
「あー……。じゃ、一番怖いやつから行っとくか」
「えっ、なんでスか」
銀河はぎょっとして立ち止まる。恋糸が、いたずらな笑みを浮かべた。
「だって、最初に乗っとかねーと、二個目からは乗らなくなるかもしれねーじゃん」
恋糸は、銀河の腕を掴み、つかつかととある列に並んだ。薄暗い場所に通されて、銀河は思わず立ち止まる。突然のことに、前を歩いていた恋糸はつんのめり、慌てて振り返った。
「どした、銀河」
銀河は俯いて首を振った。恋糸は、きゅっと軽く腕を引っ張って、優しく微笑みかける。
「おいで。そんなに怖くないからさ」
「……信じるスよ」
「あは、ばか。神と色男は信じちゃいけないんだぜ」
「じゃ乗らねス」
「乗れって」
恋糸は苦笑した。しばらくの間、二人は道の途中で立ち止まっていた。銀河は、こちらをニヤニヤと見つめるばかりで、全くこちらの意見を聞く気がない様子の恋糸に、やや腹が立っていた。
「あは、お前意地になってるな。乗ったら楽しいって」
「意地とかじゃないです」
銀河は、むっと顔を歪めた。恋糸が、楽しそうにくすくす笑う。
「ほら、人の邪魔になるだろ。行くぞ」
後ろから人がやってきたところで、ようやく観念した銀河が足を踏み出した。
「……乗ってみるス」
「あは、偉いなー、銀河は」
恋糸は、いつものように銀河の頭を撫でようとしたが、カチューシャに阻まれ、仕方なく肩を叩いた。柔らかいような気さえする薄っぺらな肩がびくっと跳ね、銀河は不機嫌そうな顔をした。
「怖かったら二度と乗らねスよ」
「分かってるよ。かわいい銀河に、そんな酷いことするわけ無いだろ」
恋糸はそう言ってけらけらと笑った。
しばらく、列にあわせて歩いたり立ち止まったりを繰り返している内、他のエリアより少し高くなっている場所に出た。暇そうに辺りを見回していた銀河が、ふと何かに指を伸ばす。
「……小さい頃……、確か、アレに乗りました」
「ん? どれ?」
「アレです。船のやつ」
銀河の指の先には、可愛らしい小さな遊具があった。船で水の上を一周するだけの、地味で子供向けのアトラクションだ。
「へーっ、かわいいなー」
小さな銀河が、それに乗っているところを想像すると、なんだかかわいくて、あのアトラクションが面白そうに見えてきた。きっと、無愛想にも見えるその顔の下で、見たことのない遊具に怯えていたのだろう。
「てかお前、そんな小さい頃のことをよく覚えてるなー。俺なんてちっとも覚えてねーよ」
「……俺は、覚えておきたいことが少なかったんで」
銀河は、少し微笑んだ。
「あと、覚えてるわけじゃねスよ」
「ん? そなのか?」
「昔、家にアルバムがありました。母さんが作ったやつだと思うんスけど……」
銀河はそう言って口元に手を当てた。懐かしむように細められた瞳には、愛情が深く映っていた。
「俺の父さんも、写真撮るの好きだったんで……」
「……へー、いい母さんと、……父さんだな」
恋糸は、何故か少しだけ言葉を詰まらせた。
「父さんは遠くに住んでたんで、あんま会えなかったんスけど……、でも、よく写真撮ってくれたの、覚えてるス」
銀河は、柔らかく微笑んだ。恋糸は、その顔をじっと見つめていた。
「あと、父さんのカメラで遊んだら褒められたス。怒られると思ってたんスけど……」
「……そうか。銀河、嬉しそうだな」
恋糸は銀河の頬に指を添え、目を細めて笑った。その顔は、いつどこで見た彼の顔より、穏やかで、優しかった。
「分かるスか?」
「んー? わかるよ、お前家族大好きなんだな」
「そス」
恋糸は銀河の頬に手を伸ばした。そのまま、頬を指で撫でる。まるで猫のように、気持ちよさそうに目を細める銀河を、恋糸はぼんやり見つめた。
悪いことをしているような気持ちと、そんなことはどうでも良くなるほどのそうしたい気持ちが混ざって、恋糸は手のひらを滑らせる。ぼんやりと夢を見ているような心地で、恋糸は口を開いていた。
「……なあ、銀河。お前の……」
声が出たところで、恋糸ははっとした。慌てて口をつぐむ。
「…………お前のご両親はどんな人だったんだ?」
「あんま覚えてねス。でも、優しかったですよ」
「だからこんなに優しい子が育ったんだなー」
恋糸は目を細める。銀河は嬉しそうに瞳を輝かせた。どうやら、傾いていた機嫌は直ったらしい。
「恋糸さんのお母さんとお父さんはどんな人スか」
恋糸が、にこにこと、てきとうな笑顔を浮かべていると、銀河がそう尋ねてきた。恋糸は胸をなでおろし、愛想笑いを解いた。
「んー……美人とイケメンだな」
「そんなのは見れば分かるス」
恋糸は、当然のことだと思いつつも、ほんの少しだけ誇らしいような気持ちで笑った。
「……あは、普通だって。父さんはちょっと芸能界かじってたけど、母さんも父さんも普通」
「普通って言われてもよく分かんねス」
「あー……優しいよ」
恋糸は足元に目を落とす。伏せられたまつげの奥で、琥珀の瞳が揺れた。
「たまに帰るとすげー心配される。俺がいつまでも一人でいるからさー。あの人たち、俺が他人と暮らせないくらいの変わり者だって、なんでか気づいてねーんだよ」
「……不思議スね」
「失礼だな」
「恋糸さんが言ったじゃないスか」
「そういうときはな、そんなことないって言うんだよ」
銀河は首を傾げ、納得いかないを前面に押し出した顔をした。
「……嘘はよくねス」
「失礼だなー」
恋糸はけらけら笑う。適当な間隔で並んだポールの一つに腰掛け、彼は腕を組んだ。
「ま、いい人たちだよ。俺見りゃ分かるだろー?」
今度は、銀河はおとなしく頷いた。
恋糸は目を伏せる。彼が、これほど純粋で、清らかで、嘘偽りのないのは、彼が子どもだからだろうか。見えているものだけを、ただ純粋に信じ込む姿が、恋糸には眩しかった。
「会いたきゃ、今度の正月とか銀河も連れて行ってやるよ」
「……いいス……俺喋れねぇんで」
「大丈夫。喋んなくても勝手に喋るから、あの人たち」
「恋糸さんみたいスね」
「そりゃそう、だって親子だからな。お前だって似てるだろ?」
「分かんねス」
「……いや、お前多分めちゃくちゃ似てるよ」
恋糸は小さな声で呟いた。
銀河は嬉しそうにはにかみ、先程までの不機嫌を一切忘れさったかのように、楽しげに一歩踏み出した。
「……ま、お前が来たかったらおいで」
恋糸は笑った。銀河は恋糸を振り返ると、こちらをじっと見つめ、不思議そうな顔をした。
「銀河、準備いいか」
「よくねス」
「お、いいね、準備万端だ」
「よくねス」
ジェットコースターは、ゆっくりと坂を登っていく。等間隔で聞こえてくる、カンカンという高い音が、心臓を強く刺激した。重力が自分を強く引っ張っていくにつれて、どんどん不安になっていく。
銀河は、顔を青くしてぎゅっと安全バーに捕まった。
「あは、そんな怖がんなよ。飛んでったりしねぇから」
「嫌ス」
先程から、銀河の声が妙に大きく、かなり震えている。恋糸は楽しくなって笑った。
「……なら、手でも握っとくか?」
「え」
恋糸がにやりと笑ったその瞬間、コースターは突然傾いた。ふっと臓器が浮いたような感覚がして、次の瞬間には安全バーに身体が引っ張られていた。
「ぅわ……っ!」
風の感覚。というより、ほとんど圧。
臓器がふわりと浮く感覚だけがこびりつき、あとはもう、ただひたすら、なにかに引っ張られているだけ。重力が、身体を引き千切るように振り回し、内臓を押しつぶすようにのしかかる。
ガコン、とジェットコースターが止まったとき、銀河は恋糸の手にすがりついた。これには、恋糸のほうがびっくりして手を引っこめかけた。
「……なんだ、怖かったか?」
「も、乗らねス……」
「あは、ほら言った。言うと思ったんだお前は。なんせヤメヤメ男だからな」
安全バーが上がると、恋糸はすっと立ち上がった。荷物を取りに向かおうとしたが、隣に座っている銀河が一向に立ち上がろうとしない。
彼は恋糸の腕をぎゅっと強く掴んで、混乱した表情で震えていた。
「どした、立っていいよ」
恋糸は銀河の手を引っ張る。銀河はその勢いに乗って立ち上がったかと思うと、今度は恋糸の胸の中に飛び込んだ。恋糸は混乱して、眉をひそめる。
「……なんだ、熱烈だなー?」
「ち、ちげス、助けてください」
銀河は顔を上げ、恋糸に縋るような目を向けた。
「ま、まっすぐ歩けねス……」
恋糸は目を瞬かせて、固まった。プルプルと子鹿のように震える銀河が、あまりにも可哀想で、恋糸は銀河の身体を引っ張ってコースターの外に連れ出した。
銀河がふらふらと床に座り込み、恋糸はその背をさすった。
「大丈夫か」
荷物を全て手に持って、恋糸は銀河の腕を引っ張る。銀河はゆらりと立ち上がり、恋糸の手を追いかけるようにして歩き出した。
「……悪かったよ。大丈夫か。びっくりしたな」
「ス……」
「ほら、少し休憩しよう。昼飯もまだだろ」
恋糸は、出口の先にあるカフェを指差した。銀河はこくりと頷いた。
しばらく休憩していると、落ち着いてきたのか、銀河が園内マップを読み始めた。恋糸は軽食を口にポイポイ放り込みながら、その様子をじっと見つめる。
銀河はマップの中を指でなぞりながら、静かに何かを探していた。
「……何探してるんだ?」
「観覧車ス」
「ん? 観覧車?」
「乗ってみたいです」
観覧車。恋糸は気付かないうちに眉をひそめていた。
「あはー……観覧車……」
「嫌スか」
「いや、いいよ、銀河が乗りたいなら……」
銀河は首を傾げる。恋糸はごまかすために愛想笑いを浮かべた。
「銀河、どうせなら日暮れに乗ろう」
「じゃあ、これ乗りたいス、先に」
「ああ、いいね。そうしよっか」
恋糸は口にポテトを放り込むと、パタパタと手を払い、トレイを持って立ち上がった。銀河は、先程の恋糸が、一瞬やけに嫌そうな顔をしていたのが気になっていたが、彼が何も言わないならと、特に何も言わなかった。
銀河と恋糸は、それから様々なアトラクションに乗り込んだ。銀河は、特に装飾に凝ったアトラクションを気に入った。使われている色の比率や、建物の高さや大きさの均衡について銀河が語り始めたときは、さすがに恋糸も笑ってしまった。
日が暮れ始めた頃、二人は観覧車に乗り込んだ。ゴンドラの中は涼しく、銀河はカチューシャを外して頭を振った。
「涼しんスね。暑いかと思ってたス」
「……そりゃ、こんな一周何十分の箱がずっと暑かったら、帰り着く前に死んじまうだろ……」
恋糸は俯いたまま、そうぼそっと愚痴を吐くように言った。銀河は目を瞬かせ、首を傾げた。
「大丈夫スか」
恋糸はびくっと肩を震わせる。床をじっと見つめたまま、何も言わずにいると、銀河が呆れた顔をした。
「無理ならなんで早く言ってくれねんスか」
「か、かっこ悪いだろ」
「かっこ悪いけど、だからっていつも恋糸さんがかっこいいわけじゃねス」
「失礼なやつだな……!」
恋糸は、そう言って前かがみに座り込んだ。自分の肩に手を当て、足をすり合わせる。
「あー……ゾっとする……」
「……大丈夫スか」
恋糸は首を振る。銀河は、自分の手のひらを、何故か一度じっと見つめてから、差し出してきた。
「手握るスか」
「いいよ、怖いもんは何したって怖いもん……」
「……恋糸さんって甘えんぼですね」
「どこがだよ」
「喋り方と行動がスけど……」
恋糸は引き攣った笑みを浮かべた。
「なんだぁ? 調子に乗りやがって、このかわいこちゃんはー。俺がちょっと弱ってるのをいいことにツケツケと……」
「あ、恋糸さん、夕焼けが綺麗スよ」
銀河は、ガラスに飛びついた。赤く染まった空を映して、銀河の瞳がゆらゆら燃えた。
「……すげー……」
「…………銀河は好きなんだな、こういうの。怖くないのか?」
「俺は、景色きれいな場所が好きス。どこでも」
「へー、いいじゃん。ついでにカメラもやったら?」
「金ないス」
「あは、ま、スマホもないんじゃなー」
恋糸は小さく笑って目を瞑った。
「それに、俺は撮るより見るほうが好きス」
恋糸はほんの少し目を開けて、そうだろうなと笑った。
「恋糸さんは、いんスか」
銀河がふと尋ねる。恋糸は首を傾げ、銀河を見上げた。
「綺麗スよ、夕焼け」
恋糸は、なるべく下の景色を見ないようにして微笑む。
「……撮らなくていいのかってこと?」
「そス」
「あは、いいんだよ、どうせ何にもならねーから」
「……そスか」
銀河は、残念そうに頷いた。それから、窓の外を見る。赤く染まった横顔は、寂しそうに見えた。
「でも、俺は好きス」
恋糸は膝に肘をつき、ふっと笑った。
「……なんだ、俺がか?」
「今写真の話してたスよ」
「あは、冷たいなー」
恋糸は苦笑する。銀河は、恋糸を怪訝そうな顔で見つめていた。
「……あ、でも」
「ん?」
「でも、恋糸さんといるのも好きス」
銀河はまっすぐに恋糸を見つめ、ほんの少し笑った。恋糸は目を見開き、それから、ゆっくりと、頭を抱えた。
「あは」
この溢れ出る感情を、一体どうやって扱えばいいのだろう。その中の一つでも彼に伝えてやりたいが、一つでも伝えてはいけない気がした。恋糸は、頭を抱えたまま、眉をひそめて笑った。
顔を上げると、銀河が、不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「どしたー? そんなにかわいく媚びたってな、俺はラーメンしか奢ってやらねーぞ」
「夜、ラーメンにするんスか」
「……ラーメンがいいのか?」
銀河は、嬉しそうにこくりと頷いた。恋糸はもう何もかもが面白くなって、くつくつと笑いながら言った。
「分かった。降りたら調べてやるよ」
「なんでそんな笑うんスか」
「何でもねぇよ。銀河がかわいいから笑ってんだ」
「笑わないでください」
銀河は眉をひそめる。ゴンドラがてっぺんを過ぎた頃、恋糸は突然銀河に手を伸ばしてきた。銀河が目を見開く。恋糸は、銀河の後頭部を手のひらで抱え込むと、震える腕で、そのまま優しく頭を撫ではじめた。銀河は驚いていたが、特に何も言わず、ゴンドラが地上へ帰るまでの間、ただおとなしく俯いていた。
「ビール一杯無料キャンペーンやってます! いかがですか?」
「ああ、結構です。ありがとう」
恋糸はにこりと微笑む。微笑まれた店員は、それだけで、キャンペーンを無理矢理押し付ける仕事も忘れて厨房へ帰っていった。
特に評判がいいわけでもないラーメン屋。帰り道にあるというだけの理由で選んだが、案外悪くない店だ。少しだけ騒がしい店だったため、銀河がおどおどしているのは気がかりだったが、少し話すうちに慣れたようだ。
「……恋糸さん、お酒いんスか」
「あ? ああ、いいよ」
「お酒嫌いなんですか?」
「あは、未成年と来てるのに飲めるかよ」
恋糸はそう言ったが、銀河は不満そうだった。
「……いスよ、のんで」
「ばか、誰が責任者だと思ってんだ。……銀河が大人になったら一緒に飲もうな」
恋糸がそう言うと、銀河は少し嬉しそうな顔をした。
「……大人に……なったら」
しかし、そう呟くと、今度は暗い顔になった。
恋糸は眉をひそめ、肘をついた手で潰れた頬を持ち上げた。
「……あは、ならねぇつもりか? 大物だなぁ」
「大人には、勝手になるもんスよ」
「あはっ、大物だなぁ!」
恋糸はげらげら笑いながら手を叩いた。そんな大袈裟なおとぼけなどは銀河には通じず、彼は首を振った。
「違くて……」
「……何が違うんだ?」
「……俺は、大人になるまで、恋糸さんといられるんスかね」
銀河の言葉に、恋糸は目を見開いた。俯いてしまった銀河は、いつもよりも幼く見えた。
「……ばかだな。夢からの帰り道に、そんな寂しいこと考えんなよ」
恋糸は銀河の丸い頭を撫で、柔らかい頬を優しく叩いた。
「俺だって、お前といたいんだから」
恋糸の言葉に、銀河は小さく頷いた。
こうやって、いつまでも。恋糸はそれを、切に願った。
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