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第5話「しあわせ」
午前十一時。インターホンの音が耳に届き、床で寝ていた恋糸は勢い良く起き上がった。すぐそこに落ちていた白いTシャツを着て、急いでドアまで向かう。
「銀河!」
「……こんちは、恋糸さん」
「暑そうだなー」
恋糸が声をかけると、銀河は帽子に手を当てて、小さく微笑んだ。彼の首には汗が伝い、頬は少し赤く染まっていた。
もう季節は秋に差し掛かっているというのに、暑さは一向に消える気配がない。銀河のような仕事をしているとさぞ堪えるだろう。
「お茶でも飲むか、銀河」
「車にあります」
「そーかい。ちゃんと飲めよ」
恋糸は銀河から荷物を受け取り、品名と宛名をさっと確認してから床に置いた。
「銀河、サインは?」
「あ、これ要らねス」
「ああ、そう。……あ、今日はどうする? 夜飯、準備しておこうか」
「恋糸さん、俺もうパスタ飽きました」
「えー?」
恋糸は苦笑い混じりにそう声を上げた。
最近、銀河はとうとう、夕飯を食べにくるようになった。しかも、ほぼ毎日やって来る。家に夕飯が用意されてないときだけ来な、と恋糸が言ったところ、毎日来るようになったのだ。銀河はそれを当然のように受け入れていたが、恋糸は正直驚いていた。彼の家庭が少しばかり気になりはしたが、銀河が毎日のように隣に居てくれるのが嬉しくて、恋糸は黙って夕飯を作った。
銀河は次の荷物の確認をしながら言った。
「俺、唐揚げがいいス。揚げたて」
「えー、やだよ。面倒だし、今油ないし……パスタでいいじゃん。あ、ペペロンチーノにするからさ」
「もうパスタはイヤです」
恋糸は苦笑いを浮かべ、玄関の壁にもたれかかった。
「図々しいな……」
「図々しくないス。だって、もう一ヶ月くらいずっとパスタですよ」
「ちゃんと牛丼も挟んだだろ」
「結局米がなくて牛パスタになったじゃないスか」
そういえばそんなこともあったかも、と恋糸は頭の片隅で思う。自分が腐っている自覚はあったが、あの日はまさか、米すら用意できないとは思わなかった。
「分かった……。唐揚げ作ればいいんだろー……」
恋糸はため息をつき、それから苦笑いを浮かべた。
「……はは、もう……。銀河かわいくなったなー」
恋糸は銀河の頭を帽子越しに撫でた。銀河は、はじめ驚いた顔をしていたが、すぐに嬉しそうに目を細めた。
「好きス、恋糸さんの料理」
「あは、かわいい奴め」
ぐしゃぐしゃと、帽子がズレるまで頭を撫で回し、恋糸は満足げに笑う。ぽんと背を叩きながら、彼を部屋から押し出した。
「ほら、早く行け。また遅くなるぞ。頑張れよ」
「はい」
銀河は帽子を元の位置に戻しながら、小走りで去って行った。
恋糸が扉を閉めて部屋に戻ると、男が床に座って携帯を弄っていた。それを見て、恋糸はまた、現実に引き戻されたような気がした。
「……かわいいね、あの子」
男は、携帯の画面を見つめたまま言った。彼はかなり古くからの知り合いで、名前はショウと聞いている。
「そだろ?」
「どれくらいセックスしてんの?」
「はあ?」
ベッド周りの服を回収していた恋糸は、振り返ってショウを睨んだ。
「しねぇよ、馬鹿。十六歳だぞ。俺は未成年から金取るほどは落ちぶれてないね」
「そうだった。お前そういう感じだったな」
ショウはそう言って小さく笑い、頭をかきながら横になった。
「じゃあ、お前無料で飯作ってんの? あの子に」
「そうだよ。銀河といると、俺はマトモに生きてられんの。銀河のために洗濯もするし、掃除もする。銀河が、俺をマトモな生活に戻してくれてんの。飯はそのお礼だから」
「けど、お前戻れてねぇじゃん」
ショウは恋糸に一万円札を渡すと、にやっと笑った。それから、あてつけのように自分の財布の中身を確認し始める。
「……じゃ、俺たちから取った金で、あの子と純愛ごっこしてるのか」
「取ったなんて人聞きが悪いなぁ。ビジネスだろ、これは」
「はは、好きなことで金をもらえるなんて良いビジネスだなぁ! あの子、お前がこんなことしてるって知ったら、もう来なくなっちまうんじゃねぇの?」
「そうだろうな」
恋糸はそう言って服を脱ぎ、洗濯機に放り投げた。
「……依存症ってのは怖いねぇ」
「依存しちまったもんは仕方ねぇ。……皆、ちょっとでも腹が減ったら飯食うだろ。それと同じ」
「はは、じゃあ、あの子は非常食みたいなもんか?」
恋糸はクローゼットから新しい服を引っ張りだすと、ショウの言葉を無視するかのように勢い良く頭を通した。
「なあ、ホスト戻ってこいよ。お前向いてたって! お前はライラみたいにマトモに働いてるわけでもないんだしさ」
「……俺は今の生活でいいんだよ」
「そんなにあの子気に入ってんの?」
ショウは、信じられないという顔をして、床に寝転がった。恋糸はそれを蹴り飛ばしながら、壁にかけてある服に手を伸ばす。
「なら恋糸、また客を紹介してやろうか。最近減っただろ? 知り合いでさ、イイヤツがいるんだよ」
「……いや、いーよ。十分」
「そうか?」
恋糸は自分の髪にクシを通し、傷んだ毛を一つに束ねた。
「……どこに行くんだ?」
「……聞いてただろ。唐揚げの材料買いにいくんだ」
嬉しそうな恋糸の横顔を、ショウはじっと見つめた。
「米も、忘れたら怒られんじゃない?」
「ああ、そうだった。…………俺の炊飯器ってまだ動くっけ」
恋糸は鏡の前で身なりを整えてから、キッチンの前でしゃがんだ。床に置いてある炊飯器を持ち上げる恋糸の顔は、穏やかだった。
「はあ……。じゃ、俺も帰るか……」
「ああ、すぐ帰れ。延長料金取るぞ」
「クソビッチ」
恋糸はヘラヘラ笑いながら、炊飯器を床に戻した。ショウは伸びをして立ち上がり、そのまま玄関に向かった。
「あの子が、お前のこと楽にしてくれてさ、いつか、またお前の写真が見られるといいな」
「……馬鹿。俺はもう、多分無理だよ」
団地の入り口まで行くと、ショウは何も言わずに恋糸と反対方向へ歩き出した。恋糸も、何も言わずにスーパーへ向かう。
まだ高く上ったままの陽を睨みつけながら、恋糸はゆっくり歩いた。
仕事場から恋糸の家に向かう間、銀河はずっと唐揚げのことを考えていた。銀河は、特別唐揚げが好きなわけではなかった。しかし、なんとなく、「唐揚げは特別な料理」というイメージが、彼の中にはあったのだ。そのため、その特別なおねだりを聞いてもらえたことが嬉しくて、銀河は今日一日、唐揚げのことばかり考えていた。
恋糸の住むマンションに辿り着くと、銀河は慣れた調子で階段を駆け上った。古いマンションの部屋部屋からは、今日も治安の悪い音が漏れている。
銀河がいつものように家の扉を開けると、何故か、玄関に恋糸が座っていた。銀河は驚いてびくっと体を震わせたが、驚いたのは恋糸も同じだった。恋糸は銀河よりも大きく飛び跳ねたあと、へらへらと愛想笑いを浮かべ、銀河を見上げた。
「びっくりした……銀河おかえり」
「どうかしたんですか?」
扉を開き、その違和感を認識してすぐ、銀河は恋糸に尋ねた。
「い、いやぁ……」
恋糸は身体をくねくねさせ、目をそらした。それから、誤魔化すように勢い良く立ち上がると、入ってきたばかりの銀河の身体を、外に向かってぎゅうぎゅう押した。
「ぎ、銀河! 今日外に食べに行こうか! ほら、うまい定食屋知ってるからさ、そこに」
「え……」
銀河は悲しそうな顔をして、ぽつりと言った。
「……俺、恋糸さんの唐揚げが食べたかったです」
「ゔぅーーーーん……」
銀河の言葉に、恋糸が奇妙な唸り声を発して頭を抱えた。銀河が驚いて、どうしたものかと狼狽えていると、恋糸は突然顔を上げ、銀河の前でぱちっと手を合わせた。
「……銀河ごめん、でも、今度……今度食わせてやるからさ。今から用意すると大変だし、な」
「ないんスか……」
「ない」
恋糸にはっきりと言い渡され、銀河は玄関でしょげかえってしまった。もちろん、唐揚げを確信していたわけではなかったが、少し期待していたのだ。
寂しそうな銀河の背中を、恋糸は優しく押した。
「ほら、美味いもん食いにいこ」
「……も、もしかして、嫌だったんですか、作るの……」
「いや、違う! 違うけど、銀河……」
そのとき、部屋の奥で、炊飯器が突然、愉快な音楽を奏ではじめた。銀河は目を見開いて振り返り、恋糸は俯いたまま固まっていた。
「……米、炊いてるんスか? 今から外食しようとしてるのに……?」
「いやっ……。炊い……たけど……」
恋糸は、身体がひやっとした変な汗をかいているのを感じていた。どうごまかしたものかと、銀河を見る。すると、彼の黒い瞳がまっすぐに恋糸を貫いた。その瞳は、ただ、恋糸に理由を尋ねていた。恋糸は観念して、ため息をついた。
「実は……」
「ホントだ、真っ黒ですね」
「な? こんなの、かわいい銀河には食わせらんないから、外に行こ……?」
銀河は、じっと、目の前にそびえ立つ黒い山を見つめた。
食べ物とは思えないほどの、漆黒の衣。もはや、それを衣であると認識することが不可能なほどで、辺りには炭の香りが漂っている。一体何をしたら、こんなことになるのか。銀河は、自分でももっと上手く作れる、とさえ思った。
銀河は、しばらくそれらを見つめたあと、意を決してその一つをつまみ、ひょいと口に放り込んだ。
「あっ!」
「熱ッ……!」
銀河は口を押さえて縮こまる。
「な、何してんだお前っ。バカヤロ! 出せ出せ!」
恋糸は手を差し出したが、銀河は首を振る。恋糸は銀河の背中に手を当て、彼の顔を覗き込むように顔を傾けた。
「……いんだぞ銀河、無理矢理食わなくて。マズイもん食わせたくねーからさ」
銀河はまた首を振る。こく、と小さく喉を鳴らし、彼は顔を上げた。
「……うまいス、恋糸さん」
銀河は、目をキラキラさせてそう言った。恋糸は面食らって固まった。
いくら銀河の舌が馬鹿でも、これは流石に食べ物として認識していいはずがない。恋糸は疑いの目を彼に向けた。
「嘘だー……流石に……」
「マジです。食べてみてください」
銀河は、唐揚げを一つつまんで恋糸に差し出す。恋糸は、その真っ黒の塊を睨みつけてから、思い切りかぶりついた。
「……おいしい!」
「スよねっ。焦げた味はするけど、うまいス」
「なんでだ……? 見た目は炭なのに」
「匂いも炭ス」
銀河は、上機嫌でシンクの側まで駆けていき、食器棚を覗きこんだ。簡易的に作られたその食器棚の中を、ガッチャガッチャと荒らしていく。
「何してんだ」
「米食うス」
「茶碗右だよ」
「……あった。……しゃもじどこスか」
「あー……あったっけ……?」
恋糸は立ち上がり、食器棚の近辺を漁りだした。銀河は茶碗を水にくぐらせ、いそいそと炊飯器の前に座る。
「……ねーわ銀河。スプーンでいい?」
「いス」
銀河はスプーンを受け取ると、茶碗に米を乗るだけ乗せて、一つを自分の前に、もう一つを恋糸に渡した。
「これ誰の」
「恋糸さんス」
「俺こんな食わねーよ」
恋糸はくつくつ笑って、銀河からスプーンを奪い取り、米をいくらか炊飯器にもどした。
「じゃ座れ」
銀河は、溢れるほど米を乗せた茶碗の前に座る。その前で、恋糸は静かに手を合わせ、小さくお辞儀をした。
「……いただきます」
「いただきます」
銀河は、真っ黒な唐揚げを噛みちぎってご飯をかきこむ。ぺろりと唇を舐めては、また唐揚げに箸を伸ばす姿を見て、恋糸は笑った。
「おいしい?」
「うまいス」
上機嫌な銀河は、いつもより早いペースで口に食べ物を放り込んでいく。小動物が、食べ物を溜め込んでいるときの映像によく似ている気がした。恋糸は机に肘をつき、銀河に右手を伸ばす。恋糸の右手は、銀河の口元を滑り、すぐに離れた。
「よかったな銀河。ご要望通り揚げたての唐揚げだぞ」
「ん、うまいス。やっぱ恋糸さんの料理はおいしい」
「褒めたって、俺からは飯とお小遣いくらいしか出ないぞー」
「あと綺麗な写真が出るス」
そう言って、銀河が顔を上げると、恋糸は箸を持ったまま、じっと固まっていた。何かを考え込んでいるのか、思い出しているのか、彼は箸先をじっと見つめたまま、寂しそうな顔をしていた。
「……恋糸さん?」
声をかけると、ぼんやりとしていた恋糸がゆっくり顔を上げた。恋糸は、小さく笑みをこぼして、銀河の髪に指を滑らせる。側頭部を撫でられ、銀河はくすぐったそうに肩をすくめた。
「……銀河、髪が少し伸びたんじゃないか」
「今度切るス」
「あ。じゃあ俺の知り合いの美容師に安くしてもらう? いいヤツだから」
「え、いや……。俺、同じとこしか行かねんで……」
「ああ、そっか。お前人見知りだったな」
恋糸は苦笑する。銀河は米粒をかき集めながら、また炭の山に箸を向けた。
「……恋糸さんは、いろんな人と知り合いスね」
「あー、いろんなところで写真撮らしてもらったからなー」
恋糸はくつくつと笑いながら、座椅子の背によりかかる。
「結構どこにでも知り合いがいるぜ。銀河が何か困ったら、俺のところにおいで」
銀河は、小さな声で、いス、とだけつぶやき、もくもくと白米を口に入れ続けた。
「いろんな人と話ができんの、憧れます」
「あは、銀河は苦手なんだもんな」
「ス」
銀河は頷いた。
「でもやっぱ、なによりみんな、恋糸さんの写真が好きだから、恋糸さんに良くしてくれるんスよね」
銀河はそう言って、炊飯器を開けた。
「俺も好きだから分かります。恋糸さんが困ってたら、力になりたい。いつか、また写真撮ってほしいス」
恋糸は目を見開き、しばらく固まったあと、苦笑した。
「……あは、お前は俺の写真が好きだなぁ」
恋糸は銀河の頭をぐわぐわ撫で回した。
「恋糸さん、写真の話してるときが一番楽しそうなんで」
銀河の言葉を聞いて、恋糸は彼の頭から手を離した。
本当に、よくものを見ている。心の奥底を見抜かれたような、そんな気持ちになって、後ろめたさと恥ずかしさに、つい笑っていた。
「……よく分かってるなぁ、銀河は」
「余裕ス」
銀河は白米を頬張り、得意げに笑った。
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